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番外編『トライアングル』④……賢二郎目線
◇このお話はフィクションです。本作品に登場する学校名・音楽団体名はすべて架空のものです。
マネージャー・岩蔵が押さえていた席はグリーン車だった。
累は初新幹線にして初グリーン車である。車両に乗り込む前からわくわくした表情をしていた累だが、グリーン車の広さや快適さに感動している様子が可愛くて、賢二郎はついつい、累にアイスを買ってやってしまった。(ちなみに、その硬さに驚いている累にも萌えた)
なにもグリーン車を取らんでも……とはじめは思ったものだが、それは正解だったとすぐに思い直すことになった。ホームで待っている十数分の間だけでも、累は相当他の乗客の目を引いていたし、累のことを知っていそうな顔でこちらを観察している様子の人々もいて、このまま乗車率100%の指定席に乗り込んで大丈夫か、と少なからず不安を感じていたのだ。岩蔵の選択は正かった。
すごい速度で流れてゆく車窓の風景を楽しげに眺める累との旅路は、ただただ純粋に、楽しかった。
普段よりも少しテンションの高い累は、賢二郎の故郷・京都について色々と知りたがった。寺や神社が多いというほかには京都への前知識が少ない累に呆れて見せながら、簡単な歴史などをレクチャーしたりもした。
ちなみに、岩蔵は一つ後ろの席で完璧に気配を決して仕事に勤しんでいたため、まるで気にならなかった。
同じ楽器をずっと弾き続けてきた者同士、会話が尽きることはなかった。いつもより少し饒舌な累が新鮮だったし、二時間あまりの間、あたりまえのように累の隣にいられることが、とても幸せだったのだ。
そして新幹線は、予定時刻通りに京都駅に到着した。
京都は観光地であり、そして学生の街だ。今は三月下旬とあって、引っ越しや旅行で京都を訪れる若者や家族連れでごった返している。
「うわ……こっちも人が多いんですね」
「そらな。駅からは車移動ていうてたけど道もめっっちゃくちゃ混むし、ほんまはあんまおすすめせぇへん。ま、今回は荷物あるからしゃーないけど」
と言いつつも、累をあまり人目に晒したくない賢二郎にとって、車移動はベストな交通手段といえる。累と賢二郎、そして石蔵は、京都の観光タクシー会社から派遣されてきた車高の高いミニバンに乗り込み、京都駅を出発した。
コンサートは、明日の十八時開始予定である。
開催地である南禅寺近辺といえば、京都屈指の有名観光スポットだ。
臨済宗南禅寺派の総本山。ビジュアル的には巨大な三門が有名だろう。高さは二十二メートルあり、二階の五鳳楼 からは京都の街並みを眺めることができる。『日本三大門』のひとつとして名高く、別名を『天下龍門』と呼ばれている。
そして春、三門周辺には桜が咲き誇る。紅葉シーズンの美しさも有名だ。
本当なら、このあたりを満遍なく累に紹介して回りたいところだが、あいにくこのあとは、京都を拠点に音楽活動を行うプロオケの伴奏者たちとのリハーサルが予定されている。
京都の街並みを興味深そうに眺めている累の瞳は、年相応に少年らしいきらめきを湛えているように見えた。気を許した自分といるからこそ、累がのびのびと過ごせているのかもしれない……と思うだけでも、少しは報われたような気持ちになる。だが。
――ほんまは、空くんと来たかったんやろけどな……。
ふと現実を思い出し、賢二郎は少し表情を曇らせる。
「……空くん、見にきたりせぇへんの?」
「ああ、はい。空、バスケ部の合宿があるんですよ」
「へぇ、あの子バスケしてはんねや。すばしっこそうやな」
「ええ、何度か試合見に行ったんですけど、すっごくかっこよかったですよ。走るのも速いし、シュートもたくさん入れてたし、すごく楽しそうで…………チームメイトの人たちが死ぬほど羨ましかったです」
「そ、そうか……。まぁ、君は指怪我したらあかんしな」
にこやかに空のことを語る累に、スッと不穏な笑みが差し挟まっている。なるほど、試合中に仲間達とハイタッチなどをしている様子に歯軋りしていたのだろうな……と、やすやすと想像できてしまった。
「空くん、そんなバスケ上手いんや」
「ええ、小学生の頃からやっているので」
「そうなんや、ベテランやな。ご両親もバスケ好きとか?」
「いえ、空のご両親はだいぶ昔に亡くなってて。空、お兄さんに育ててもらってたんです」
「へっ、そうなん?」
賢二郎の目に、空はさまざまなものに恵まれていそうな少年に見えていたため、累から聞く彼の生い立ちは少し意外なものだった。
物心つく前に母親を失い、二十も歳の離れた兄に育てられていたことも、そして、その兄の職業がホストというところにも驚いた。空があれだけ可愛らしい顔立ちをしているのだ、兄もきっと美形なのだろう。
「お兄さんもバスケが好きだったみたいなんですけど、家庭の事情で部活を続けられなかったそうなんです。一、二度一緒に試合を見に行ったんですけど、お兄さん、すごく嬉しそうに空のこと応援してて……」
「そうなんや」
「ちょっとうるっとしちゃいましたよね、なんだか」
累はそう言って、ちょっと切なげな微笑みを見せた。そうして空の家族にさえ感情移入できてしまうあたり、累と空は家族ぐるみで深い付き合いを続けている証拠であろう。しかも両家族とも、ふたりの恋愛関係について理解があるようすだ。
恵まれた環境すぎて、羨ましいを通り越して感心してしまう。
「さすが幼馴染みや。家族ぐるみでなんでも知ってんねやな」
「まぁ、たいていのことは」
「四歳から狙ろててんもんな。そらそーか」
前方を眺めながら、賢二郎はそう言った。内心相当おもしろくはないので、少し投げやりな口調になってしまったかもしれない。
――て、いやいや、こっちから空くんのことを尋ねたくせに、なんで僕が荒れてしもてんねん……アホらし。
突然大人しくなった賢二郎の横顔を、累が気遣わしげに見つめているのが分かる。そうして気を遣わせてしまったことに後悔と恥ずかしさを感じ、賢二郎は累に謝ろうとした。……が、累はハッとしたように目を見開き、再び車窓に視線をもどした。
「ねぇ石ケ森さん!! なんですかあの、あのでっかい鳥居!」
「え? ああ……あのへんな、平安神宮っていうでっかい神社あんねん。その鳥居や」
「す、すごい……あの、あとで見に行ってもいいですか? 南禅寺からは近いですか?」
「うん、近いで。ほな、時間あったら行ってみる?」
「はい、ぜひ」
数秒前にはへこんでいたのに、累に笑顔を向けられるだけであっさりと浮上してしまう己の心が恨めしい。
これまでの人生において、賢二郎の心をこうも揺さぶってくる相手は初めてだ。だからこそ、今こうして累と過ごす時間は楽しく幸せだが、同時にひどく、賢二郎の心を疲弊させているような気もする。
+
今回、累と賢二郎と共演することになっているのは、京都フィルハーモニー管弦楽団のメンバーだ。ヴァイオリンが三人、ヴィオラが二人、そしてチェロとコントラバスが一人ずつという七人のメンバーが、弦楽アンサンブルとして共演することになっている。
楽団メンバーの関心は、ことごとく累にあるようだった。ヴァイオリンの二人とチェリストは若い女性で、挨拶が済むや否や累の元へ歩み寄り、「CD買いました♡」「めっちゃ男前♡」「共演できるなんて夢いみたい♡」とはしゃいでいる。
こういう状況にも慣れつつあるのだろう、累は当たり障りのない笑みを浮かべながら丁寧に礼を言い、「今回はどうぞよろしくお願いします」と礼儀正しく言葉を返している。若干口元が引き攣っていることに気づくのは、この場においてもはや賢二郎くらいのものだろう。
「石ケ森くん、大きゅうなったねぇ」
そんな中、親しげに賢二郎の肩を叩く中年男がいる。ふっくらした頬周りや、ずんぐりむっくりした体型はまるでパンダのようだ。かつて賢二郎が所属していた音楽教室の主催者で、多治見という男である。賢二郎は多治見の妻・多治見絢子に長年ヴァイオリンを教わってきた。
「多治見先生、お久しぶりです。絢子先生はお元気ですか?」
「元気やで。明日のコンサートも見にくるから、顔見せたってな」
「はい、もちろんです。なかなかご挨拶に窺えなくて、申し訳ありません」
「いやいや、学生さんは忙しいやろ。気にせんとき」
「ありがとうございます。先生も今回のメンバーに?」
「いや今日はな、オケに入ったばっかり若い子らも出るから、一応指導者としてついてきただけ」
「若い子……あの女性たちですか?」
「ははは、そうそう。今回の話が出た時、女性陣が出たい出たいて大騒ぎしてなぁ、オーディションして選んだんや」
「……なるほど」
女性全員が累の周りに集まっているわけではないにせよ、この光景を見れば、オーディションがどういう空気だったかはなんとなく分かる。
「さすが王子様やな……」
「いやいや、何言うてんの。石ケ森くんとも一緒にやりたいて言うてる人、けっこうおったんやで?」
「……先生、そんな気ぃ使わんといてくださいよ、悲しなるわ」
「気ぃつこてるわけやないて〜! ほんまやで? 京都出身やし僕の教え子やしってことで、楽団に入ってもらわれへんやろかって声もけっこうあってん」
「へぇ、ほんまですか?」
「けど、石ケ森くん、夏からウィーンやろ? すごいやん、おめでとう」
「ありがとうございます」
多治見の言葉を聞き、久方ぶりに『留学』のことが頭に浮かぶ。今回のコンサートへの練習が過熱しすぎていたせいで、留学のことはすっぽりと頭から抜け落ちていた。
ずっとずっと憧れていた。海外で、音楽を学んでみたいと思っていた。学内でも年に一度は募集がかかり、成績優秀な学生たちが意気揚々と海の向こうへと旅立ってゆくのを、賢二郎はただ見送ってきた。校内で扱われる留学制度は高額だ。あまりにも敷居が高い。
日本でも十分に学べる。海外経験がなくとも、立派にプロとしてやっている演奏家だって、いる――そう自分に言い聞かせてきた。
頭ではそう折り合いをつけたつもりでいても、やはり、賢二郎の愛する音楽たちが生まれた国で、ヴァイオリンを弾いてみたかった。数々の名曲を生み出した国の空気に匂いは、どんなものだろうかと。どのような文化の中で、どのような風を感じながら、偉大な作曲家たちはかの音楽を作り出したのだろうか――と。
だが、話がまとまるのは早かった。
あのコンクールで優勝を果たした次の日、賢二郎は学長室に呼び出されたのである。特に何の期待もなく学長室へ出向いた賢二郎の前に、ツルツル頭の大柄な外国人がいた。彫りの深い顔立ちに深いグリーンの瞳。自然に上がった口角で、常に微笑んで見えるような大きな男だった。
この男は、ウィーン国立音楽芸術大学で教授職についているカール・ヴェッテルハイムという男だった。コンクールで賢二郎の音を聴き、是非とも弟子に迎えたいと誘いをかけにきたというのだ。
ありがたすぎる申し出に心はざわついたが、あいにく経済面で不安があるいうことを伝えると、学長とヴェッテルハイム教授は目線を交わしてにっこりと笑った。そして賢二郎を、特待生として優遇すると申し出てくれたのである。
またとない機会だ、これに飛びつかないでいられるわけがない。賢二郎はヴェッテルハイムと固い握手を交わした。
そして十月の学期開始に合わせ、夏の間に渡欧すると約束したのだった。
こうしてオーストリアで学べることが決まったのだ。そのとき胸に生まれていた感情は、高揚ではなく安堵だった。望む世界へ旅立つことのできる喜びもある、夢が叶ったという感動もある。だがそれらよりもずっと賢二郎の心を占めていた想いは、『これでようやく、累と対等になれる』というものだった。
閉塞的でのっぺりとした日本での暮らしに慣れ切った身体に、ウィーンでの学びは、自分にどんな刺激をもたらすのだろう。
累はドイツで苦労したと言っていたけれど、ずっと彼の音を聴いていた賢二郎には分かる。ドイツでの暮らしが、彼にもたらした影響を。無意識かもしれないが、累は確実にそこで様々な刺激を受けていた。だからこそ、彼の音は大きく伸びやかで堂々としているのだと。
賢二郎はちら、と累を見遣った。
三年も会えないという寂しさは、もちろんある。だがその時間を経れば、もっと堂々と、累と共に音楽をやれる気がする。
そうすれば、憧れと卑屈さを孕んだ歪な恋心など、綺麗に洗い流してしまえるかもしれない。
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