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番外編『あいこ先生の悶絶』

 あいこ先生、もとい、吉行愛子は、二十四時間保育園『ほしぞら』に勤め始めて十四年になる。  相変わらず若く見られがちだが、年齢は四十路に近づき、今では保育主任を任されるベテラン保育士だ。  保育者として、そして指導者として現場をまとめてゆかねばならない立場になり、愛子の生活は多忙を極めていた。だがそれも苦ではない。愛子は今も独身を貫いているため、時間・体力・気力の大半を仕事に注ぎ込むことができるからだ。  仕事に人生を捧げている愛子だが、一時期両親からやたらと婚活を勧められて、生真面目に頑張っていた時期もあった。  恋愛にさほど関心を抱くことなく大人になった愛子だ。何をどうすればいいか分からず、熱心な婚活コーディネーターの言うがままに婚活を頑張った。  週末ごとにパーティーに参加し、得意でもない愛想笑いを浮かべ、興味も関心も抱けない男たちの話に相槌を打つ……それは紛れもない苦行だった。苦行以外の何者でもなかった。園にクレームをつけてくる保護者と話している方がよっぽど有意義だと思わざるを得ないほど、意味のない時間だと感じていた。  そのため、半年ほどで婚活はギブアップ。両親にも素直にその旨を伝え、自分は仕事に生きる人間なのだ、なぜならあなたたちの背中を見て育ったのだから――と説き伏せた。幸い両親の理解は得られたため、今は心置きなく仕事に集中している愛子である。  子どもたちの成長を見守り、若いスタッフを育ててゆくことに忙しく、ここのところ心に潤いを感じることもなかった愛子のもとに、ある日、園長からこんなニュースがもたらされた。 『ほしぞらの卒園生・高比良累くんが帰国し、さらには巨大なコンサートホールで演奏会を開く』と――  だが、それを耳にしたのは勤務時間内。  愛子は努めてポーカーフェイスを保ちつつ、「へぇ、累くん帰国したんですね」と返事をした。すると園長はふくふくとした優しい笑顔を浮かべ、さらにこう付け加えた。 「そうなのよぉ。それでね、こないだ偶然スーパーで彩人クンに会ったんだけどね……彼、壱成くんと同性婚なさったそうなの。すごいわよね、時代よね〜」 「けっ!? けっ、けっ…………けけっ、けっ、けっ、こん……?」 「ええ、そうよぉ。彩人くん、すごく幸せそうでねぇ、指輪なんか見せてくれて。うふふ、なんか新妻さんみたいでかわいかったわぁ。カッコいい子は、スーパーのカゴもよく似合うのねぇ、わたしもうきゅーんとしちゃって」 「ゴフッ…………に、にいづま…………ぇっ、そ、そうなんですかぁ〜〜へぇ〜〜〜〜」  カタカタカタカタと手元では忙しげにキーボードを打っている愛子だが、画面に表示されてゆく文字は,もはや何も意味をなさない文字の羅列である。それもそのはずだ。愛子は今、気を抜けば雄叫びを上げそうになっている己の全身を理性の力で押さえつけ、唇を必死に引き結び、ぶるぶると震えているのだから……。  ――けっ……こん……って……結婚、のこと……!!? ふぁぁぁぁぁ!!! 早瀬さんと、霜山さんがけっこん……!?!? あああああどうしようすごい……すごい……おめでとうございます!! 今すぐお宅まで駆けつけてお祝儀を一億円ほど押し付けたい直接おめでとうと叫びたい…………ッッ!! う、うああああああ……!!!  かつて狂おしいほどに愛子を萌え滾らせたあの二人が、とうとう、とうとう揃いの指輪をして、同じ家で家族として暮らしている――!!   そのニュースは、これまでどんなに婚活をしても微動だにしなかった愛子の心を、熱く激しく揺さぶった。  しかも園長が、彩人を「新妻」などと表現するものだからもういけない。夜はどっちがどっちでどうしているのかと、これまで散々妄想しかけては、不謹慎さに罪悪感を刺激され、己の頬を引っ叩きながら我慢していたふしだらな妄想が職員室で花開きかけ――……慌てて、愛子は「ゔぇっほぉぉん!!」と咳払いをして己を律した。正面に座る男性新人保育士が怯えた顔をしている。パワハラで訴えられなければいいのだが。  ――い、いかんいかん……。どっちがどっちなんて、失礼でしょそんなこと考えたら。愛があるんだからそんなのどっちだっていいし、わたしはむしろ逆だと思っ………………ってダメダメ!! そんなプライベートなことを妄想するなんてダメ!! 社会人としてどうかしてる!! どうかしてるわ、けしからんわッッ……!! 「それでね、こないだ空くんにも駅でばったり会ったんだけどね、『累が帰ってきたんですよぉ』って、にこにこしながら累くんのお話たくさん聞かせてくれてねぇ」 「空くんにもバッタリ会ったんですか!?」  前世でどんな徳の積み方をすれば、新妻めいた微笑みを浮かべるイケメンホストとスーパーで出会え、可愛い弟と駅でバッタリ出会えるのか――と、愛子は園長を羨んだ。 「うふふ。空くんもねぇ、アイドルみたいにかわいいイケメンさんに育っちゃってて、うふふ、さすが彩人クンの弟よねぇ。わたしもううっとりしちゃって〜」 「そ、そうですよね、遺伝子の力って侮れないですよね……」 「ねー♡ 空くんと累くん、またここに遊びにきてくれないかなぁ〜」 と、園長は両手で頬杖をついてぽわわんとしながら、夢見る乙女のような口調でそんなことを言った。     ◇ 「あいこ先生ー! 来たよぉ!」 「あっ、空くん……! いらっしゃい!」  園長の願いは、意外とすぐに叶うこととなった。  クリスマスイブに行われた累のコンサートにて、早瀬一家にバッタリ出くわすことに成功した愛子は、空に『ほしぞら再訪問』のお誘いをかけていたのだ。  彩人と壱成も、当時と変わらぬ華やかさと清々しさに溢れていた。彼らを目の当たりにした瞬間、愛子の全身は感激のあまり震えていた。震えながらも、ふたりの薬指をチェックすることは怠らない。あいも変わらず仲睦まじそうな二人を現実世界で目の当たりにし、取り乱さなかった自分はすごい。  きっと神さまがくれたクリスマスプレゼントね……と、夢見心地ながらもポーカーフェイスを貫き、礼儀正しく再会の挨拶を交わした自分を、心の底から褒めてやりたいと愛子は思った。  そして空は、社交辞令としての「遊びに行くね!」ではなく、本当に『ほしぞら』へ舞い降りてきてくれたのだ。空の優しさと清らかさに触れ、ここ最近ずっと妄想がちだった愛子の心も雪がれてゆくようである。  ……が、天使の如く清らかな空の隣に寄り添い、愛おしげな視線を注ぐ累の姿を間近で目の当たりにした瞬間、数秒前に洗い浄められたはずの愛子の心は、一瞬にしてピンク色に染まってしまう。 「あいこ先生、お久しぶりです」 「る、累くん……っ!! うわぁ……すごいね、おっきくなったね……!! しかも……すごい……まるで本物の王子様じゃないの……」 「ふふ、やだな先生。王子様だなんて」  ステージの上で燦然と輝いていた累の成長っぷりに気絶しかけた愛子だが、今こうして生で見る累の高貴なるオーラはすさまじく、愛子はその場で目を回しそうになった。白い歯を見せ照れ臭そうに微笑むだけで、大輪の薔薇が光を纏っているように見える。愛子の視界を覆い尽くすまばゆさに、パチパチパチと忙しく目を瞬いた。  朝日にきらめく金色の髪、宝石のように透明度の高い青い瞳――小さい頃からお人形のように可愛らしかった累だが、十五歳になった累の麗しさたるや……。 「累ね、学校でも王子王子って、女子にすっごく人気があるんだよ」 「いや分かるわ……そりゃそうだわ……こんなかっこいい子、女子がほっとかないわ……毎日もみくちゃにされてない……?」 「そこまでじゃありませんよ。みんな遠巻きに見ているだけだし、僕には空がいるから」  そう言ってキラキラキラ〜ンと微笑む累の愛おしげな眼差しが、昔と同様真っ直ぐに空へと向けられている――それを見て愛子は悟った。幼い頃から一直線に空へと注いでいた累の愛情が、着実に実を結んだのだということに……。  この直感はおそらく正しい。  その証拠に、空はぽっと頬を染め、「ちょっ……!! なに言ってんのあいこ先生の前で……」と累の袖を引っ張り軽く怒った顔をしている。……なるほどなるほど、照れている、照れているのだな……と、愛子は鼻息も荒くふたりの様子を見守りつつも気づかないふりをして、裏返った声でこう提案した。 「あ、あっそうだ〜〜! 四歳さんの教室覗いてみる? 今お部屋でお絵描きしてるからぁ!」 「わぁ、懐かしいなぁ。昔と同じ部屋なんですか?」 「うん、そうだよ。小さかった空くんと累くんが、ずっと一緒に過ごしてた部屋よ」  愛子がそう言うと、空と累が顔を見合わせ、懐かしげに微笑み合うのだ。……そのあまりに尊い絵に、愛子は思わず咽び泣いてしまいそうになったけれど何とか耐えて、ガララと四歳児たちが過ごす保育室の扉を軽快に開いた。 「みんなーっ! お客さんだよーーっ!!」  ここ数年になく高らかな声が出た。室内遊びをしていた十人ほどの子どもたちが一斉に空と累を見て、「だれえ!?」と声を上げ始める。  愛子が明るい声でふたりの紹介をしている間も、子どもたちは興味津々な眼差しだ。  累は小さな子どもにあまり馴染みがないのか緊張気味な様子だが、空は普段と変わらぬにこやかな笑顔である。その優しい笑顔に引き寄せられたのか、愛子の話が終わるとすぐに、とととと〜と数人の男児が空のもとへ駆け寄ってきた。そして「ねぇおにいちゃん、あそぼー! おそといこー?」と空の手を引く。  すると空は戸惑ったようでいて嬉しそうな笑みを浮かべつつ、愛子を見た。 「あいこ先生、俺、園庭で遊んでもいいんですか?」 「ええもちろん! もし時間があるんだったら、ちょっと遊んであげて。このあと外遊びの時間だから、男の子がいてくれると私も助かるわ〜」 「そうですか。……累、いい?」 「うん、もちろん」  累に快諾され、空はそのまま子どもたちと園庭へ出て行った。さて累はどうするのか……と様子を窺っていると、四歳児クラスの仲良し女児三人組が遠巻きに累を気にしていることに気づく。ひそひそと顔を近づけ合い、「おうじさま……」「えほんにでてくるあの……」「えぐいいけめん……」と興奮気味に囁き合っている。  だが累は、園庭でちびっこたちとボールを蹴り合っている空の姿に釘付けである。一瞬にして子どもたちに懐かれまくっている空を愛おしげに眺めながら、「空、楽しそう。かわいいなぁ……」と呟くのだ。愛子は動悸息切れを必死で宥めすかしながら、「そ、そうだね……かわいいね!! 空くん、ちっちゃいこの相手うまいね……っ……!!」と早口に言葉を返す。 「る……累くん、ヴァイオリンすっごく上手くなったよね。先生、ほんっとにもうびっくりだよ。君の演奏聴きながら、何回も泣いたわ。園長先生も泣いてたのよ」 「え、本当ですか? ありがとうございます。あとで園長先生にもご挨拶しないと」 「うんうん、顔見せてあげて。これからは、ずっと日本で活動していく感じなの?」 「ええ、そのつもりです。実は、海外の音大からいくつか誘いを受けているんですけど、僕は高城音楽大学に進みたいと思っているので」 「海外か……そりゃそうだろうね。でも、また空くんと離れ離れになるのはつらいしね……」 「ええ、そうなんですよ」 「だよね……ドイツでも相当寂しかったんじゃないの?」 「そうなんですよ! 空がいなくて寂しくて、空が誰かに奪われたらと思うと不安で不安で、ドイツでの生活に慣れるまですごく時間がかかったんです。もう、あんな地獄は味わいたくないな……」 「ゴブフッ……っ……そ、そっかぁ……うんうん、わかるよ……累くん、ちっちゃい頃からそんな感じだったもんね……ッ……」  ごくごくナチュラルに空への執着愛を語る累の変わらなさが可愛いやら愛おしいやら萌え苦しいやらで、愛子は勢いよく吐血しそうになったが、何とか耐えた。 「母を見ていたら、日本で暮らしていても十分やっていけると感じるんです。たとえ長期で日本を離れることはあったとしても、拠点はこちらに置いておきたい。空の存在こそ、僕が音楽を続けていくための最大のモチベーションだから」 「そそっ……そ、そうだよねぇ〜〜〜!! わかる!! 先生すっごくよくわかるよ!!」 「ふふ……先生なら、分かってくれると思ってました」  累は親しげな眼差しで愛子を見下ろし、ちょっといたずらっぽい口調でそう言った。  その視線に、愛子は悟った。累は理解しているのだろう……累と空が恋愛関係にあると、愛子が既に察知しているということを。  そして幼い頃と同じように、愛子は累の全てを肯定し、何があっても応援しようという心持ちでいるということも。  あれだけの演奏を披露して見せたのだ。周囲の大人たちはきっと、累にあれやこれやと選択肢を示したことだろう。それはもちろん、累の才能と将来を見据えた上で、良かれと思っての提案に他ならない。だが空のそばにいたい累にとって、それはあまりに受け入れ難い未来に違いない。  容姿こそ大人びているけれど、累はまだ十五歳の子どもなのだ。大人たちの言葉をやりすごし、自分の意志を貫き通すことが、累にとっての負担になっていなければいいのだが……と、思わずにはいられない。  愛子は深々と頷き、昔のように累の肩をトントンと叩いた。 「大丈夫よ、累くん。先生はいつだって君の味方、小さい頃からずっとだよ」 「うん……ありがとう」  シックなチェック柄のマフラーに口元を埋めて微笑む累の表情から、大人びた部分が消えてゆく。累の身体は愛子よりずっと大きいけれど、目元に安堵を浮かべている累の表情は昔のままでいじらしく、思わずぎゅうぎゅうと抱きしめて撫でくりまわしたくなってしまう。……が、何とか耐えた。 「何かあったら、またいつでも遊びにおいで。先生、いつでも話聞くから」 「うん、ありがとう」 「練習も大変だろうけど、これからも聴きに行くね。先生、全然クラシックって縁がなかったけど、累くんの演奏聴いてから、色々興味沸いちゃってさ」 「ほんと? 嬉しいなぁ。次の公演決まったら、すぐに連絡するね」 「ふふ、楽しみ」  と、ほのぼの累と話をしていると、冷気のなか頬を火照らせた空が、累のもとへと駆け寄ってきた。子どもたちとはしゃいだためか、表情が生き生きしている。その爽やかさの中に弾ける愛くるしさに胸が高鳴りすぎて、愛子は内心「くっ……」と呻いた。 「ねぇ累! 子どもたちがね、王子様ともサッカーしたいって言ってるんだけど……」 「王子様? 僕のこと?」 「うん。どうする?」 「いいよ、僕も行く」 「えっ、まじ? 累が球技するとこめちゃめちゃ新鮮じゃん! あいこ先生、動画撮って動画!」 「動画っ!? ま、まかせて!!」  ぱぁぁと顔を輝かせた空に手渡されたスマートフォンを、震える手で操作する愛子だ。手ブレしないようにと細心の注意を払いまくりながら、録画ボタンをタップする。  ちびっこ五人を相手に器用にボールを操る累と、それを見て「えーっ!? すごいじゃん累うまいじゃん!」と満面の笑みを浮かべている空が尊い。ついさっきまで儚げな表情を浮かべていた累が、子どもたちと一緒に笑顔で園庭を走っている姿もまた、尊い……。  動画に自分の薄気味悪い泣き声が入らないように配慮しつつ、愛子は心の中で咽び泣いた。  累がパスしたボールを受け、軽快なドリブルを見せる空と、そこへついて回る男児たち。きゃっきゃと楽しげな笑い声が弾ける園庭に、愛子はふと、幼い空と累の姿を見たような気がした。  ――う、うううっ……尊い……ッ……!! 先生、いつまでも君たちの味方だから……ッ……!! ううっ……ウッ…………!!  するとなかよし女児三人組が、つつつ……と愛子のそばにやってきて、揃って園庭を眺め始めた。 「あいこせんせい、はなみずでてるね」 「しーっ。きっとこみあげてくるものがあるのよ。そっとしといてあげよ?」 「はぁ……おうじさまって、サッカーもできるんだね……もうひとりのおにいちゃんもすっごくかっこいいし……はぁ……いいながめ……天国かな……」 「うん……天国……」  うっとりした声で交わされる女児の会話に内心激しく同意しつつ、愛子は一心不乱に累と空の動画を撮影し続けた。  あとで必ず、必ず動画を転送してもらおうと、心に誓いながら。 『あいこ先生の悶絶』 おわり♡ ˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚ 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。 本年も、楽しくマイペースに創作活動にいそしんでゆく所存でございます。 どうぞよろしくお願いいたします! 餡玉(あんたま)

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