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番外編『受験生と、温泉と』②

「なるほど……なるほど……それで勉強に集中できない、と」 「う、うん……ごめんなさい」 「い、いや、べつに謝ることじゃないと思うんだけどさ。どうしたもんかなぁ……」  累とのあれこれをかいつまんで壱成に話すうち、恥ずかしくてたまらなくなってしまった。俯きがちに食後のコーヒーを飲みながら向かいにいる壱成をちら、と見てみる。……なぜか壱成の頬は赤く涙目である。 「な! なんで壱成まで照れてんの」 「いや、照れてるわけじゃないって。……なんか、ほんとに大きくなったんだなぁ……って」 「えぇ……なにそれぇ」 「だって、こんなにちっちゃかった空くんが……ってだけでなんか胸いっぱいだし。累くんが空くんのこと大好きだったってのも、俺はよくよく知ってるわけで……はぁ、すごいね」 「……うう」  しみじみ……とため息をつきながら、壱成はゆるゆると首を振る。もうこれ以上の羞恥には耐えられず、空はたまらず顔を覆った。 「い、今はそこじゃなくて!!! どうやったら勉強に集中できるかってことが議題!!!」 「あっ……そうだった、うん、そうでした……」  壱成はごほんと咳払いをし、腕組みをして「うーん」と呻った。 「とりあえずは、きちんとけじめをつけないといけないね。勉強するならするで図書館とか、カフェとかって場所を決めるとか。二人きりになれる場所は避けないと」 「う、うん……」 「イチャイチャする日も大事だろうから、そこはまぁ曜日を決めたりとかね。累くんだって、成績的にそんな余裕あるわけじゃないだろうし」 「そうなんだよね……」 「てか、累くんレベルなら、大学の方が両手を広げて待ち構えてる感じするのになぁ。試験なんてなしでどうぞ入ってくださいって」 「そういう話もあったみたいなんだけど、それじゃフェアじゃないからって、累が断ったんだ。入試に関してまで自分だけ特別、なんてよくないと思うって」 「そっか。あの子らしいね」  親しげに「あの子」と口にして微笑む壱成を見ていると、そわそわしていた空のも落ち着いてくる。甘くしたカフェオレをまた一口飲み、空はふうと息をついた。 「いつか、忍さんがうちで勉強すれば? って言ってくれてたじゃん?」 「えっ、ああ……あれか。店のオープン前ならいつでもどうぞ、って言ってたっけね」 「うん。……あれ、お願いしてみようかなぁ。忍さんが見張っててくれたら集中できそうだし」  いつぞや忍が軽い調子で、「受験生かぁ、うちを自習室に使う? 分かんないとこあったら聞いてくれたらいいし」と声をかけてくれたことがあるのだ。さらには「ついでにうちでご飯食べていけば、彩人たちも楽だろ」とまで言ってくれ、なんといい話なのかと思ったのだった。  空も累も塾へは通っていないが、スマートフォンで講座を受けることのできるアプリは利用している。時間を見つけて二人でそれを聴講し、勉強しようという計画だったのだが……まるでその時間が取れていないというのが現状だ。 「なるほどね、ちょっと頼んでみようか。彩人に言っとくよ」 「うん! ありがとう」  話がまとまってホッとしていた空だが、壱成はスマートフォンでメールを打ちながら、ちらとこちらに目線を向けてくる。空が小首を傾げると、壱成は苦笑を見せた。 「けどまぁ……彩人には詳しい事情は言えないな」 「う、うん……まぁ、そーだよねぇ」  累との交際を認めているとはいえ、「累とのエッチが気持ち良過ぎて勉強できない」などという不埒な話題など、彩人に話せるわけもない。ただでさえ、空の受験に関して、彩人は珍しく口うるさいのだ。  自分のようにではなく、壱成のようになって欲しい――と彩人はよく口にするが、空の目から見れば、彩人も立派な社会人だし、たくさんのホストやお客さんたちに信頼され愛されている姿は誇らしい。いつもキラキラしている兄だが、やはり夜の仕事ゆえの苦労や偏見もあるのだということを、空はそろそろ理解できるようになってきた。  だからこそ、第一志望にはぜひとも合格し、保育士になるという目標を叶えたい。  空はぎゅ、とマグカップを握りしめ、壱成を見つめた。 「大丈夫。がんばるよ、俺」 「うん、頑張ろうね」  昔と変わらない壱成の優しい笑顔に、空も自然と笑みになる。  明日からしっかりけじめをつけていかなきゃな……と空は決意を新たにした。  +  そして、その週末。  空は緊張気味の累を引っ張って、忍の経営するバル『hide out』へと訪れていた。  いっときはランチ営業もしていたけれど、今はまた夜だけの営業に戻っている。そのため、昼下がりの店内はとても静かだ。 「お、いらっしゃいお二人さん」 「こんにちは、忍さん」  カウンターの中で氷を削っていた忍が顔を上げ、にこやかに二人を出迎えた。累も礼儀正しく一礼し、「よろしくお願いします」と挨拶をしている。 「まぁまぁそう硬くなんないでよ。さ、奥の席どうぞ。あそこなら静かだしね」 「うん、ありがとう。こんな早い時間から仕込みするんだね」 「うん、まぁね。今日はマッサが昼からジムだし、暇だからさ〜」 「へぇ、そうなんだ。相変わらず仲いいねぇ」 「君たちほどじゃないさ。おおかた、いちゃつきた過ぎて勉強に集中できないんだろ?」 「だっ……!! だからそういうこと言わないでってば!!!!」  爽やかな笑顔で正解を言い放つ忍をひとにらみし、店奥のソファ席で累と向かい合う。累は二度目の来店なので、まだこの店が物珍しいようだ。視線をあちこちに彷徨わせている。 「久しぶりに来たなぁ……ちょっと緊張する」 「え、そう? 累、勉強できそう?」 「うん、多少緊張感がある方がいいしね。忍さんの目もあるし……」  と、カウンターにいるであろう忍を振り返った累の表情がぎょっとしたものになる。盆にフレッシュオレンジジュースを載せた忍が、すぐそばに立っていたからだろう。  空は慣れっこだが累は驚いているらしい。そんな累の反応に満足げな笑顔を浮かべながら、忍はコースターをテーブルに置きグラスを置いた。 「僕の目? うんうん、ばっちり見張ってるから大丈夫だよ」 「あっ……は、はい。すみません」 「分からないところがあったら言いなよ。僕が授業してあげるからね」 「は、はぁ……」 「累くん、ちょっと見ないうちにまたいい男になったなぁ。もう十八歳だっけ? どう、ホストクラブでバイトしない?」 「え、ええと……」 「もー、忍さん! 俺たち勉強しに来てんだから、スカウトしないでよね」  困惑している累の顔を覗き込んでは面白がっている忍のシャツを引っ張ってたしなめる。忍は楽しげに軽く笑い声をたて、ひょいと累から離れた。 「冗談冗談、彩人に怒られちゃうよ」 「もう……すぐ累で遊ぶんだから」 「あっ、そうそう。来てもらってそうそう悪いんだけどさ、来週末はここ閉まってるから」 「そうなんだ、『sanctuary』のほうに出るの?」 「いや、クラブは全店休みにしたんだよ。全店舗一斉に施設点検作業をする予定でね、そのついでにみんなにも休暇をとってもらおうと思ってさ」 「ああ、兄ちゃんがそんなこと言ってたような……」  平日は朝以外会うことのない兄が、「ああ〜、ひっさびさの休みだわ」と喜んでいた声を小耳に挟んだことを思い出す。壱成とどこか出かけるのかな……と思った程度で、自分には関係のない話題だと思っていた。 「それでさ、久しぶりにみんなで温泉でも行って羽を伸ばそうかと思ってるんだ。どう、君たちも来る?」 「えっ、俺たちって、俺と累もってこと?」 「そう。まぁ、行っても君たちは旅館で勉強してもらうことになるだろうけど」 「おんせん……」  ふと、嬉しそうな累の声が聞こえてくる。忍から累へ目線を移すと、青い瞳をキラキラさせる累の姿がある。空は目を瞬いた。 「累、温泉好きなの?」 「ううん、僕、温泉って行ったことないんだ。両親が忙しくて、旅行なんかもほとんどしたことないし……」 「えっ!? そーなの!?」 「いいなぁ、空と温泉かぁ。行ってみたいなぁ」  どんな想像をしているのか、累はぽわわんとした表情で温泉へと思いを馳せ始めているようだ。とてもわくわくしているようすが手にとるように伝わってくる……。 「累……温泉行ったことないんだ。一応日本人なのに……」 「じゃあ決まりだね。君の保護者には僕からも連絡しとくよ。累くんも、ご両親に話つけといてね」 「あ、はい。あの……僕、本当に一緒に行ってもいいんですか?」  すこし躊躇いがちに忍にそう訊ねる累だが、やはり目はまばゆいほどにキラキラしている。その様子が可愛らしかったのか、忍も珍しく慈愛に満ちたような表情をして頷いた。 「もちろんさ。僕おすすめの秘湯があるんだ。料理もうまいし、静かだし、すごくいいところだよ」 「わぁ……ありがとうございます、忍さん!」  ほんの数分前まで忍に懐く様子もなかったというのに、この嬉しそうな表情である。素直な笑顔にすっかり絆されてしまったのか、忍もどことなく母性みある微笑みだ。 「こんなことでそんなに嬉しそうにしてくれるなんて……かわいいなぁ累くんは。あ、でも君たちにはきっちり勉強タイム作っておくからね」 「はい、がんばります。すごく楽しみです、温泉」  さっそくスマホを片手に奥へ引っ込んでいった忍を見送り、二人はようやくノートを開き始める。だが、累はニコニコしながら「温泉ってどれくらい熱いのかな」「冬のイメージがあったけど、夏も楽しそうだね」「空、浴衣着てくれる?」と嬉しそうである。 「あのねぇ、累。俺も楽しみだけど、俺たちは大人たちが宴会してる横で多分勉強してなきゃいけないんだよ」 「うんうん、いいよ、それも楽しそう。ちょっとぐらい騒がしい方が集中できるしさ」 「まあそれはあるけど。あのさ、浴衣着てるからって、えっちなことできないんだからね? わかってる?」 「分かってるって。……そういうことは、二人だけで旅行に行けるようになった時、いっぱいしようね」 「……う、うん」  まっすぐな眼差しで光り輝かんばかりの笑顔を向けられ、空は思わず頬をポポっと赤く染めてしまう。  ――二人で温泉旅行かぁ……累、浴衣も似合うだろうなぁ。  外見は完全に西洋風だが、色が白いので紺地の浴衣が似合いそうだ。きっとものすごくかっこいいだろう。湯上がりに白い頬を火照らせつつ、空に迫ってくる累の姿を妄想しかけて………………ハッとする。  カウンターでカービングをしつつ、こちらをにこやかに眺めている忍と目が合った―― 「さ、さぁ! 勉強しよ!! 一講座聴き終わるまでしゃべらないこと!!」 「う、うん、了解。頑張ろう」 「よし!!」  イヤホンをしながら頷き合い、二人はようやく勉強を始めた。

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