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石ケ森賢二郎の感情

 高比良累のことを意識するようになったのは、いつの頃からだっただろうか――と、石ケ森賢二郎はぼんやりと考えていた。  好意とは別の意味で意識するようになったきっかけは、十二歳の頃に出場したコンクールで、初めて累の演奏を聴いた時だろう。  四歳からヴァイオリンを始め、幼くしてめきめきと才能を開花させていた賢二郎は、その頃まさに天上天下唯我独尊状態だった。  そんなとき、累は流星のように現れた。  十五歳以下が出場できるコンクールのうち、国内では最難関といわれる全日本ジュニアヴァイオリンコンクール。賢二郎は、このコンクールについては七歳の頃から常連で、常に優勝を果たしていた。  有名なヴァイオリニストに師事しているわけでもなく、ごくごく普通の一般家庭の出でありながらも、ジュニアの中では群を抜いてヴァイオリンが上手かった。自分でもはっきりとその自覚があったため、賢二郎はその頃まさに天狗だった。今後自分が、音楽界を引っ張っていくのだ――!! という野望にも似た夢を、幼い胸にすでに抱いていたものである。  だが、賢二郎が小学六年生のとき、累は現れた。  観客席の片隅で、別の候補者たちが演奏する様を悠然と聴いていた十二歳の賢二郎だ。「ふふん、今年も大したやつおらへんな」という不遜な態度で、余裕の笑みを浮かべていたものである。  だが、九歳の累がステージに現れた瞬間、観客席の空気がざわりと騒がしくなった。その理由は簡単だ。金髪碧眼で、幼いながらも完璧に整った容姿が、観客らの目を引いただけ。だが幼い賢二郎には、そんなものはどうでもよかった。ただ気に食わないのは、累の母親が有名なヴァイオリニストであるということだ。  可愛らしいルックスと親の七光りで注目を浴びている、世間知らずのボンボン――賢二郎は累のことをそう決めつけ、勝手に嫌いになっていた。同じ音楽教室にもいるのだ。金持ちだったり、親がピアノの先生だか何だかをやっていたりするだけで、鼻高々になって己の境遇を自慢する小市民が。賢二郎のヴァオイリンよりもよほど高価な楽器を使っているくせに、大した音色も出せない仲間たちのことを、賢二郎は心底馬鹿にしていた。  累もその部類の子どもだろうと、賢二郎は生ぬるい視線を累に送っていたものだ。……が、累が一音を放ったその瞬間、賢二郎の中でアラートが鳴り響いた。  忘れもしない。その時累が弾いた曲は、バッハの『無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番』。  9歳の子どもが弾いているとは思えないほどに、成熟した音色。その歳にしては長身で、その当時から落ち着き払った表情をしているというところを差し引いたとしても、累の奏でる音色にはどっしりとした芯があり、数多の審査員を前にしているとは思えないほどの余裕に満ち満ちていたものである。  気づけば賢二郎は前のめりになって、累の演奏に耳を傾けていた。上手い、とにかく抜群に上手かった。それだけではない、表現力、集中力、そして聴衆を引き寄せる音の力強さ――その何もかもが、自分能力の上を行くものだと、賢二郎には分かったのだ。  こいつには一生勝てない。  頭の片隅で本能が囁いた。だが、賢二郎はそれを認めるわけにはいかなかった。敗北を認めてしまえば、これまで賢二郎が、そして賢二郎を支え続けてきてくれた両親の努力が、全て無になってしまう……そんな気がしたから。  だが、結果は明白。  累の演奏を聞きナーバスになってしまった賢二郎の演奏は散々なものだった。二位の座さえ獲得することができなかった。これまでずっと、勝手に賢二郎へのライバル心を燃やしていた同い年の女子が、その年の準優勝。賢二郎は第三位という屈辱的な順位を背負わされ、その年のコンクールは終わった。  仏頂面で終えた表彰式の後、賢二郎はムカムカしながら累に近づき、食ってかかった。 『どーせおかんが有名人やから勝ったんやろ!』とか『審査員のえこひいきや!』とか『金髪やからや!』とか、訳のわからない難癖をつけつつも、頭の中では分かっていた。  この結果は当然のものだ。累の演奏が純粋に美しかったからこその、優勝なのだ――と。  また累は賢二郎とほぼ同じくらいの身長で、それにもえらくムカついたのだ。しかも、賢二郎が何を言っても、累は青く美しい目をきょとんと丸くするだけで何も言い返してこなかった。『この人は何で怒ってるんだろう』くらいの感情さえ自分に抱いてもらえなかったことにも腹が立った。せめて、賢二郎のことをライバルだと思って欲しかった。  来年こそぶっ倒す……!! と心に決め、俄然練習に励んでいた賢二郎だが、風の噂で、累がドイツへ行ってしまったということを知った。勝ち逃げされた、とさらに腹が立ったものだが、日本に累がいないことに少し安堵していた自分もいる。とはいえ、同じ楽器を持ち、同じ音楽の世界で戦っていこうと思うならば、いつか必ず累の存在は壁になる。危機感を新たにし、ずっと累の活動をチェックし続けてきた――  ――……はぁ……。そんな状態やったのに、今はこれか……。  賢二郎は学食のテーブルに肘をついて、ぼんやり外を眺めていた。冬休みが終わり、再び始まった大学生活だが、いまいち毎日に張りがなく、間延びした日々だと感じてしまう。  認めたくはないが、その理由は明白だ。累に会えないからである。 「……じろう、賢二郎ってば」 「…………え?」 「おいおいおい、しっかりしろよお前。そりゃ、燃え尽きんのも分かるけど」 「いやいや……燃え尽きてへんし。休み明けで気合い入らへんだけやし」 「そう? なんか心ここに在らずって感じだけど」  と、賢二郎の向かいでラーメンを啜っている男子学生・能代(のしろ)高志が呆れ顔を見せた。能代は賢二郎と同じヴァイオリン科の学生だ。  能代は地方出身者の賢二郎とは違い、東京生まれ東京育ちかつ、音楽一家の末っ子長男。母親はピアノの先生をしており、上にいる二人の姉もまたそれぞれ私立学校で音楽教師をやっている。  自然な流れでヴァイオリンを習い始めた結果、家族に『上手い上手い!』と褒めそやされ、伸び伸びと成長した結果高城音大に合格。……だが、大学に入って初めて自分の能力の底を知ってしまった――と、夏頃の飲み会で嘆いていたものである。  出会った頃の能代は、将来の自画像を『ソリストになってウィーン・フィルに招待される俺』と表現していた。が、ここ最近の能代の夢は音楽教室の講師になること。そこでちょっと疲れた美人OLと出会い、恋に落ちる……という未来予想図を描いているらしい。  そんな能代のことを、一時期は『薄っぺらい人生設計やな』と内心こき下ろしていた賢二郎だが、累の演奏を間近で体感した後からは、能代の気持ちが何となく分かるようになってしまった。  国内トップの音楽大学に入学し、自分の能力は今もなお秀でていると再確認することができた。そのため、友人たちと表面上は親しくしてはいたけれど、心のどこかで皆を少し見下していた……が、今はそんな自分が恥ずかしくてたまらない。  国内外で活躍してきた先輩たちである音大OBオーケストラの中に入ってみて、自分はまだまだ未熟な部分がたくさんあるのだということを思い知ったし、実際それを大人たちに指摘されまくり、へこみかけたこともある。だが、元来負けん気の強い賢二郎は大真面目に練習に練習を重ね、最後はオケの面々にずいぶんと頑張りを讃えられたものだったが……。  あの日、累の背中から立ち上っていた気迫と集中力に圧倒された。そして、二千人の聴衆を虜にしてみせたあの美しい音色の数々に、賢二郎はいまだ囚われているのだ。  ――……血管ブチ切れるか思うくらいカッコよかったな……。  眩しいライトの下、悠然と弓を引く累の姿が、目に焼き付いて離れない。4つも年下の、たかだか十五歳の少年だというのに、観客の入った大ホールに怯むこともなく、堂々とステージを演り切った累の背中に、神々しささえ感じてしまった。  そんな累に、何やらおんぶされた記憶がうっすらと残っている。  あたたかくて、頼もしくて、いい匂いがして……ずっとこうしていたいと思わされるほどに、幸せな瞬間だった。だというのに、翌朝自室で目覚めた時、その時のことをうっすらとしか覚えていなかった。  そんな自分に心底がっかりした。がっかりしすぎて泣けてくるし、その上二日酔いの頭痛に苦しめられ、地獄のようなクリスマスを廃人のように過ごした賢二郎である。  なんなら、酔った勢いで累を部屋に連れ込み、いかがわしいことをするチャンスでもあったはずなのに……!!! と、思った。  だが残念なことに、賢二郎は童貞である。迫り方も連れ込み方も分からない上、相手はまだ十五歳だ。賢二郎もまだギリギリ十代といえば十代なのだが……。  恋人らしい女性が隣にいた時期もあったが、『そんなに音楽が好きならヴァイオリンと結婚すれば!?』とか『プライド高っ!! なんでそんな上から目線なわけ?』『ヴァイオリンしか弾けないくせに!!』などとこき下ろされ、あっさりふられること数回。そもそも、賢二郎の顔と「ヴァイオリンが弾けてかっこいい」という分かりやすい一面に惹かれて近づいてきた女たちばかりなのだから、長続きするはずもなかった。  男など恋愛対象になるはずもないと思っていたというのに……気づけば、累のことばかり考えている。 「けどまぁ、無事に終わってよかったじゃん。試験と練習でげっそりしちゃってたくせに、目だけギラギラしてて怖かったもん、賢二郎」 「そーやろか。覚えてへん」 「そーだよ。しっかしさー、いくらあのニコラ・ルイーズ・高比良の一人息子とはいえ、大学側もあの子に媚びへつらいすぎだよなぁ?」  張り合いのない賢二郎に発破をかけているつもりなのか、能代が突然累の話題を持ち出してきた。だが、決して好意的ではない物言いに、賢二郎の眉はピクリと動く。 「しかもあのハーフくん、夏目先生の弟子なんだろ? なんかさー、夏目もラッキーだよね。ちっちゃい頃から面倒見てた子があんな大物に化けてさぁ。今後学長も夏目に頭上がんないじゃん? あの子の公演以來、入学希望の問い合わせめちゃくちゃ増えたらしいし、すげぇ宣伝効果」 「……せやな」  相槌を打ちつつも、内心カチンカチンと気に障りまくりだ。累のことを何も知らないくせに、何を好き勝手なことを言ってくれているのかと腹が立つ。……だが、累と共演するまで、賢二郎もまさに能代のようなことを感じていたのもまた事実。  賢二郎の実家はごく普通のサラリーマン家庭だ。四歳の頃にたまたま参加した『ちびっこヴァイオリン教室』で、初めて耳にした本物の音楽の美しさに、稲妻に撃たれたかのような衝撃を受けた。そしてその日から、賢二郎はヴァイオリンの道に入ったのだった。  ただでさえ、ヴァイオリンは金がかかる楽器だ。身体の成長に合わせてヴァイオリンを買い換えねばならないし、レッスン代も高額。コンクールに参加しようと思えば、参加費や遠征費、そして衣装代などの金が必要だ。ここまで賢二郎を支え続けてきてくれた両親には頭が上がらない。親への恩に報いるためにも、賢二郎はヴァイオリニストになるという夢を必ず叶えねばならない。  そんな自分とは違い、累は何から何まで恵まれている。余裕に満ち満ちた美しい容姿でさえ、憎たらしいと思っていた。  だが今は、そんなふうには思えない。能代の相手をすることさえ面倒で、賢二郎は食べかけていたミートソースパスタをもぐもぐと勢いよく食べ始めた。 「年度末にまたコンクールあるじゃん。賢二郎は出るんだろ?」 「……まぁ、今から準備して間に合うか分からへんけどな。能代は出ぇへんの?」 「出ねーよ。コンクールとか、俺にはもう関係ないし」 「……あっそ」  こういう能代のゆるさに引きずられそうになる自分を叱咤して、賢二郎は一つため息をついた。賢二郎と同じく上昇志向の高い学生はたくさんいるけれど、そういう学生は概ね賢二郎を避けるきらいがあるため、あまり交流がない。そういうところは、幼い頃から変わらない。結局仲間らしい仲間はいないままだ。ひとりで頑張るしかない。 「それよりさぁ、こないだ誘った合コン、どーする? 考えてくれた?」 「んー……」 「なんだよぉノリわりーじゃん。賢二郎いてくれたら絶対女子のテンション上がるし! お前だって女ほしーだろ!?」 「女ねぇ」 「音楽には恋も大事だろ!? まぁ、夢破れてる俺が言うなって感じだけどな、ははっ」  能代の自虐ネタに付き合う気にもならないし、そもそも合コンなど興味もない。賢二郎は敢えてずずずーと音を立ててパスタをすすり、さてどう断るかと考えつつ窓の外を見ると―― 「………………えっっっ!!!??」 「わっ! な、何だよ急に大声出して!!」  賢二郎はガラス窓にべたりと張り付き、何度も目をこすった。何度も瞬きをし、窓ガラスに張り付いて、学食横の通りを食い入るように見つめた。 「なああれ、累クンやんな!? あそこにおるん、その例の天才クンやんな!!?? 幻覚ちゃうやんな!?!」 「えぇ? ……あ、ほんとだ。何でまたここにいんだろ」  すぐそこの通路で女子学生に囲まれ、苦笑を浮かべている累の姿が、ある……!! 『きゃー、累くんだぁ♡握手してください♡』『いやーんもう手洗えなーい♡』『ヴァイオリンうまくなっちゃいそー♡』ときゃぴきゃぴとはしゃぐ女子学生たちに囲まれて、引き攣った愛想笑いを浮かべる累が、そこに……!! 「えっなんで!? なんであの子ここにいてんの!? うそやん、なんで!?」 「ちょお前……なにそのテンション」  突然元気になった賢二郎に、能代ががっつり引いている。だが賢二郎はお構いなしに、ガラス越しに累の姿に見惚れていた。  ――ああああああ……相変わらずめっちゃカッコええ〜〜……。ちゅーか、なんやねんあの女ども……気安くその子にべたべた触ってんちゃうんぞ!! あっ、また触った!! 許されへんでクソ羨ましい……っ……!!   賢二郎の放つ邪念に気づいたのか、ふと累の視線がこっちを向いた。そして、しめたとばかりに累は目を輝かせ、わざとらしく賢二郎に向かって手を上げるのである。そして累は女子学生たちを振り切って、まっすぐこちらに歩いてくるではないか。賢二郎は焦った。 「ちょ、え、どないしょ、こっちくるやん……っ!」 「……ちょいお前どうしたんだよ……」  賢二郎がわたわたしているうちに、累はスタスタと学食の中を進んでこちらに向かってくるところだ。あたりがざわつくのもお構いなしに、累は賢二郎の前に立つと、ぺこりと礼儀正しく一礼した。 「お久しぶりです、石ケ森さん」 「お、お、おう……久々やな。な、なにしてんねん、こんなとこで……」 「大学が始まったので、夏目先生のレッスンはここで受けることになったんです」 「はっ!!? 夏目のレッスン……て、ここって、ここで?」 「ええ、すぐそこのレッスン室で」 「ほ、ほな……なんなん? 毎週ここにくるって、ことな……ん?」 「はい。火曜と木曜、毎週」 「へ…………へ、へぇぇ……」  突然目の前に累が現れたという現実にややパニック状態なので、今後彼が週二で大学に来るという情報を頭で処理しきれない。降って沸いた嬉しすぎる事態に、賢二郎はただただぽーっとなって、累の顔を見上げるばかりである。すると累はふと何かに気づいたように微笑んで、賢二郎の口元に指先を触れ……。 「ヒっ……?」 「石ケ森さん、ソースついてますよ。すみません、お食事中にお邪魔して。おかげさまで逃げ出せました」 「あっ……ぁ、あ、うん…………って、オォイ!! 急に触んなっていっつも言うてるやろーがっ!!」  累に触れられたことでさまざまな感情が爆発し、ついつい大きな声が出てしまった。累はびくっとなって「す、すみません」と謝っているし、能代は「すげぇ……お前天才クンとすげー仲いいじゃん……」と目を見張っている。  すると累は能代のほうへ視線を向け、ちょっと申し訳なさそうに眉を下げた。 「あ……すみません。お友達もいらしたんですね」 「えっ!? あっ、いえいえ、べつに、べつに全然大丈夫でっ!!」  累に話しかけられ、能代もまた緊張気味にうわずった声を出している。能代の隣の座席に置かれたヴァイオリンケースを認めた累は、とたんに親しげな表情を浮かべて能代に微笑みかけた。 「ヴァイオリン科の人なんですね」 「へっ……!? あ、あはは、そ、そーなんすよ!! い、いっしょっスね!!」  さっきまで累の悪口を言っていたくせに何だこの変わりようは……っ!! と、賢二郎はジロリと能代を睨んだ。累と話せてよほど嬉しかったのか、能代はペラペラと「こないだの公演すごかったよね!!」だの「すげぇな〜〜本物はマジオーラぱねェ〜!」とはしゃいでいる。あとで一発殴ってやろうと賢二郎は思った。しかも……。 「お、俺ら、来月のコンクール出るんだよね!! な、賢二郎! 一緒に頑張ってんだよなっ!?」 「はぁ? お前さっき出ぇへんて言……」 「いやいやいや!! なに言ってんのお前出るに決まってだろ〜〜!」 「ああ……確か、日本クラシック音楽コンクールですよね」  国内では注目株のコンクールであるためか、累も知っているようだ。賢二郎は能代をじっとり睨み続けているが、能代は頬をピンク色に染めて累を見つめ、「そうそう! 優勝できたら、累くんと共演できたりして!? いやそれはないか〜〜! アハハっ♡」と、キャピキャピしている。賢二郎はげんなりした。 「頑張ってくださいね。応援してます」 「あ、ありがと!! あっ、じゃ俺、練習行ってくっから!! じゃあな賢二郎!」 「おう……」  ガッとヴァオイリンケースを勢いよく背負い、能代はいい笑顔で学食を去っていった。流されやすすぎる能代に呆れつつも、にっこり微笑んで見せるだけで相手のやる気を引き出す累の影響力には、感心してしまう。  能代が消えたところで、あの日の礼を言っておこうと思い立った賢二郎は、照れ隠しにうなじを掻きながらこう言った。 「あ。あー……こないだは、すまんかったな。家まで送ってもうて……」 「いいえ、全然。石ケ森さん、酔っ払うとけっこうめんどくさい感じになるみたいなんで、あんまり飲みすぎない方がいいですよ」 「えっ、そーやった? 全然覚えてへんねんなぁ……」 「覚えてないんですか? まぁ、けっこう面白かったですけどね。演奏のことも、なんだかんだで褒めてもらえたので、嬉しかったですし」 「ほ、ほめっ……? え、僕? 僕なんかに褒められて、う、うれしいもんなん?」 「? ええ、当たり前じゃないですか」  さも当然とばかりの表情で頷く累を前にして、ぶわわっと、賢二郎の脳内にお花畑が広がってゆく。  ――う、嬉しいん? 僕に褒められたくらいで喜んでくれるん? だって僕、累クンに比べたら全然普通やん? 普通にしか弾かれへんやん? なのに、なのに……喜んでくれんの……?  ぽわわ〜んとなっていると、累はふと腕時計に目を落とした。 「あ……そろそろ時間なので、僕はこれで。コンクールの練習、頑張ってくださいね」 「えっ? あ、おう……」 「まぁ、石ケ森さんなら当然優勝だとは思いますけど、あんまり油断しないほうがいいですよ」  久しぶりの累にほわほわと浮かれていたが……その一言は聞き捨てならない。賢二郎はキッとなって累を斜め下から睨みつけつつ、こう言い放った。 「はぁ〜〜? 何やその言い方ハラ立つな! 僕を誰やと思ってんねん、絶対勝ってきたるからよう見とれよ!!」 「ふふ、楽しみにしてます。では」  悠然とした微笑みを残し、累はくるりと踵を返した。賢二郎はすとんと学食の椅子に腰を落とし、傍に置かれた相棒を見つめた。そして澄まし顔のヴァイオリンケースを、ポンと撫でる。 「……あれ、激励のつもりなん? ははっ……なんやねんあの子、ほんっま天才クンは余裕やな。言うことがいちいち勘に障りすぎるやん? ……ふふっ、ふふふふふ……」  賢二郎はぐびぐびぐびーーっと水をがぶ飲みし、ぶはっと息を吐いて立ち上がった。そしてヴァイオリンケースを勇ましく掴む。 「負けてられへんな」  歩き出した賢二郎の口元には、勝気な笑みが浮かんでいる。  おしまい♡

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