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24、ステージの始まり

   見上げるように高い天井だ。  広々とした空間の中央には、ひときわ明るく開かれたステージがある。  ステージをぐるりと囲むように座席が設置されているこのスタイルは、ヴィンヤード形式というものらしい。ヴィンヤードとは葡萄畑を意味する言葉だ。ステージを中心に、全2200席の座席が段々畑状にステージの方を向いているのである。  しっとりとした仄暗さの中、高々とした天井に吊り下がるシャンデリアの灯りが、まるで夕暮れの時に垣間見える星のように美しい。  一歩立ち入った途端、空は、すでに準備された舞台の中に放り込まれたような感覚にいた。この大ホール自体、これはすでに楽器なのだ。  すでに着席している観客たちの放つ熱量が、ホール内の壁や天井に反響する。それさえも、これからここで演じられる素晴らしい音楽を予感させる舞台装置のようだ。そしてその中心にあるステージに主演者たる音楽家たちが揃うことで、一つの巨大な楽器が完成するかのような―― 「空、ぼうっとしてたらあぶねーぞ。座ろうぜ」 「あっ……う、うん」  若干ふらつきかけた空を、彩人の腕がとっさに支える。そのまま兄に支えられ、空はゆっくりと階段を降りた。  空たちのために準備された席は、ステージが正面から見渡せる場所である。てっきり最前列を用意されるのだろうと予想していたのだが、もろもろ予習済みの壱成によってそう説明され、空は納得した。  確かに、この席ならばオーケストラの隅々までが見渡せる。かといって累の表情が見えなくなるほどの遠距離でもなく、絶妙の距離感である。 「やぁ、遅かったね」  空たちが席につくと、すでに真後ろの席に座っていた忍がおっとりと声をかけて来た。その隣にはマッサもいる。茶色みの強いの渋めなスーツに身を包んだ忍は、まるでどこぞの英国貴族のようだ。隣にいるマッサが暗い色のスーツであるため、何となく執事っぽく見える。 「クラシックコンサートなんて初めてやし、なんや俺まで緊張するわ」 「わかる……俺も緊張しちゃってさぁ……」  空がそう言うと、マッサは「まぁ、空は彼氏の大舞台やもんな。そらドキドキするやろ」と頷いている。 「もう、そういうのいらないってば!」 「空、ほら座れって。そろそろ開演時間だぞ」  小声でマッサに文句を言っていると、隣から彩斗の手が伸びてきた。気を取り直して着席したシートは、ふかふかのクッションも優雅で、座り心地抜群だ。こんな時でなければ、よくよく眠れそうなシートだな……と考えていると「累くん、何曲やんの?」と、彩人がこそこそと壱成に尋ねる声が聞こえてきた。  今日の曲目は、前半が『チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35』。そして25分の休憩を挟み、後半は『G線上のアリア(J.S バッハ)』『チャールダーシュ(ヴィットリオ・モンティ)』『この素晴らしき世界 (ルイ・アームストロング)』という曲を演奏するらしい。全てオーケストラとの共演で、クリスマス気分をしっとりと味わうようなラインナップになっている――と、パンフレットに書かれていた。  壱成に倣って、空も今日のメイン楽曲については予習済みだ。  チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は三部構成で、演奏時間は約三十分以上もあるという。これを弾き切るだけでもかなりの体力気力を使うらしい。  ソリストには相当な技術とパワー、そして集中力が求められる。累はまだ十五歳だ、普通なら考えられないほどのプレッシャーだろう。  ――もうすぐ始まるな。あぁ、ドキドキする……。  いよいよ、ステージの上にオーケストラのメンバーが着席し始めた。  男性はタキシード、女性は黒のイブニングドレスに身を包んだ演奏者たちは、皆さすがのように落ち着いた表情である。  その中に、空は石ケ森の姿を見つけていた。三十代、四十代という比較的若いメンバーでの構成だが、その中でも石ケ森はひときわ若い。すっきりとした目鼻立ちも手伝って目立っているが、その表情はとても静かだった。  徐々に観客たちが静まりゆくのに合わせるように、客席のライトが少しずつトーンダウンしてゆく。それに対比するように、ステージ上のライトはより明るくなり、演奏者たちが華やかに浮かび上がってくるようだ。  オケのメンバーのチューニングが終わると、水を打ったようにホール内の空間が静かになった。いよいよ、空の緊張感も高まってゆく。膝の上で握りしめた手が、じんわりと汗を含んでいる。  にわかに、ステージ上の空気が動く。  黒いタキシードに身を包み、ヴァイオリンを携えた累が、颯爽とステージ上に現れたのだ。その瞬間、割れるような拍手がホール中に鳴り響く。これまでの静寂が嘘のように、あたりは熱気に包まれていた。  累は流麗な所作で客席に一礼した。するとさらに、客席の拍手が高らかなものになり、女性たちの抑えた歓喜の吐息が聞こえてくる。  広いステージ上でもなお、累の存在感は揺るがないものがあった。綺麗にオールバックにした金色の髪は眩く、澄み渡るような青を湛えた瞳は、キラキラときらめいていた。まだ少し緊張しているのか、累の表情にはやや固さがあるものの、堂々とした立ち姿は人を惹きつける華々しさがある。  コンサートマスターの男性ヴァイオリニストと、指揮者である白髪の外国人男性と握手を交わした累は、自分の立ち位置についたようだ。ヴァイオリンを顎に挟み、軽く肩の位置を整えるように腕を上下させた後、指揮者を見て小さく頷く。  ――累……がんばれ……。  ぎゅ、と祈るように自分の手を握りしめていると、一瞬、累と目が合ったような気がした。これだけの人数と、距離。明るいステージにいる累の目には、客席は相当暗く映るはずだ。だが累は数秒、確かに空の視線を捉えているように見えたのだ。それは、空の気のせいだろうか。  しんとした静寂と、期待感を孕んだ緊張感がホール内に満ちた後――演奏が始まった。  冒頭はオーケストラのみの、やさしい音色が広がる。それはまるで物語のプロローグのようだ。ゆったりとした始まりから徐々に徐々に盛り上がり、これから現れる主役を迎え入れる準備を整えているかのように聴こえる。  目を閉じてその音色に耳を傾けていた累が、スッと弓を持ち上げた。そっと弓と弦が触れ合い、一音目が紡ぎ出された瞬間――ホール全体の空気が、変わった。  累の全身から音楽が放たれるような、鮮烈な音色。弾いているのは一人なのに、まるで数本のヴァイオリンの音色が重なっているかに聞こえるほど、力強く広がりのある音だ。  これまでに空が聴いたことのある累の音色とは違い、その旋律は驚くほどに逞しい。かと思えば、細く高らかに響かせる高音には艶のある繊細ささえ秘めていて、これまでとはまるでスケールの違う壮大さである。  オーケストラによって華々しく演奏される音色もまた素晴らしく、巨大なホールの中に非日常的な音楽の世界が広がってゆく。そこへしなやかに紡ぎ出される累のヴァイオリンが、さらに豊かな響きを重ならせ、空間の色を変えてゆくのだ。  二千人を越す聴衆の心を掴み、観客全員の集中を自らの演奏に向けさせるほどに、惹きつけられる音色。  だが、かといって累の音が独りよがりで浮いているというわけではない。累のヴァイオリンとオーケストラの掛け合いはぴったりと呼吸が合い、まるで会話をしているかのように小気味良い調子である。    速い指の動き、複雑なメロディ。どうやって奏でているのかさえ空には分からないけれど、累はいとも容易くヴァイオリンを操っているように見える。それこそが、これまでに累が重ね上げてきた練習の成果なのだろう。ステージ経験などない空としては『失敗しないように弾かなくては』と思ってしまいそうなところだが、もはや累にとって、音楽とはそんなレベルではないに違いない。  まだヴァイオリンを始めたばかりの幼い累の姿と、堂々たる姿でヴァイオリンを奏でる累の姿が重なり合って見え――空は込み上げてくる感情を抑えるように、ぎゅっと手を握りしめた。  小刻みに駆け上がってゆくような、軽やかな音色。そこからさらに盛り上がりを見せてゆき、クラシックに縁のない空でさえも耳にしたことがあるほどの有名な、あの華々しい主題が姿を現す。  ――すごい……。  音楽に身を委ね、全身をしなやかに揺らしながらヴァイオリンを弾く累の口元に、笑みが浮かんだ。複雑な和音を奏でながらも、累は時折うっとりと目を閉じては微笑み、背後に流れる伴奏を全身に染み渡らせるように呼吸をしている。  その姿はあまりにも美しく、そして途方もなく幸せそうだった。心から音楽を愛し、音楽に愛され、ここにいる全ての人々からの愛を思う様浴びているようにさえ見える。  途中に入る独奏は、累のヴァイオリン一本の音色。だがそれは、オーケストラに負けずとも劣らない迫力と華やかさを含んでいる。たった一人で奏でている音色だというのに、どうしてこんなにも大きく、そして情緒豊かな響きが表現できるのだろう。  切なげに眉を寄せ、速い動きで弓を引き、弦に指を滑らせる累の表情。それは、穏やかに微笑みを浮かべる見慣れた表情とはまるで異なり、とてもとても大人びて見えた。普段、空に向ける柔和な微笑みからはかけ離れた激しさと色香を滲ませる累の姿に、空の胸はひときわ大きく高鳴る。  いつしか第一楽章は終盤へと近づき、再び曲がクライマックスへと向かう盛り上がりの中、累の演奏にもひときわ熱がこもってゆく。  激しさと、そこはかとない慈しみを孕んだような繊細な音色、ヴァイオリンを掻き抱くようにして音を響かせる累の表情はぞくりとするほどに雄々しさを秘めている。  ――累……すごい、すごいよ……。  サビのオーケストラの一体感に、空の全身が粟立った。それあまりにも美しいハーモニーで、空の感情を直接揺さぶるかのように激しく、美しさに溢れている。  累はふと顔を上げて指揮者に笑顔を見せ、さらに激しい運指でヴァイオリンを高らかに鳴らしてゆく。綺麗に整えていた髪の毛が数束ほどけてこめかみにかかり、累の表情をより官能的に見せていた。  いよいよ、第一楽章のラストが近い。歌うように、華やかに、力強く音が重なり、聴衆である空にまで素晴らしい一体感を与えてくれる。いいようのない高揚感と興奮に指が震えて、空の両目には涙さえ浮かんでいた。  華々しく締め括られた第一楽章に、空は思わず盛大な拍手をしかけてしまった。  が、はたと『まだ終わりではない』ということを思い出し、慌てて手を引っ込める。だが、空と同じく拍手喝采を送る観客はたくさんいた。しばし鳴り止まない拍手の中、累は静かな笑みを唇に湛えながら、そっと額の汗を拭った。  そして、第二楽章が静かに始まる。

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