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21、まさかの遭遇!
「……入ってもいいのかなぁ……」
『hideout』で忍に話を聞いてもらったあと、空はこっそり、夕暮れ時の高城音楽大学のキャンパスにやって来ていた。累は今日も、ここの大ホールで練習に臨んでいる。
何も累を見張りに来たわけではない。街へ出たついでに音大へ立ち寄って、累と一緒に帰宅できたらいいかな……と考えたからだ。そして、あの日自分勝手に累を怒ってしまったことを、謝りたかった。
休日とはいえ、音大生の出入りは多い。音楽祭の日は一般に向けて開かれていたけれど、今日はなんということのない普通の休日だ。ここの学生でもなければまだ高校一年生の空は、あまりにも浮いて見えることだろう。
空がきょろきょろとあたりを見回していると、ちょうど正門から出て来た学生に怪訝な表情をされてしまった。正門付近をただうろついているよりは、学内のベンチにでも腰掛けていた方が怪しくは見えないかもしれない――そう考えた空は勇気を振り絞って、高城音楽大学の中へと足を踏み入れた。
洒落た建物が整然と並ぶキャンパス内を物珍しげに眺めながら、目的地を目指す。高校とは比べものにならないくらい広くて、まるで一つの街のような場所だと感じた。ゆくゆく、累もここで音楽を学ぶようになるのだろうか。それとも……また、海外へ行ってしまうのだろうか。
いつか、壱成がなんの気なさそうに口にした言葉を思い出すと、空は少し寂しくなってしまう。累がどういう進路を考えているのかは分からないし、まだ高校一年生なのだが気が早すぎるのかもしれないけれど、音楽家だらけの世界にきてしまったせいだろうか、ついそういうことを考えてしまう。
なんとなく迷子になってしまったかのような心細さを感じた空は、ふと自動販売機を見つけ、そちらに歩み寄っていった。温かいものでも飲んで、少し気を取り直したほうがいいと思った。
斜めがけにしていたサコッシュから財布を取り出し小銭を探していると、軽い足音が聞こえて来た。その足音の主は自動販売機の前で立ち止まり、空の隣でサッサと小銭を入れ、ホットの缶コーヒーを購入した。
何の気なしにその青年の姿を見た空の手から、チャリン、チャリン……と小銭が滑り落ちてゆく。
「ん? お金落ちてはりますけど、大丈夫です……か……」
ひょいと手を伸ばして空の落とした百円玉を拾い上げた青年と、バッチリ目が合う。相手も空には見覚えがあるようで、軽く息を呑んでいる様子が伝わって来た。
すっきりとした細身のジーパンに黒いスニーカー、もこもこしたボア素材の上着に身を包んだ痩身の青年……それは、紛れもなく、あの石ケ森という男だ。今まさに空をモヤつかせている相手と遭遇してしまい、咄嗟に言葉が出なかった。
「天才クンの練習、見に来はったん?」
「へっ……?」
先に言葉を発したのは、石ケ森のほうだった。すでに買った缶コーヒーを空に手渡し、自分はまたポケットから小銭を取り出して、新しいものを買っている。そして今度は正面から、空に向き直った。
「休憩中やねんけど、累クンはマエストロに熱心な指導を受けてはるところやから、今は会えへんかも」
「あっ、いえ……! そういうんじゃなくて、俺……っ、その……」
まさか話しかけられるとは思っていなかったため、空はあたふたしながら石ケ森に小銭を返そうとした。が、石ケ森はそれを断り、「まぁ、ちょい座ろか」と言ってベンチの方へと歩き出す。
中庭をぐるりと囲む通路に、等間隔で置かれたベンチ。その一つに腰を下ろした石ケ森が、視線で空を呼ぶ。一体何を話すつもりなのだろうと身構えつつも、空はベンチに浅く座った。
石ケ森の視線を感じながら、空はごくりとコーヒーを飲んだ。飲み慣れないブラックコーヒーの味にやや渋い顔をしていると、石ケ森がくすりと笑う声が聞こえてくる。ちら、と空は視線を上げた。
「何か用事でもあらはったん? わざわざこんなとこにまで来るなんて」
「べ、別に用ってほどのことじゃないんです、けど……」
「ほな、彼氏をびっくりさせたろみたいな演出?」
「ち、違っ……!! てか、彼氏……って」
「空くん、やろ? きみ」
何かを試すような石ケ森の物言いに、緊張感が高まってゆく。この男は、累と空が交際していることをよく知っているかのような口ぶりだ。累はそんなことまでこの男に話していたのか……と驚いてしまう。
「……え、ええ……そうです」
「へぇ……可愛らしいなぁ。お似合いや」
「……」
「ふふ、まぁそう硬い顔せんといてよ。……ところで、累クンと喧嘩でもしてはんの?」
「えっ」
――累、俺と喧嘩したことまでこの人に話してんの……!?
そう思った瞬間、指先がすうっと冷える。累とこの男の親しさを生々しく感じてしまい、心臓が妙な音を立てて早鐘を打ち始めていた。
「な、なんで……?」
「ああ、別に累クンから聞いたわけちゃうで。あの子の音聴いて、なんとなくそうなんかなて思っただけ」
「音……?」
空の立ち入ることのできない世界、『音楽』という明確な一線を引かれ、思わずたじろぐ。この二人の音楽的な関係性については重々理解しているつもりだったが、こうして面と向かって空の知らない累の姿を語られてしまうと、複雑な気持ちに襲われる。
日常的に累の音色を耳にしているからこそ、石ケ森はその違いが分かるのだろう。しかも、ものすごく正確に……。敗北感にも似た感覚に襲われて、少し頭が痛くなった。
だが、ここでぐらつくばかりではいられない。空はブラックコーヒーをぐびぐびと飲み干してぶはっと息を吐くと、気を落ち着けるように深呼吸をした。
「累……調子悪いんですか?」
「調子悪いってほどでもないけど、もう公演三日前やからなぁ、マエストロもピリピリしてはって」
「えっ、そんな……」
「とはいえ、オケのメンバーともええ感じにまとまってきて、完成度も上がってる。けど、あの子の演奏はメンタルに左右されがちやな。まぁ……恋愛に不慣れなせいかと思うと、そこがまた可愛らしくもあるわけやけど」
空よりもずっと累のことを分かっていそうな台詞に聞こえて、ざわりと心を逆撫でされたような気分だった。空がよほど変な顔をしていたのだろう。石ケ森は小首を傾げて、「大丈夫?」と尋ねてきた。ぶっちゃけ全然大丈夫ではない。
「あ。今日は練習、伸びると思うで」
「そうなんですか?」
「累クン自身が、今日の自分の演奏に納得できてへんて感じやから、個人練したいて言うてたわ。僕も付き合うつもりやけど……どうする? それでも、待っとかはる?」
石ケ森はそう言って、ほっそりとした唇に艶めいた微笑みを浮かべた。その笑みに、空ははっきりとした意図を感じ取った。
――この人、やっぱり累のことが好きなんだ……。
なんとなく感じていた予感が確信に変わると、ようやく空にも冷静さが戻ってくる。
累は、この男には靡かない。今までは少なからず不安を感じてしまうことがあったけれど、昨日の喧嘩を経たせいか、今ははっきりとそう思えた。だからこそ、いくら石ケ森が挑発的なことを言おうとも、妖艶な笑みを浮かべて見せようとも、累への信頼は揺るがない。
そうなると必然的に、石ケ森の恋は成就しないということになる。失恋程度で涙するような男には見えないけれど……少しだけ、空はそれを切なく感じた。
立ち上がり、缶コーヒーの代金をベンチに置く。そして空は、ぺこりと石ケ森に会釈をした。
「いえ、それなら俺、帰ります」
顔を上げると、物言いたげな瞳で空を見上げている石ケ森と視線が絡む。
黒目がちな石ケ森の目元は、少しだけ充血していた。寝不足か、寒さのせいか、それとも……感情のゆらぎのせいか。微かに眉をひそめつつ空を見据える石ケ森の眼差しの意味を読み取ろうとしたけれど、空にはよく分からなかった。
「俺、公演楽しみにしてますから。石ケ森さんも、練習頑張ってください」
「へぇ……知ってはるんや、僕のこと」
「累はよく、あなたのこと話してるから……」
「……ふーん」
石ケ森は脚を組み、苦笑混じりのため息をついた。そして、はぁと深い深いため息をつき、遠くを見つめて唇を引き結ぶ。その瞳はとても静かで、諦観の色が濃く浮かんでいるように見え……空は、その瞳から目が離せなかった。
「まぁ……安心し。高校生同士のウブな恋路の邪魔なんて、最初からする気ぃないねん。大人気ないやろ」
「恋路の邪魔って……」
「ふふ、君は察してるみたいやけど……そうやな、僕はあの子のことが好きなんかもしれん」
誰かへの恋心を口にするには、あまりにも寂しげな微笑みを浮かべつつ、石ケ森はそう言った。そうなのだろうと感じてはいたけれど、いざ本当にその言葉を耳にしてしまうと、きゅっと胸を掴まれたような気持ちになる。空はじっとその場に佇んだまま、石ケ森の端正な横顔を見つめていた。
「あの子の音楽に惹かれた……と言いたいところやけど、それはきっかけに過ぎひん。あの子は素直で、真っ直ぐで……そのくせ、あんな神がかった演奏間近で聴かされてしもたら、な。堕ちひんほうがどうかしてるわ」
「……はい」
「真面目やし優しいし、とにかく僕はあの子がかわいくてな。……けど、あの子と付き合いたいとか、そういう感情とはまた違う気ぃがすんねん。男同士、ヴァイオリニスト同士で、しかも相手は天才で……なんて、おお怖。破滅の道しか見えへんわ」
語るうちに少しずつ口調が軽くなり始めた石ケ森だが、瞳には拭いようのない寂しさのようなものが見え隠れしている。空はもう一度、すとんとベンチに腰を落とし、石ケ森と同じ方向を眺めた。
「累には、言わないんですか? 石ケ森さんの気持ち……」
「言わへんなぁ〜、知られたくもないし。負けた気分になるやん、僕が一方的に惚れてたなんて」
「負けた気分……ですか」
「そーやろ。それにあの子は……ただひたむきに、君だけを見てる」
「っ……」
ふと、石ケ森の視線を頬に感じる。石ケ森は、空の瞳を探るような目つきでじっと見つめていたけれど、やがて少し皮肉っぽい笑みを浮かべてこう言った。
「自覚ありまくりっちゅう顔やな。ふふっ……」
「ええと……はぁ……」
「いいねん、最初っから分かってたことや。四歳から狙 てたなんて、あの子は君によっぽど執着する理由があるんやろ」
「四歳って……そ、そんなことまで知ってるんですか!?」
「ふふ、まぁ……あの子にとって僕は『人生の先輩』ちゅう立ち位置なんやろ。恋愛相談にも乗ったで、色々とな」
「うっ……」
累と石ケ森の親しさを感じさせられるエピソードだが……いつの間にか、空の中から危機感は消えている。だが、累がこの男にいったいどんな恋愛相談を寄せたのかと想像すると恥ずかしくて、空は頬を赤らめつつ俯いた。
「それに、音楽祭で君を見た瞬間、『ああ、この子ならしゃーないなぁ』って思ってん。まあまあ面白くはないけど、諦められる気ぃはしてる。……諦めなしゃーないことやしな」
「……はい」
どういう返事をすればいいのか分からず、空は曖昧に頷いた。石ケ森はごくごくと缶コーヒーを飲み干すと、上着のポケットに両手を突っ込んでベンチの背もたれに背中を預け、冬の夕空を見上げた。ふう……と吐き出す吐息が白く、天へと昇ってゆく。
「このこと、累クンには言わんといてな。公演前に動揺してほしくない……ちゅーか、動揺なんてせぇへんかもしれへんけど」
「……分かりました」
「ふふっ。ええな、両想い。羨ましいわ」
ふと、もっとこの人の話を聞きたいと空は思った。だが、石ケ森はそのままひょいと立ち上がり、うーーんと猫のように伸びをして、空き缶を手に立ち去ろうとした。空は慌てて立ち上がる。
「あのっ……!!」
「ん? なに?」
「あの……俺、本当に楽しみにしてます、クリスマスの公演! あ、あと! すごく、すごくきれいでした! 音楽祭の、カノン」
「あ……」
今言える精一杯の言葉を、石ケ森に向かって口にする。すると石ケ森は眉根を下げて嬉しそうに笑い、「ありがとう。そーやろ、あれはなかなかええ出来やったからな」と言った。そしてそのまま踵を返し、行ってしまった。
いつしか夕暮れから夜へと塗り替えられたキャンパス内に、ふわ、ふわと灯りがともり始めている。
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