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25、花開く才能

 割れるような拍手喝采が、大ホールを揺らしている。そここから飛び交う「ブラヴォー!!」という声に応えるように、累は軽く手を広げて晴れやかな笑顔を見せ、深々と客席に向かって一礼した。  テンポ速く、勢いに溢れ、劇的な華やかさの中で完結したヴァイオリン協奏曲。累はとうとうそれを完璧に弾き終えた。いつまでも鳴り止まないかのような拍手を浴びながらステージに立つ累の姿はあまりにも大きく、燦然と輝いている。 「……空、そら」 「……あっ……」  肩を数回揺さぶられ、空はようやく我に返った。耳の奥でこだましていた拍手喝采と音楽の波に圧倒され、しばらく放心してしまっていたらしい。  はたと気づけば、客席には現実感が戻っている。興奮冷めやらぬ様子でざわめく観客たちのさざめきの中、彩人が気遣わしげに空の顔を覗き込んでいた。 「どうした、大丈夫か?」 「う……うん、なんか、すごくて……累、あんなにすごいと思わなくて……」 「……そうだな」  ぼうっとした表情のまま訥々とそんなことを言う空を見つめながら、彩人も深々と頷いた。ふと反対隣を見ると、壱成もまた目尻を赤く染めながらうんうんと頷きまくっている。 「いやまじ……マジですごかった……累くんすげぇな。いやほんと……あれで十五歳とか……立派になり過ぎてて、すごいわ……神がかってる……なんか俺、泣けてきちゃって」 「壱成ぇ……」  いつになく語彙力が貧困な壱成である。今まさに同じ感想を抱いているところだった空は、半泣きの顔で壱成の手をギュッと握りしめた。 「いつもの累と違いすぎて……俺、なんかもうわけなわかんなくなってきちゃった……」 「うん、うん……いや、普段からかっこいいけどさ、なんだろうな……普段おっとりしてるから、すごいギャップだよね……。あの子は、音楽をやるために生まれてきたんだろうな……って気持ち……」 「わかる……うん、すんごいわかる……」 「大丈夫か二人とも」  そろって語彙力を失っている空と壱成に苦笑しつつ、彩人は「一旦出ようぜ、なんかあったかいもん買ってくっから」と二人を外へと促した。  彩人に肩を抱かれながらホールから出て人がわいわいと行き交っているロビーへ出る。そして空は、庭園の見えるソファに腰掛けた。ここでは飲食ができるようだ。壁際にはバーカウンターがあり、蝶ネクタイをしたスタッフがシェイカーを振っている。そこへ彩人が飲み物を買いに行ってくれた。 「はぁ……なんかすっごい疲れた」 「確かに……。俺、仕事の付き合いで何回かクラシックコンサートは来たことあるけど、こんなに集中して聴いたのは初めてだよ。こーんなちっちゃい頃から知ってる子が、こんなでかいステージで……なんて、ほんと、ほんと……」 と、疲れた口調ながらも、壱成は満足げな微笑みである。その表情を見て、空もようやく落ち着きを取り戻してきた。 「……累、すごくかっこよかった。かっこいいなんてもんじゃないね、ほんと、別世界の人みたいに、キラキラしててさ……」 「うん、そうだね……光ってたね……」 「うん、うん……」  そうして壱成と頷き合っていると、彩人が二人の元へと戻ってきた。あたたかいココアを手渡され、空はようやくほっと息を吐く。 「ありがと……」 「おう。大丈夫か?」 「うん……はぁ、甘くて美味しい」  ココアを一口二口と飲みながら空がしみじみそう言うと、彩人と壱成が顔を見合わせて少し笑った。そして彩人は、ぽんと空の頭を撫でながら、こんなことを言う。 「……マジですごかったな、累くん。終わったら、めちゃくちゃに褒めてやれよ。ありゃ半端なく練習してるよ、すげぇ頑張ったんだろーな」 「うん……うん」 「あの音楽の源が空なのかと思うと……なんつーかもう、愛されすぎててすげーな、お前」 「音楽の源……」  ぽわんとなっている空を見つめて、彩人は微笑む。兄もこうして累のことを認めてくれたのかと思うと、また違った感慨深さを感じてしまい、空は少し泣きたくなった。 「あっ、そろそろ戻らないと。後半はしっとり系みたいだし、もうちょっとゆったり聴けそうだね」  壱成はひょいと立ち上がって、なぜか屈伸をしながらそう言った。空と同じく、よほど前半で気合が入っていたのだろう。そういえば、空の身体もあちこち硬い。空はうーんと身体を伸ばして、勢いよく立ち上がった。     +  そして後半の演奏が始まる  ステージに姿を現した累は、再び盛大な拍手で迎えられた。  さっきまで身に纏っていた黒のタキシードから、光沢と深みのあるワインレッドのタキシードへと衣装が替わっている。累がこういう色味のものを身につけることは珍しいので、空は思わず身を乗り出して見惚れてしまった。  オーケストラのメンバーの胸にもそれぞれに白い花が飾られていて、さっきよりもぐっと明るい印象である。  さっきよりもラフに髪を下ろした累の表情は晴れやかだった。身体もあたたまり、すっかり緊張もほぐれたのだろう。オケのメンバーと視線を合わせて微笑み合い、指揮者と頷き合っている累を見て、彩人がぼそぼそと「……あの衣装で店に来て弾いてくんねーかな……秒でナンバーワンになれるわ……」と呟いている。  指揮者がすっと腕を持ち上げ、視線を交わす。後半最初の曲はバッハによる名曲『G線上のアリア』だ。今回の凱旋公演のためにアレンジが加えられているらしく、ステージ後方にはドラムセットが鎮座していて、黒タキシードに黒縁メガネをかけた若い男がスタンバイしている。  木管楽器のたおやかな伴奏が始まった。  軽く顎を上下してリズムを取っていた累は、弓ではなく指で弦を弾き、あの有名なメロディーを奏で始めた。ピチカートという奏法だ。プロローグのように数小節をピチカートで弾いたあと、累は弓を弦に当て、主旋律を奏で始めた。  同時に、ドラムの音が軽やかにリズムを刻み始める。これまでに聴いたことがあるものよりも軽やかで、親しみを感じることのできるアレンジが加えられている。累もリラックスした表情で微笑みをたたえ、心地良さそうに音色を広げている。伸びやかな音色に、美しいヴィブラート。それはうっとりするほどに美しく、楽しそうにヴァイオリンを弾く累を見ていると、自然と空の表情も綻んでゆく。  ――気持ちよさそうだな……。楽しいんだろうな、累。  ふと周りを見てみると、隣にいる彩人と壱成の唇にも、寛いだような微笑みが浮かんでいる。さっきは空と同様にガチガチに緊迫していた壱成だが、とても心地良さそうな表情だ。  累は時折後ろを振り返り、オーケストラのメンバーとも微笑み合う。その中に、ふと石ケ森の笑みを見つけた空だったけれど、いつかのように心をかき乱されることはなかった。石ケ森もまた優しい表情で弓を引きながら、累を見上げて幸せそうに微笑んでいるのだ。  石ケ森の瞳には、この素晴らしい音楽を共にする者以上の感情がこめられているような気がするが――それは多分、勘違いではないだろう。オケのメンバーの中、彼の瞳は誰よりもきらめいている。この公演の練習のあいだずっと、石ケ森はそうして、累の背中を見つめていたに違いない。  ふと、累の視線がこちらを向いたような気がして、空ははっとした。まっすぐ遠くを見つめる累の青い瞳は、確かに空を捉えているような気がした。  チャイコフスキーを弾いていたときに見せていた、どこか張り詰めたような表情にも色気を感じてしまったものだが、今、こうして幸福な微笑みを浮かべながら神聖なメロディを紡ぎ出す累の姿にも、包み込まれるような色香を感じさせられてしまう空だ。ドキドキしながら頷いて見せると、累は微かに白い歯を見せて笑い、再び目を閉じて音楽に身を委ねてゆく。  ――このコンサートが終わったら……。  ふと、累がいつか口にしていた言葉を思い出す。この公演が終わったら、空と累の関係はさらに一歩進むのだろうか。この公演のあとに会いたいと言っていたけれど、今夜は壱成も一緒にいる。そういうことはできないとは思うけれど……。でも、これからもし二人きりになることがあったら、累は空を抱くのだろうか。  そんなことをふと思ってしまえば、身体の奥から熱が溢れ出す。こうして華々しくステージに立つ累を見つめながら、淫らな行為に想いを馳せてしまう自分が、ひどく恥ずかしい。  だが、現在進行形で二千人の喝采を浴びているあの美しい少年に、とうとう全てを暴かれてしまうのかと思うと、どきどきと胸が騒がしく暴れ出す。ヴァイオリンの弦を撫でるあの指で、悠然とした微笑みを浮かべるあの唇で高められてゆく快楽を思い出しそうになり――再び沸き起こった盛大な拍手に、空は慌ててその妄想を追い払った。  そして後半二曲目は、ヴィットリオ・モンティ作による『チャルダーシュ』。パンフレットによると、チャルダーシュとはハンガリーのジプシー風民族舞曲を意味するらしい。ハンガリー語の”酒場”を意味するチャールダという言葉に由来するという通り、これまでに聞いた曲とはまた違った異国情緒に溢れた雰囲気だ。  力強く、ゆったりとしたメロディを心地良く聴いているうち……突然、テンポが速くなったため、空はちょっと面食らってしまった。後半の曲目については予習をしていなかったのだ。  これも耳に覚えのあるメロディだった。とても軽快で、とにもかくにもテンポが速くノリの良い曲である。テンポが早く小刻みに展開される主旋律なのに、一音一音がはっきりと聞こえて小気味が良い。  累の白い指がすごい速度で動くさまや、細かく刻まれる弓の動き。そして累のどこか挑戦的な眼差しの格好良さも相まって、ぐいぐい引っ張り込まれるような力強さを感じさせられる。オーケストラのメンバーも楽しげに身体を揺らしながら演奏していて、ステージ全体から軽快な空気が湧き上がってくるようだ。 「ひぇ、見てるだけで腱鞘炎になりそう」と現実的なことを呟いている壱成の声を聞き、空は思わず笑ってしまった。そうして笑っていられる余裕ができてきたのは、ひとえにステージ上の累の表情がとても楽しげだからだ。手拍子さえ湧き起こりそうに、観客席の空気もあたたまっている。  勢いよくテンポよく進んでゆくメロディを奏でる累の笑顔につられて、空もいつしか笑みを浮かべていた。さすがは舞踊曲というべきだろうか、緩急の鮮やかな曲で、聴いているこちらも楽しくなってくる。  十五歳になり、ドイツから帰国した累は、間違いなく才能を開花させている――空ははっきりとそう思った。  ここにいる二千人の観客を虜にし、祝福を受けるように拍手を浴びる累のことが、心から誇らしい。  だが少しだけ、寂しくもある。ステージの上にいる累を、今すぐには抱きしめられないことがもどかしかった。  早く二人きりになって、いつもどおりの優しい笑顔を、独り占めしたかった。

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