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番外編『トライアングル』⑧……空目線
「空!」
日付が変わった、夜半過ぎ。
こっそりと玄関のドアを外に出ると、門扉の前に立っていた累が、空を見つけて目を輝かせる。その屈託のない笑顔を見て、空は心の底からホッとした。
三十分ほど前、累からメールが届いたのだ。『夜中になるけど、ちょっとだけ顔が見たい』というメッセージだった。
「累! おかえり」
「ただいま、空。ごめんね、こんな遅くに。顔が見たいだなんてわがまま言って」
「ううん、全然。俺も会いたかったし」
空がそう言うと、累はことさら嬉しそうに、白い歯を見せて笑う。ついさっきまで京都にいて、コンサートをひとつ終えて来たとは思えないほどに、眩い笑顔である。
こうしてリアルな累のそばにいると、複雑な感情に囚われていた心がほどけてゆくようだ。疲れているだろうからすぐに帰したほうがいいとは分かっているけれど、もっと累と一緒にいたかった。
空は門扉を開け、累を庭の方へ招き入れた。幼い頃にしばしばビニールプールを出して遊んだウッドデッキには、木製のベンチが置いてある。多少埃っぽいそれに並んで腰を下ろすと、ぎゅ、と累に抱きしめられた。
「……はぁ、空の匂い、落ち着く……」
「ふふ……お疲れ。どうだった? 京都」
累の背中を抱き返しながらそう問いかけてみる。ぴったりと密着した身体を伝って、累の声が響いてきた。
「きれいな街だったよ。お寺って桜が似合うんだね、あんまり行ったことなかったから、感動しちゃったな」
「たしかに。写真と動画見たよ、すごくきれいだった」
「いつか、空と旅行で来れたらいいなって思ってたんだ。人は多いけど、見るところがたくさんあるから面白いよって、石ケ森さんも言ってて……」
賢二郎の名前が口にしてしまったことを気にしたのか、累がはたと言葉を切った。これまでずっと一緒にいたのだから、彼の名前が話に登るのは当たり前のことなのに。累の気遣いに気付き、空は少し申し訳なくなってしまった。
「あ、あの……大丈夫だよ? 石ケ森さんの話しても」
「けど、空はあんまり聞きたくないんじゃないかと思って」
「もう大丈夫だよ。なんか、ごめんね。色々気ぃ遣わせちゃって」
「ううん……。ありがとう」
累の腕の中で顔を上げると、視線が間近で結び合う。空が目を閉じると、優しく累の唇が重なった。長期間離れていたわけでもなんでもないのに、累のぬくもりがものすごく懐かしいような気がする。
「コンサートの動画、見たよ。夜桜と、累たちのヴァイオリン……本当に、きれいだった」
「もう見てくれたの? 嬉しいな」
にっこりと屈託なく笑い、累は口元に笑みを残したまま夜空を見上げた。遠くに想いを馳せるような眼差しだ。
「気持ちよかったなぁ。あの門の下にいるとさ、風がすーって通るんだ。冷えた風だけど、弾いてると身体が熱くなってくるから、だんだん心地よくなってきて」
「へぇ、風かぁ」
「桜がライトアップされてて、鮮やかで。その他のものは暗闇に隠れちゃう感じ。お客さんの顔とか、実はあんまり見えなかったんだ。けど……だからかな、ものすごく静かな場所で、音楽のことだけを考えながら弾いてる感じがして……気持ちよかった」
「そっか」
暗がりの中でさえきらめく青い瞳で、累はとても幸せそうにそう語る。そんな累を愛おしく思いながらも、ほんのりと空の胸は寂しかった。
『ものすごく静かな場所』――それこそが、空の立ち入れない音楽の世界だろう。その場所へ累と共に行ける人間は、ごく限られているに違いない。
そして、賢二郎はその一人なのだ。今夜の賢二郎の音を聴いて、はっきりとそれを痛感した。
だが今は、不思議と苦い感情はない。
静謐で崇高な音の世界で、累が孤独であって欲しくない。その世界を理解し合える存在は、多ければ多いほど救いになるはずだ。
天才と持て囃されてはいても、累はまだ十七歳なのだ。今後、どんな壁にぶち当たるかも分からない。空の声が届かないこともあるかもしれない。
――そんな時、累を明るい場所へ引っぱり上げてくれるのは、あの人なのかもしれないな……。
黙ってそんなことを考えていると、累の眼差しが空の方へと戻って来た。
「空。今……何考えてたの?」
「なーんにも。今日、石ケ森さんもカッコよかったなぁ。トークが上手くてびっくりしちゃった」
「確かに、すごく助かった。まさかあんなに喋らされると思わなかったから」
「累もそういうの練習したほうがいいかもねー」
「うう……そうだよね。分かった、頑張る」
半分冗談のつもりだったのだが、累は大真面目な顔でこくりと頷いている。空は笑って、もう一度累の身体に抱きついた。あたたかく、心臓の音が聞こえてくる。空はそっと目を閉じた。
「……石ケ森さんの見送り、行ったりするの?」
「留学の? 行かないよ」
「そうなの? がっつり一緒にやってきたのに」
「そうだけど、ご家族もいるだろうしさ。それに今日、言いたいことはちゃんと伝えたから」
「言いたいこと?」
「うん、お礼。色々教えてくれて、ありがとうって」
「……そっか」
大きな手が、空の頭をそっと撫でる。安堵感に包まれる心地よさに、空の唇にも笑みが浮かんだ。
「あ〜あ、こんな時、一緒に住んでたらよかったのになって思うなー」
「えっ……? ど、どうして?」
「だってさ。これからも累はヴァイオリン弾くためにあっちこっち行ったりするだろ?」
「まぁ、そうだろうね」
「一緒に暮らしてたらさ、帰ってきた累をすぐにぎゅってできるじゃん。こんな寒いとこじゃなくて、あったかいベッドとかでさ」
「そ、空……」
ふるふる、と累の身体が震えている。寒いのかと思い顔を上げて見ると、累は白い頬を真っ赤にして目をキラキラと輝かせている。空は目を瞬いた。
「どうしたの」
「……分かった。僕、頑張るよ」
「え? 何を?」
「僕らの新居が買えるように、稼いでくるから。待ってて」
「新居? 稼ぐって……いやいや! 待って待って! そういう意味じゃなくて、もののたとえっていうか……」
「いや、僕もすごくいいなって思った。空が待っててくれる家があるなんて、すごい、夢みたいだ」
「累、だからね」
「いい目標ができたなぁ。……そうか、結婚するなら家も必要だし、ちょうどいい」
「……もう」
どんどん夢へ向かって先走っていく累の横顔には、みなぎるほどのやる気が見て取れて……空は思わず笑ってしまった。
「その前に、まずはお互い大学に受かんないとね。累は国語、頑張らないと」
「うっ……うん、そうだった」
「忍さんが勉強みてくれるって言ってたよ。壱成が言ってたんだけど、忍さん相当頭いいんだって。なんか意外だよね」
「忍さんか……怖そうだなぁ。でも、それくらいの方が頑張れるか……」
「壱成優しいから、甘えちゃいそうだしね」
「確かに」
さっきまで頬を艶めかせていた累だが、勉強や受験の話になった途端表情が重くなる。
ほんの数時間前に行われたコンサートでは、場所柄もあって、神聖さを醸し出しながらヴァイオリンを弾いていた累だ。あの姿も紛うことなく累なのだが、こうして受験の話題で青くなっている姿を見ていると、やっぱりちょっとホッとする。
――どんな累のことも、どーんと受け止められるようになりたいな……。
やや眠そうに目を瞬き始めた累を見上げながら、空は強くそう思った。
高校三年生に進級する日を目前にした、とある春の日のできごとである。
番外編『トライアングル』 おしまい
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