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番外編『受験生と、温泉と』④……累目線

「ほんで、こっちの文章に全部こたえ書いてあるから……」 「ああ……なるほど」  部屋の中央にどっしりと置かれた一枚板のテーブルで、累はマッサによる国語の授業を受けていた。  一時間ほど前に合流してきたマッサと忍が、高校生部屋に顔をのぞかせに来たのである。  そのときちょうど彩人と壱成は風呂に入るといって不在で、のぼせた空はソファでくったりしているところだった。 「一段落ついたし、ほな、ちょい休憩しよか」 「はい、ありがとうございます」  累はマッサとこれまであまり接点がなかった。空からしばしば話は聞いていたものだが、今回ようやく、こうして二人で顔を合わせて話ができた。  マッサは家庭の事情もあり大学進学をしていないが、高校までは進学校にいたらしい。勉強とは縁がなさそうな外見からは想像もつかないほど、マッサは教え方がうまかった。  累はそれに感動して、「ここは?」「こっちは?」と溜まっていた質問を投げかけ、スッキリしたところである。  ソファに横になり、額に冷たいタオルを乗せていた空が、ゆっくりと起き上がった。 「あ、そら。大丈夫?」 「だ、大丈夫、大丈夫……」 「気持ち悪くない? もうちょっと横になってた方が……」 「もう平気だよ。ありがと」  まだほんのり頬は赤いし目は潤んでいるけれど、しっかりとした声で返事をする空に安堵する。空は感心したように「聞いてるだけで結構勉強になったかも。マッサ、本物の家庭教師みたいだねぇ」と言った。 「本当だ。僕より断然教え上手だよ」 と、淹れたての紅茶をテーブルに並べながら、忍が他人事のように笑っている。空にはアイスティーだ。 「そういや、忍さんて大学どこだったの?」 と、グラスを受け取りながら空が尋ねる。マッサの隣に腰掛けてカップを手に取り、忍はこともなげにこう言った。 「英誠大学の法学部出身だよ」 「えっ!? マジで!?」 「ふふ、若かりし頃はエリートコースまっしぐらだったからねぇ〜」  さらっと忍が口にした大学名を聞き、空が驚いたようすで目を丸くしている。大学偏差値ランキングのトップに君臨する大学名だということは、さすがの累にも知っているため、心底感心した。 「忍さん、すごく頭がいいんですね……羨ましい」 「そうだね、勉強には昔から苦労したことなかったかな」 「えええ!? そうなの!? 忍さんの頭どーなってんの!?」  思わず食いつく空の頭を撫でながら、忍は「だから教える、っていうのは僕にはちょっとハードル高かったかもなぁ」と微笑んだ。 「忍さんは思考回路が独特というか……ちょっと変やから、多分教えてもうても何言うてるか分からへんと思うで」  慣れないことをして疲れたのか、マッサは首をぐるりと回しながらそんなことを言う。その台詞に、忍の柳眉がぴくりと動いた。 「変てなに、変て。もっと他に言い方ないのかな?」 「ほな、天才肌……て言うたらええですか?」  マッサの提案に、忍は満更でもなさそうな頷きを返しつつ「天才……ならいいか」と、顎を撫でている。忍の扱いに慣れているな……と累は思った。 「ま、そこはともかく。数学なんかも問題見た途端答えパッて分からはるみたいやし、途中の説明なんてできひんわな」 「へぇ〜、そうなんだ。すげー」 「羨ましいなぁ……」 と、空と累が同時にそう言うと、マッサが笑いながら空の頭をわしわしと撫でる。 「ま、お前らはお前らのペースでやったら大丈夫やろ。累くんもいうほど国語できひんわけちゃうし」 「ほんとですか?」 「おう。読解はコツがいんねん。店で勉強すんねやったら、俺たまに覗きに行ったろか?」 「はい、ぜひ!」  願ってもない申し出に累が顔を輝かせると、マッサも優しく微笑み返してくれた。  家族のように親しい兄貴分がたくさんいる空の境遇が、累は密かに少し羨ましかった。累の両親はそれぞれ多忙で、親戚付き合いもほとんどないからだ。    だが今回こうして旅行に誘ってもらえたことをきっかけに、自分も彼らともう少し親しくなれてきたような気がする。それがとても嬉しかった。  空の隣で香りのいい紅茶を口にしていると、触れている腕に微かな重みを感じた。空もまた少し嬉しそうな笑みを浮かべながら、累を見上げている。  累の気持ちを読み取っているかのように、通じている表情だった。    +  そろそろ太陽が山陰(やまかげ)に隠れ始めた頃、六人は離れの食事処で夕飯となった。  この宿では、ひと組ひと組に個室があてがわれるため、のんびり食事ができる。  開け放たれた障子の向こうは、ライトアップされた日本庭園だ。鹿威しの音をリアルに聴くのは初めてで、カコーンというのんびりした音色が面白い。  縁側に出てみると、庭の向こうに、山の稜線が黒く浮かび上がっているのが見えた。まだ夕暮れの名残を残す空には、一番星が綺麗に瞬いている。 「す、すげぇ〜! すっごい豪華だねぇ!」 「ほんとだ……すごい」  そして、机の上にずらりと並んだ懐石料理を見て、累と空は揃って声を上げた。  雅ながらも可愛らしい小皿に盛られた前菜や、黒い石皿の上できれいに並んだお造り。くつくつと湯気をたてるすき焼きや野菜の炊き合わせの数々に、累の瞳も思わず輝く。  母・ニコラが普段あまり料理をしないこともあり、こういう本格的な和食にはあまり縁がない累だ。口に入れるもの入れるもの、全てが新鮮な味だった。  一口食べては「美味しい……」としみじみ呟きつつも、本当にお金を払わなくていいのだろうかと若干不安を感じてしまう。 「ほんと、めっちゃくちゃ美味いっすね。忍さんグッジョブ」 「うんうん、すっげー美味い! こんなに豪華な食事をのんびり食べれるなんて、ほんと最高」  累と空の向かいに座っている彩人と壱成も、しみじみ美味そうに料理を口に運んでいる。白地に紺の太い縦縞が入ったモダン柄な浴衣に身を包んだ二人は、普段よりもずっと寛いだ表情で若々しい。 「喜んでもらえてよかったよ。累くん、初めての温泉どうだった?」  ニコニコしながら、累の隣で烏龍茶を飲んでいるのは忍である。  忍とマッサの部屋に備え付けてあった浴衣は淡い灰色だったようで、そこはかとなく涼しげだ。食事の前に軽く温泉に浸かってきたという忍の髪は少し濡れている。 「すっごく気持ち良かったです。ちょっと熱かったけど、それがまた良くて」 「だよね〜。僕も熱いほうが好きなんだ」  温泉の話から入り、クラシック談義に花が咲く。忍は幼い頃からピアノを長期間習っていたといい、さすがのようにクラシックにも詳しかった。  しばらく忍とふたりで音楽の話に花を咲かせているうち、向かいに座る壱成・彩人・マッサには徐々に酒が入り始めたようで、なんだか様子が変わってきた。 「おいおい……壱成飲みすぎじゃん。お前あんま強くねーんだから、ほどほどにしとけって」 「うっせーなぁ〜俺だってなぁ、新入社員のころからあまたの接待をのりこえて……」 「はいはい、分かってるって。てかお前日本酒飲んだら足に来んだから、もうここれでおしまいな」 「いやだね。こんな美味い日本酒初めてだもん」 「ったく……」  普段見慣れない壱成の酔っ払い姿に、累は二度三度と目を瞬いた。隣で空が「ごめんねぇ。壱成仕事のストレスすごいから、酔っ払うとあーなっちゃうの」と苦笑している。 「そっか……大変なんだね」 「兄ちゃんは全然酔わないんだけどねぇ」  空は慣れっこなのか、うまく煮えたすき焼きをもぐもぐしては「と、とろける……」とうっとりしている。浴衣姿で幸せそうに食事をしている空が可愛くて、累はスッ……と懐からスマートフォンを取り出そうとした。  が、今度はマッサと忍の会話に巻き込まれたため、撮影はできなかった……。 「累くんは結構飲めそうやなぁ。ご両親、酒強いん?」 「ええ、両親ともすごくお酒が好きで。特に母は、ほっといたら昼からワイン開けてますね」 「ははっ、そうなんや。ほな累くんもきっと強いやろな」  累が曖昧に微笑んでいると、忍がマッサの盃に酒を注ぐ。マッサは嬉しそうに「お、ありがとう」と言い、くいと盃を空にした。男らしい飲みっぷりだ。 「空はどやろなぁ。彩人がザルやし、空も強かったらええな」 「だといいんだけどねぇ。壱成、二日酔いでいつも死にそうになってるし、俺は飲める体質であってほしい……」 「ははっ。壱成も苦労してんな」  見れば、壱成は彩人に寄りかかって眠たげな顔つきになっている。累の両親は果てしなく陽気になるタイプなので、こういう酔い方をする大人を見るのは初めてだ。 「……ねむい」 「ほらみろ。壱成、部屋戻って寝るか?」 「いやだ。もうちょっと……食べてから……」  むく、と姿勢を正して再び食事を取り始めた壱成である。いつになく無防備な姿が物珍しくて眺めているうち、「あーんしてやろっか♡」と壱成を甘やかそうとする彩人と、「い、いいよ! 若者の前でやめろっ」と文句を言っている壱成の姿に、なんだか累は照れてきてしまった。  ――空も酔っ払ったらあんなふうになるのかな……。酔って甘えてくれたりなんかしたら、ものすごく可愛いだろうな……。  もわもわ、と酔っ払う空を想像しているうち、今度は締めの鯛茶漬けがやってきた。  上品な出汁に、パリッと香ばしく焼けた皮の食感、そしてふっくらした米のハーモニーが素晴らしく美味い一品だ。  そして最後にフルーツを食べる頃になると、とうとう壱成は眠り始めてしまった。 「あらら、寝ちゃった」 「ストレス溜めすぎなんちゃう?」 と、忍とマッサが心配そうに見守る中、彩人が軽々と壱成を横抱きにして立ち上がった。その頼もしさは、累でさえも惚れ惚れしてしまうほどにかっこいい。 「壱成は頑張り屋なんだよ。俺、ちょっと部屋で寝かせてくるし、空たちのこと頼むな」 「オッケー、任せといて」 「え? 任せるって何を?」  空の問いかけに、彩人はくるりとこちらを振り返る。そしてキッパリこう言った。 「受験生は勉強の時間だろ」 「うっ……そうだった」 「俺たちもこのあと軽く飲みながらミーティングする予定なんだ。見張りがてらお前らの部屋でやるからな」 「ううー……分かったよ」  むう、と難しい顔でため息をつきながら、空がちらりとこっちを見た。目に見えて残念そうな顔である。累は苦笑した。 「そうなると思ってたけどね」 「だよねぇ……はぁ。しょうがないか、俺たち受験生だし」 「僕は、空と夜遅くまで一緒に勉強できるだけでも楽しいよ。しかもこんな素敵な宿でさ」 「累……」  累が素直な気持ちを口にすると、曇っていた空の表情が緩やかに晴れてゆく。そして空はふふっと愛らしい笑みを浮かべながら、「それもそーだね」と言った。 「若いっていいな……青春だねぇ」 「ほんまむっちゃ甘酸っぱいわ……いつまででも見てられんな」  頬杖をついてニコニコしている忍と、手酌で日本酒を飲みながら深々と頷いているマッサである。  照れつつ怒っている空の声を心地よく聞きながら、累は渋めの緑茶で食事を締め括ったのであった。

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