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番外編『トライアングル』⑦……空目線
「累のコンサート、うまく行ったのかなぁ……」
今回のバスケ部の合宿は、通い慣れた学校内で行われていた。この二日間、他校を招いての練習試合に明け暮れていたのである。
ついこの間卒業したばかりの三年生も数人参加していたが、今回の合宿を主だって仕切るのは、空たち二年生のバスケ部員である。こまごました準備や当日のタイムスケジュール管理などで忙しく、あっという間に就寝時間になっていた。文字通り一日中走り回っていたせいで、身体も芯から疲れていて、皆すぐに爆睡だった。
ちなみに海斗は「せっかくなんだから肝試しでもやろーぜ!」と張り切っていたけれど、シャワー後はうとうとしながらスマホをいじり、気づいた時にはいびきをかいていたものである。
だが、その多忙さがありがたかった。累が今賢二郎とどんな時間を過ごしているのか……などということを考えなくても済むからだ。
別に何も心配はしていないつもりだ。賢二郎は実家に泊まると聞いていたし、以前、はっきりと「邪魔しない」と言っていた。その言葉を疑うわけではないし、二人を信用しているけれど……合宿がなければ、このモヤモヤに一晩中苦しめられていたことだろう。
そして今夜は、打ち上げを経て二十二時過ぎに帰宅だ。へとへとである。
「ただいまぁ……」と気の抜けた声を出しながら玄関で靴を脱いでいると、バスルームから壱成が顔をのぞかせた。
「おかえり、空くん」
「壱成ただいまぁ。はぁ〜〜疲れたぁ」
「はは、さすがに疲れた顔してるね。ご飯、食べて来たんだろ?」
「うん、ファミレスで打ち上げだったからねー。ふぁ〜〜あ、ねむい」
フラフラしながらリビングに入り、ぐてんとソファに座り込む。すると、風呂上がりの壱成が「何か飲む?」と訊ねてきた。
「ありがと。だいじょうぶ、俺もシャワー浴びるよ」
「そっか。……あ、累くん、今夜帰ってくるんだっけ?」
「うん。未成年だから打ち上げは断って、21時台の新幹線に乗るって言ってた」
「じゃあ、帰宅は夜中だな。こういうとき、マネージャーさんいると安心だ」
「だよねぇ」
しばし合宿での出来事を壱成に話して聞かせていた空だが、ふと、ジャージのポケットの中でスマートフォンが震えていることに気づいた。
ごそごそとスマホを取り出して、空は「あっ!」と声を上げた。『コンサートは先ほど無事終了しました。こちらが動画です。よろしければ』というメッセージとともに、動画サイトのURLが添付されていた。
「岩蔵さんから動画が!」
「え? 今夜のやつ? 見たい見たい! あ、テレビで見よう!」
「うんうん!」
Bluetoothでスマホの画面がテレビに映るように設定し、壱成と空は並んでソファに腰掛けた。そして空は、微かに震える指先でURLをタップする。
すると、パッと画面が切り替わった。
あたたかみのある色味の照明でライトアップされた夜桜の向こうに、南禅寺の巨大な門。その眺めは、まるで絵葉書や絵画のようだった。深い歴史を感じさせられる映像に、つい空の背筋も伸びてしまう。
「うわ〜すごい、京都だ! すげ〜、でっかい門だねぇ」
「でっかいよねぇ。学生時代に一回だけ旅行で京都行ったけど、なっかなかの迫力だったよ。人もすごかったけど」
「人も? そんなに多いの?」
「世界中から観光客が来るからな〜ここは。桜と紅葉の時期の京都はすごいよ」
「へぇ〜」
空はまだ京都に行ったことがないけれど、南禅寺は有名なので知っている。たまにCMでも目にするし、歴史の授業でも習ったことがあるからだ。(累は覚えがないようだったが)
だが今夜ばかりは、満開の夜桜の周辺を散策する人の気配は皆無である。
少し高い位置から撮影されているようで、観客の声が微かに入り込んでいるものの、姿は見えない。今夜のこのコンサートは全世界に配信される予定なのだ。それもあってか、さすがのように高画質である。
夜空の下に鎮座する南禅寺の三門もほんのりと明るく照らされ、重厚感のある太い柱や、端正に組み上げられた楼門の美しさにため息が漏れた。古の建造物の中、譜面台やマイクといった現代的な装置が並んでいるけれど、そこにはライトが当たらないようになっているため、闇の中に隠されているように見える。
すると、控えめにざわついていた観客らの声が徐々に低くなり、あたりがしんと静まり返った。
その数秒後、舞台の袖から悠然とした足取りで累が姿を表し、高らかな拍手が起こった。ヴァイオリンを手にした累が品のいい笑みを浮かべ、綺麗に一礼している。
「うわぁ〜……寺も似合うのか累くんは……」
観客と一緒になって拍手をしながら、壱成が感心したようにそう呟いた。空もこくこくと頷きながら、照明によって艶かしく映えるヴァイオリンを抱く累の姿に、画面越しに見惚れていた。
累がドイツにいた頃は、こうして画面越しに累の演奏を聴くこともあったけれど、恋人になってからは初めてだ。いつもすぐそばにいる累が、遠い関西の地で、歴史的建造物に抱かれながらヴァイオリンを弾く――なんだか急に緊張感が増して来て(録画だが)、空はぎゅっと手を握りしめた。
今日はタキシードではなく、黒いハイネックセーターに黒いジャケットというシンプルな出立ちである。一見地味にも見えそうな格好であるが、ヴァイオリンを構る累の立ち姿は、ものすごく華やかできれいだった。
目を閉じ、数秒俯いていた累が、スッと目を開く。ライトによって青い瞳がきらりと煌めき、瞳に凛とした強さが宿った。
そして、力強い旋律が、累の全身から放たれ始めた。
「おお……カッコいい……。すごい、どこにいても堂々としてるなぁ、累くんは」
「ほんと……ほんとだよ……」
今日はオールバックにしていないため、累が身じろぎするたびにきらきらと金色の髪がきらめいている。それがまたとてもきれいだし、場所が場所なだけにとても神聖にも見え、空は思わず感嘆のため息を漏らしてしまった。
改めて、累の演奏をすぐそばで聴いていたかったと思わずにはいられない。
もちろん、防音室での個人レッスンに付き合って、累の音色を聴くことはある。寛いだ表情でヴァイオリンを弾き、空に向かって微笑みかける累の表情は、とても優しく幸せそうだ。
だが、累はヴァイオリニストだ。ああして多くの人の前で音楽を奏でることこそが、累のなすべきことなのだろう。
幼い頃や海外生活中は、空のために弾くという気持ちが累の助けになっていたかもしれない。けれど今はの累は純粋に、もっと多くの人に音楽を届けたいと願っているはずだ。ステージに立つ累の表情を見ていれば、分かる。
累は今後ますます、音楽の世界の奥へ奥へと踏み込んでゆくだろう。
――そうか、だから不安なのか……。
危なげなく、心地よくピンと張った音色を奏で上げる累を見つめながら、空はようやく理解した。
音楽とはまるで関わりのない世界にいる空は、累と同じものを見ることはできない。だからこそ、累と同じ世界にいる賢二郎のことが、引っかかってしょうがないのである。
賢二郎が三年間海外留学するということは、もちろん知っている。物理的な距離が一瞬開くとはいえ、二人共が今後ヴァイオリンを弾き続けてゆくのだから、交わる世界は常に同じだ。距離や時間など関係ない。
空の立ち入れない世界にいる二人を、外側から眺めることしかできないもどかしさだ。だが、こればかりは空が自力で消化してゆくしかないことである。
空自身、累の音楽が大好きなのだ。幸せそうにヴァイオリンを弾く累の姿を、いつまでだって見ていたい。応援したいと、心から願っているのだから――
「お、石ケ森くんだ」
累のソロが終わり、伴奏者と賢二郎が累のそばへと集まってきた。若い男性司会者の紹介を受け、累と賢二郎はめいめい渡されたマイクに向かって軽い挨拶を口にしている。ヴァイオリンは良くても、人前で話すことにはまだ慣れていない累だ、目に見えて表情が硬い。
だが賢二郎はさほど動じる様子もなく、関西人らしい司会者に合わせて、軽妙なトークを繰り広げているではないか。その甲斐あってか、累の口元にも笑みが戻り、場の空気が温まっている。観客との距離もぐっと近くなったようで、親しみの込もったような拍手や笑い声が和やかに響いた。しかも、今日もすこぶる美人である。……空は内心、「くっ……」と呻いた。石ケ森賢二郎、やはりものすごく累の助けになっている……。
「はははっ、喋りが上手いね〜石ケ森くんて。さすがだなぁ」
「う……うん、すごい、すごいな……」
「あ……あれ? 空くん、なんでそんな悔しそうなの?」
「く、悔しくなんてない……俺は……自分でこの壁を越えないと……っ」
「そ、空くん?」
膝を抱えてブルブル震えている空を見て、壱成が察したような顔をした。そして苦笑しつつ、そっと空の肩を抱く。
「どうする? 見るのやめとく?」
「み、見る……! 見たいもん、見るよ……」
「うん、そっか。がんばれ、空くん」
「うん、うん……っ」
画面の中で、累と賢二郎はしっかりと視線を結ばせ、頷き合う。そして鼓膜を心地よく振るわせる美しいメロディーを、二人で奏で始めた。
『24の奇想曲』。ややテンポの速い曲で、冒頭から累と賢二郎は、呼吸を合わせるようにじっと見つめ合ったままである。速い指の動きも、弓の動きも、シンクロ率100パーセント。そして同時に、唇の端をやや持ち上げて微笑み合うところまで……。
「……ううっ……息ぴったり。すごい、すごい……」
「う、うん……上手いなぁ。音もすごくきれいだし、かっこいいし」
「うん……かっこいい……っ、すごく……」
こうなってくると、もはやクラシックを聴くどころの騒ぎではなくなってくる。だが、ここで目を逸らしてはいけない気がして、空はじっと累と賢二郎を見つめ続けた。
次の曲は、ゆったりとした曲調の『皇帝』だ。今度は賢二郎が主旋律を担当しているようで、おっとりとした清らかなメロディを、丁寧に弾いている。時折目を伏せ、自身の音色を噛み締めるように。とても、大切そうに。
――優しい音……すごく。なんだか、泣きたくなってきちゃうくらい……。
「石ケ森くん、綺麗な音だなぁ……なんだろう、累くんの音ともちょっと違うっていうか……同じ楽器なのに、なんでこんなに音が違うんだろう」
「うん……きれい、すごく、綺麗な音……」
賢二郎の音色のすべては、累に向かっているように感じた。だが、それはあながち間違いではない気がする。情緒的な音色を奏でながら時折累のほうを見やる賢二郎の瞳は、しっとりと濡れて艶めいている。累と目が合えば、目を細めて唇を綻ばせ、とても幸せそうに笑うのだ。
賢二郎の奏でる高音はとても澄んでいて、メロディの切なさに心が震える。ヴァイオリンの音に、並々ならぬ感情が込められているような気がした。彼の心のうちを知る空としては、いいようのない切なさが胸の奥から込み上げて来て、なんだか息が苦しかった。
その息苦しさは、そっくりそのまま賢二郎の胸の痛みなのかもしれない。
累には空がいることを、彼はよく知っている。累のことだ、賢二郎の前でも空の話をすることもあるだろう。そういうとき賢二郎は、踏み込めない世界の外側から胸を痛めるのだろう。
今の自分と同じように。
「あれっ? ど、どうしたの空くん!?」
「え……?」
「どうして泣いてんの!? そ、そんなにつらいなら、見るのをやめても……」
空の顔を覗き込んでいる壱成が、何故か悲痛な表情をしている。壱成は自分の袖をぐいと伸ばし、ぐいぐいと空の頬を拭う。気付かぬうちに、涙を流していたらしい。
「……あ、ありがと……」
「一旦消そうか? そりゃ、息ぴったりだし、ずーっと見つめ合って楽しそうに弾いてる姿を見たらきついよな……」
「い、いや……そうじゃなくて……。てか、そんなはっきり本当のこと言わないでくれる?」
「あっ……ごめん」
涙目で見上げると、壱成が顔を引きつらせた。その表情に気が抜けて、空はふふっと小さく笑った。
「……前、壱成言ってたじゃん? 年の近い音楽家仲間がいて、安心したって」
「ああ……うん」
「俺……ずっとそう思おうとしてきたけど、なかなか上手くできなかったんだ。どうしても、音楽で繋がってるあの人のことが、気になっちゃって」
「うん……そっか」
「でも、もう大丈夫……っていうか、気持ちに折り合いがつけられそうな気がする。さっきの曲聴いてて、なんか、そう思ったんだ」
ぐいと目を擦って画面に目を移すと、再び賢二郎が司会者と話をしている場面だ。観客や累にも視線を配りながら、次に演奏する曲を解説をし、見どころなどを分かりやすく説明している。『この天才少年の超絶技巧が光る一曲なので、目ぇ離したらダメですよ』と、累を持ち上げては笑いを誘っている。
すると累も照れ臭そうに微笑みながら、ヴァイオリンを顎に挟む。そして賢二郎と目線を合わせてこくりと頷き、さっきとはガラリと曲調の異なるテンポの速い曲が始まった。弦の上で自在に動く二人の指、速い動きで弓を引き、自在にヴァイオリンを歌わせる二人の姿は、やはり見惚れるほどにカッコいい。
すると、隣でくすん、と鼻を鳴らす音が聞こえて来た。
「空くん……なんか、大人になっちゃって」
「えぇ? な、なんで壱成まで涙目!?」
「だって、だってさぁ、こーんなにちっちゃかったのにさぁ。『気持ちに折り合い』だなんて、そんな大人びたこと言うようになって……」
「……改めて言われると恥ずかしいんだけど」
「俺たちの前ではもっと子どもでいてもいいんだからなっ! 累くんの前でだって、我慢することないんだからなっ!!」
「わぁっ」
ぎゅう、と壱成に抱きしめられながら頭をわしわしと撫で回される。空は「もー、やめてよぉ」と笑いながら、壱成の背中をぎゅ、と抱き返す。
「……ありがと、壱成」
「まったくもう!! どこまで健気なんだよっ、もう!」
「あははっ、もう、苦しいってばー」
ぎゅうぎゅうと壱成に力一杯抱きしめられながら、空は画面のほうへもう一度目をやった。
少し強い風が吹いているのか、舞い散る薄桃色の花弁が雪のように舞っている。心許せる相手と共に音楽に身を委ねる累の姿は、あまりにも美しかった。
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