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番外編『受験生と、温泉と』③
東京から車で約二時間。
高速道路を降りてから、くねくねした山道をぬけ辿り着いた先には、情緒あふれる温泉旅館が佇んでいた。
古めかしくも重厚感たっぷりな外観に、累が一番に感嘆の声を上げている。
「すごい、すごいね、空。日本らしくてすごく素敵だ」
「うん、ほんと……。ていうか、こんないい宿、俺も泊まったことないから緊張する……」
まず、ロビーが広い。床は全館青々とした畳敷きで、壁の一面は巨大な一枚ガラスの嵌った窓がある。その向こうには美しく整えられた日本庭園が広がり、とても開放感があった。ここが山奥であるということを忘れてしまいそうだ。
ロビーの奥には小洒落た和モダン風のバーがあり、小上がりになった一角では、無料で和菓子を食すこともできるようだ。
従業員の人たちは皆愛想のいい笑顔で挨拶をしてくれるし、居心地いいことこの上ない。
「いつもはもっと普通っていうか、こんな広いとこ泊まったことないんだけど……」
「へぇ、彩人さんて、毎回こういうとこ選んでそうなイメージだけど」
「そう? まぁ、兄ちゃん仕事以外ではわりと庶民だからねー」
空が小学生の頃は、家族で毎年どこかへ出掛けていた。海だったり、川だったり、温泉だったり。兄たちは空のために時間を作ってくれたものだった。
だが、空が中学生に上がって本格的に部活が始まり、兄たちもさらに忙しくなり、徐々に旅行などに出かける機会は減っていたので、こうして本格的に旅行に出るのは四、五年ぶりである。
兄たちは今、フロントでチェックインをしているところだ。忍とマッサは、この付近でゴルフ接待を一つ終えてから合流するらしい。
ちなみにこの旅館は、忍が仕事の付き合いで知り合った富豪夫婦の所有物らしい。そのご夫婦の好意により、なんと今回の宿泊費はタダだ。改めて、忍の人間関係が謎すぎて怖い。
そこへ、壱成と彩人が二人の元へ戻ってきた。ふくよかな頬がツヤツヤと健康的な仲居さんと一緒である。
「二人とも疲れてないか? さ、とりあえず部屋いこーぜ」
「あ、うん!」
ここまで運転を担当していた彩人だが、その表情に疲れはなく、うきうきと楽しそうだ。ここ最近疲れ気味だった壱成の表情も晴れやかだ。兄たちのくつろいだ表情に、空も嬉しくなってくる。
「すっごい宿だよな……全額払ってくれるとかどんな知り合いだ? 忍さんの人脈どうなってんだよ……」
と、壱成も空と同じようなことをブツブツと呟いている。
「『sanctuary』の前オーナーの人脈全部引き継いでるらしいからなー。警察つながりのあれこれもあるみたいだし」
「怖っ……すごすぎんだろ」
「まあまあ、あんまり深く考えなって」
にこにこと上機嫌な彩人にひょいと肩を抱かれ、壱成の表情もふわりと緩む。こうしていると友人同士の軽いスキンシップにしか見えないのだが、壱成は仲井さんの目を気にしているのか「腕が重い」と言ってひょいと身をかわした。
客室へ続く廊下ももちろん全て畳敷きで、淡い草色に塗られた土壁や、そっと飾られた一輪挿しの花などに心遣いを感じる。前を歩いている彩人が、ふと累のほうを振り向いた。
「累くん温泉初めてなんだって? 良かったな、きれいな宿で」
「はい……! けど、あの、本当にいいんですかね。僕の分まで……」
「当然じゃん。忍さん、累くんのこと気に入ってるしな〜」
「はっ!?」
彩人の発言に、くわっとなったのは空である。
「な、なにそれ!? まさか忍さん、『こないだいい宿泊めてやったろ』とかって、累をクラブで働かせるつもりじゃ……!!?」
「はははっ、そんなわけねーじゃん。ヴァイオリンのほうだよ。忍さん、累くんのファンなんだ」
「えっ……そ、そうなんですか?」
それには累も空もびっくりだ。『hide out』に行った時、妙に絡んできたのはそういうことだったのか?
「二年前か、凱旋公演一緒に聴きに行ったろ? 忍さん、すげぇ感動しててさ〜」
「へぇ、なんか意外だなぁ。忍さん、クラシックとかクールに批評しながら聴いてそうなのに」
「俺もそう思ってたけどな。『あの若さですごい……神の音色だ』なんてうるうるしてたらしーぜ。マッサが言ってた」
「そ、そうなんですね……嬉しいな」
苦手意識のあった忍に音楽を認められていたと知り、累はとても嬉しそうである。空は累に笑みを見せた。
「よかったねぇ、累」
「う、うん……嬉しいよ」
「そんなわけだし、累くんも忍さんと仲良くしてやってくれよな〜。あ、バイトの話はスルーしてくれていいからな」
「はっ、はい。分かりました」
そうこうしているうちに、空と累にあてがわれた一室に到着した。
部屋もまた広々とした和洋室で、なんと各部屋に露天風呂が備えられているというではないか。累が目を輝かせたのはいうまでもない。
ベランダの露天は岩風呂だ。広々とした床は石畳風だがかすかにクッション製のあるタイルのようで、裸足で歩いても心地がいい。
「す、すごい……!! 部屋に露天風呂があるなんて……!」
「あ、あのね累。これがスタンダードじゃないからね?」
「う、うん……でも、すごい。すごいなぁ……」
そこから望む風景は壮大だった。雄大な自然がパノラマで迫ってくる。
この宿は崖近くに造られているようで、視界を遮るものが何もない。しばし言葉を忘れて、四人で風景を眺めていた。
泰然とした時間が流れ、日常を忘れ去ってしまいそうだったが……。
パン、と壱成が一つ手を叩く。
「はい、じゃあ君たちは先にひとっ風呂あびて、夕飯まで勉強すること」
「えっ!? もっと宿の中とか見てまわりたいよ」
「だーめ。それは食べた後でもできるから。ほら、忍さんとも約束したんだろ?」
「うっ」
「ほら、入った入った。俺たちも荷物置いたら、またこっち戻ってくるからな」
と、彩人も腕組みをして頷きながらそう言った。
忙しない話ではあるが、今回ここへきた目的の一つは勉強だ。空は累と顔を見合わせる。
「じゃあ……入ろっか、お風呂」
「う、うん! 入ろう!」
やや気重な空とは違い、累はぱぁぁぁと心から嬉しそうな笑顔である。
つられて空の表情もふにゃりと緩んだ。
+
「ぅあ、あっ……つい……」
洗い場で汗を流した後、おっかなびっくり湯船につま先を差し込んだ累が、うっとなって声を漏らしている。ここの温泉の温度は40度と熱すぎるわけではないが、普段シャワー派の累にとっては刺激的な温度かもしれない。
「ふふっ、大丈夫? ゆっくり入りなよ」
「う、うん。……ああ……す、すごい……熱い……っ」
「そ、そうだねぇ……」
――うう……どうして累の台詞がエロく聞こえちゃうんだろう……。
服を脱ぐ累の姿にも若干ドキドキしていた上、白い肌をほんのりと薄紅色に染め、熱っぽいため息をつく累の姿が妙にいやらしいものに見えてしまう。……いつの間に、自分はこんなにも煩悩にまみれてしまったのだろう……と、空は軽くへこんだ。
「あぁ…………っ……うわぁ〜……」
空の煩悩など知る由もなさそうに、累はようやく胸まで湯船に浸かったところだ。胸いっぱいと言わんばかりの吐息をもらしながら、累は空を見てにっこり笑った。
「熱いけど、すごく気持ちいい」
「そ……そうだよね! 景色もいいし最高だよ」
「景色。ああ……ほんとだ。すごいなぁ、こんな山の中でのんびり風呂に入れるなんて、すごいなぁ」
「ふふ……」
改めてのように景色を眺め、累は子どものようにはしゃいだ笑顔を浮かべている。累の初めてに付き合えたことが嬉しいし、この旅行をめいいっぱい楽しんでいる累が可愛くて仕方がない。
空はふと思い立ち、湯船から出て備え付けのタオルを冷水で濡らした。それを折りたたみ、累の頭の上にぽんと置く。空の行動を不思議そうに眺めていた累が、はっとしている。
「温泉って感じがする……!」
「冷たいタオルを乗せとくと、のぼせないんだって。累、なんかすぐのぼせちゃいそうだから、念のため」
「ありがとう、空」
にこにこしながら湯を満喫している累を眺めつつ、空ももう一度肩まで浸かった。体温よりもやや熱い湯が、細胞のひとつひとつにまで染み渡り、身体を活性させてゆくような感じがする。疲れ気味の彩人と壱成ならば、もっともっと気持ちいいのかもしれないなと空は思った。
ふたりで温泉に浸かっているが、防水加工の施された障子風デザインの引き戸の向こうには、彩人と壱成がくつろいでいる。本当ならば少しくらいいちゃいちゃしたいものだが、今回はぐっと我慢だ。
「ここ、夜は星も綺麗だろうなぁ」
「えっ……? ああ……確かに。街の明かりがまったくないもんね」
「楽しみだなぁ。一緒に見ようね」
つやつやの頬をほんのり紅潮させた累に優しく微笑みかけられて、どきんとまた胸が跳ねた。空は「うん、見よう」と応えながら、ふいと俯く。
「? どうしたの空。のぼせちゃった?」
「う、ううん……。なんか、さっきからドキドキしちゃって」
「え? お湯が熱いから?」
「ち、ちがうって!! 累、なんか最近かっこよくなった……な〜って」
「えっ」
よほど驚いたのか、累が頭に乗せていたタオルが湯船に落ちた。空は慌ててそれを拾い上げ、背後ににょっきりそびえている岩の上に置く。
「背が伸びて、筋肉ついてきたから……ってのもあるけど」
「そ、そうかな。特に鍛えてはないけど……」
「あれだけヴァイオリン弾いてたら筋肉もつくでしょ。……ていうかその……え、エッチするようになってから、累、前より落ち着いてるっていうか、大人っぽくなったっていうか……」
自分で口にしてみて、なるほどそういうことかと思う。
身体を繋げ合うまでの累は、今よりももっとがっつきがちで、空が欲しいという気持ちに急かされているように見えていた。
だがセックスを覚え、たびたび身体を重ね合うようになってからというもの、累を取り巻く空気にはゆったりとした余裕がある。甘い甘いキスにも、空に触れる時の手つきにも、普段学校で過ごしているときに見せる微笑みにも。
学校でももともと目立っていた累だが、最近のモテっぷりはさらにすごい。さらには累自身もそういう状況に慣れてきているところがあるから、「 きゃー、ルイくーん♡」と声援を受ければ微笑み返すし、目の前で転んだ一年生(男)がいれば「大丈夫?」と声をかけて手を差し伸べる。
男女関係なく人を惹き寄せるようになってきた累だが、空を見つければ「あっ、そら!」と顔を輝かせながら駆け寄ってきてくれるところが可愛くてたまらない。
そんな話をしていると、累がすすすと空の隣に近づいてきた。
そして、ちゅっと額にキスをされてしまった。
「ちょっ……! すぐそこに、にいちゃんたちいるから……!」
「これだけにするから、大丈夫」
「もう……」
「余裕かぁ……でも、それはあるかも。僕はちゃんと空に愛してもらえてるって、自信が持てるようになってきたから」
「へ」
空ははっとして累の方を向くと、ぱしゃと軽く水が跳ねた。
「前はね、僕の気持ちが重すぎるのかなって思うことが結構あったから」
「そ……そうかぁ……」
「ふふ、だよね。けど最近は、ああ、空も僕のこと好きなんだなって、分かるんだ」
累はふふっと笑って、湯で濡れそぼった空の前髪をかき上げた。
「セックスをしたからってのもあると思うよ。死ぬほど我慢してから」
「あ……そ、そうですか」
「けどそれ以上に、空は僕のことを本当に理解してくれてるんだなって、ふとした時に思うんだ。だからかな」
「累……」
空の髪を梳きながら微笑む累が愛おしすぎて、息が苦しい。つやつやの頬をほんのりと上気させ、水面の揺らぎを映す美しい瞳に魅入られて、空はうっとりしてしまった。
――あああ……なんてかっこいいんだろう。キスしたい……。
その気持ちを読み取ったかのように、累はそっと、湯の中にあった空の手を取り、指先にキスをした。そして、以前よりも男を香らせるような眼差しで見つめられ、かぁぁぁ、と全身の温度が上がってゆき……。
「あっ!! そ、そら!?」
空はとうとう、へなへなへな〜と湯船に沈みそうになってしまった。
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