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番外編『トライアングル』⑤……賢二郎目線

 今回、賢二郎らが演奏する曲は五曲。  アンコール用に準備した曲を加えれば六曲になるが、それぞれがさほど長いわけではない。観客たちを飽きさせないよう編曲されたものを演奏することになっている。  一曲目は累のソロだ。バッハの『無伴奏パルティータ第2番、第四楽章・ジーグ』をひとりで弾く。これは累自身の選曲である。  力強く華のあるメロディには切なさを孕んだかっこよさがあり、賢二郎も好きな曲だ。それをまさか累の演奏で聴けるとは……と、内心めちゃくちゃに楽しみにしていた。  そして二曲目以降は、バックに楽団メンバーを迎え、パガニーニの『24の奇想曲』、ハイドンの『弦楽四重奏より皇帝』、ヘンデルの『パッサカリア』を演じる。  そしてラストは、バッハの『G線上のアリア』だ。あのクリスマス公演、累のバックでオケの一員として弾いていた時とは違い、今回は累とメインを務めるのだ。これは賢二郎にとっても、何やら感慨深いものがある。  そしてアンコール用に準備した曲は、数年前にヒットし、今や卒業ソングの定番となっている日本のポップスである。  別れの切なさや、その先に待つ未来を力強く、ときに儚げに歌った作品である。夜桜の花弁がひらひらと儚く舞う様を表現した歌詞が美しく、賢二郎も気に入っていた。誰もが一度は耳にしたことがあるであろうヒットソングを、累と賢二郎のふたりで演奏する。  ドイツ暮らしだった頃にヒットした曲なので、当然累は知らないであろと思っていた。が、つい最近、この曲を卒業式でピアノ伴奏したばかりだと聞き――……口では「ほーん、ピアノまで上手いんや。神様はほんっまに君に何物でも与えんねやな〜」と無関心を装ったけれど、内心では、グランドピアノに向き合う累を死ぬほど見てみたかった。  二人で切磋琢磨したおかげで、仕上がりは上々だ。楽団メンバーのゆるい完成度に若干苛立ちを覚えてしまうほどである。  だが、相手はプロだ。学生の身分で楽団メンバーに文句を言うことは憚られる。だが、累もどことなく釈然としない表情なので、おそらく感じていることは同じだろう。  すると、指揮をしながら全体のバランスを見ていた多治見が、ぱんぱんと手を叩いた。 「ほな、今日はこのくらいにしときましょか。さすが、神童と名高い累くんや、これならすぐにでも本番いけそやね」 「ありがとうございます。けど今日やってみて課題も見えてきたので、明日のリハーサルまでには修正しておきます」 「よろしいよろしい。石ケ森くんも、ええ音出せるようになったなぁ。素晴らしい成長や」 「ありがとうございます」  本日最後の通し練習を締めながら、多治見は累と賢二郎に満面の笑みで頷きを見せる。そして、今度は楽団のメンバーの方へ顔を向けた。 「いやー、学生さんらはよう弾けてはって、ええ仕上がりやねぇ。……ほんで君らは、どないしはんの?」  と、多治見が笑気の奥に凄みを湛えた声音でそんなことを言えば、楽団メンバーは改めて椅子に座り直して――  あの顔は、これから多治見のスパルタが始まる予兆である。賢二郎は累を促して、練習室を後にした。    + 「あのまま出てきちゃって良かったんですかね」  荷物を岩蔵に任せ、賢二郎と累は建物の外へ出た。  ちなみに練習会場として使用していたのは、累が宿泊する『ウェスティンホテル京都』の中にある会議室の一つだ。賢二郎は実家がほど近い場所にあるため、そちらに泊まることになっている。 「大丈夫やろ。それに、遠征先であんまり根詰めすぎてもあかんしな」 「そうですね」 「それより、鳥居見に行きたいんやろ。早めに行って飯食って、早寝せなな」 「あ、はい!」  ホテルを出て、夜の京都を歩く。ここから大鳥居まではおおよそ徒歩十分程度の道のりだ。東京とはまた違った風景が物珍しいのだろう、累は通り沿いに立ち並んだ小さな土産物屋や飲食店を興味深そうに覗き込みながら歩いている。  ちらりと累を見上げてみると、その唇には、微かな笑みが浮かんでいた。その優しい横顔を見ていれば、今、累の脳内に誰の存在が思い浮かんでいるのかということくらい、易々と想像ができる。 「空くんは今部活中か」 「ああ……どうかな。十九時だし、もうご飯を食べている頃かもしれません」 「そか。心配になるか?」 「前ほどではないですけど、シャワーや就寝時間が心配です。妙な男が空にセクハラしやしないかと思うと……」 「過保護やなあ君。ウザがられへん?」 「ええ……まぁ、若干は。でも、空も結構心配性だから、石ケ森さんのことで少し……」  と、言いかけて、累は言葉を切った。  そしてやや気まずげにこちらを見ている。賢二郎は吹き出した。 「空くんに言うたん? 僕と空くんに面識あるて、知ってしもたってこと」 「ええ……まぁ。だからもう隠す必要はないよってことを、言いたかったので……」 「ふーん、なるほどね。んで、彼はどうして僕のことを気にしてはんの?」  この様子だと、空は賢二郎の気持ちを知ったことについて、今も隠し続けていてくれているようだ。そういう空の律儀さや真面目さには親しみを覚えるし、シンプルにありがたいと思う。  だが、累の気持ちが揺るがないと分かっていて、いまだに賢二郎の存在を気にしているというのは、何故だろうかと興味が湧いた。 「空の目には、石ケ森さんは頼れそうな大人で、ヴァイオリンもすごく上手くて、色っぽい人に見えるらしくて」 「ふーん。………………ん? 空の目には、って? 何やそれどういう意味やねん」 「え? あー……」  「なるほど。君は僕のことをそうは思ってへんっちゅーことやな」 「い、いえ、そんなことは……! 石ケ森さん、ヴァイオリン上手いです!」 「……」  若干あせあせしている累を見て、ついついジトっとした目つきになる。 「フン、どうせ僕は大して頼れもせーへんやろしヴァイオリンも腕前も天才クンには劣るかもしれんし色気なんて一切皆無やろけどな」 「そ、そんなことは……」  なるほど、ステージ上にいる賢二郎のことしか知らない空にとっての自分は、そう見えているのかと納得した。正体の知れないヴァイオリニストが累のそばにいるのは、まぁ確かに気持ちの良いものではないだろう。 「あと、空が言ってたんです。『俺は音楽のことよく分かんないけど、音楽家同士で通じるものがたくさんあるんだろうな』って。『だから、ちょっと妬ける』……と」 「……なるほど。まぁ確かに、君の音聞いてたら何となく、君の機嫌や調子が分かるけど」 「え、本当ですか?」  賢二郎の言葉に、累が目を丸くしている。  仁王門通へ出ると、とうとう平安時宮の大鳥居が姿を現す。  車が行き交い、観光客らで賑わう交差点の信号で立ち止まりながら「わぁ! 本当に大きい!」と累は感嘆の声を上げている。賢二郎は横顔のまま、抑えた声でこう問いかけてみた。 「君は僕の音を聴いても、なにも分からへんの?」 「……えっ? なんですか?」  今まさにスマホで鳥居を撮影しようとしていた累には、賢二郎の呟きは届いていなかったようだ。賢二郎は苦笑して、「なんでもない。もっと近くまで行ってみよ」と言った。自分の声が聞こえていなくて良かったと、安堵しながら。 「うわ……すごいですね!」 「いうても、そう古いもんでもないけどな。建ち上がったんは昭和初期、とかやったか」 「そうなんですね。でも、すごいなぁ」  黒いキャップに黒のラフなジャケットと細身のジーンズ、そして黒いマスク(目立ちすぎ防止のため賢二郎が新品を贈呈した)という格好で、カシャカシャとスマホ撮影をしている累は、傍目に見てただの外国人観光客にしか見えない。  きっと今撮影した写真は、すぐさま空に送るのだろう。そこに若干の寂しさを感じることにも、そういう空想にも慣れてしまった自分がいる。  賢二郎は累の楽しげな様子をのんびりと眺めながら、岡崎公園の中を何気なく見回した。ここへくるのは久しぶりだ。  ここは美術館やコンサートホールなどが集まった文化的な地域で、幼い頃には何度も足を運んだ場所である。小さいながらもステージに立った思い出もたくさんある。  そこに今、累とふたりでいる。それはとても不思議な感覚だった。  練習のために過ごした濃密な時間は充実していて、本当にあっという間だった。もっとじっくり堪能しておけば良かったと思うけれど、音楽に打ち込む累の姿を目の前にして、ひとりで浮かれているわけにはいかなかった。  そのぶん、夜にはいつも浮かれた夢を見ては飛び起きて、寝不足状態だったわけだが……。  この仕事を引き受けてからこっち、いつもどこか夢の中にいるようだ。頭の芯はずっと痺れているような感覚で、ずっと現実感がない。こんな経験は初めてだ。  ――明日のコンサートが終わったら、僕はどんな気分になってんねやろ……。  すっかり日は暮れているけれど、街灯の明かりに照らされて、岡崎公園は美しい風景を浮かび上がらせている。満足げな表情でこちらを向いた累の笑顔も、はっきりと見て取れるほどに。  ――三年……か。三年も会われへんのか。  何の迷いもなく決めた留学だ。オーストリアへ行くことは、もっと、もっと腕を上げるためにも、世界を広げるためにも、必要な時間だ。  だがこうして累とふたりで過ごしていると、途端に離れ難い感情が込み上げてくる。  触れられる相手ではないと分かっているのに。愛されるわけもないと、分かっているのに。

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