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③……累目線
いつも音に溢れているキャンパス内も、夏休み中はさすがに少し静かになる。
帰省している学生も多い上、しかもこの極暑だ。気候の良い時期は屋外のそこここで楽器の練習をしている学生の姿を見ることができるけれど、さすがに今は誰もいない。
「あっつ……」
自主練のために大学に訪れた累も、迷わずレッスン棟へ向かっていた。まだ午前中だというのに、頭上から容赦なく照りつける直射日光には辟易する。
レッスン室はクーラーを使いたい放題で涼しいため、近場に住んでいる学生の多くが夏休み中も大学を訪れる。累の自宅には防音室が備わっているけれど、なんとなく一人でいたい気分ではなかったため、わざわざ大学まで出てきたのだった。
数日前、空に荒っぽいセックスを強いてしまったことを心の底から後悔し続けているせいか、ここのところ眠りがずっと浅い。累はブラックコーヒーを自販機で購入し、ベンチに重々しく腰を下ろす。
——空、傷ついた顔してたな……
あの日の別れ際、空が累に残していったのは寂しげな微笑みだった。空にはいつだって笑っていてほしいのに、空を幸せにすることこそが生きる意味だとさえ思っているのに、自分のせいであんな顔をさせてしまうなんて。
申し訳なくて、不甲斐なくて、情けなくて、ものすごく苦しい。「ごめん」という謝罪をいくつ並べても足りない。今後どのように挽回していけばいいのだろう。
しかも今はスランプの真っ只中だ。そんな状態だというのに、ここのところ毎日のように仕事が入っている。
この間はすでに最前線で活躍している有名女性ヴァイオリニストとの対談。そして、その次の日は雑誌の撮影だ。音楽雑誌ではなくなぜか女性雑誌に呼ばれ、ヴァイオリンを抱えた写真を撮られたりした。
今はこんな状態なので、演奏以外の仕事はむしろありがたいような気がする。スランプの只中にいる自分がいい演奏をできるとも思えず、近々で控えている演奏依頼を断りたいけど断ることもできないし……と思い悩むうち、さらに練習に身が入らなくなるという負の連鎖に陥っている。
——ヴァイオリンを弾けない僕なんて、なんの価値もないのに。
イメージ通りに弾けないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。まるで言葉を失ってしまったかのような感覚だ。感情の吐き出し方さえもわからなくなってしまった。
徐々に徐々に滞りはじめた感情の澱に、思考さえも鈍化させられているような気がする。
ずっと弾けないままだったらどうしよう……そう思うと、居ても立っても居られないような気分になる。
——これから先、僕はどうやって空を幸せにすればいいんだろう……
ヴァイオリンを弾くことは、空への愛情表現のひとつだった。
だけど今はそれができない。身体に染み込んでいたはずの音楽が、イメージ通りに表現できない。頭の中で流れるメロディとは異なる音が愛器から放たれるのは、想像以上のストレスだった。
違う、こうじゃない。もっと歌うように、流れるように、しなやかな旋律を生み出せるはずなのに、どうしてこんなにもつまらなく平坦な音しか出せなくなってしまったのだろう。
——忙しいから? ……いや、違う。求められて弾くことは、僕にとっても幸福なことだ。
この一年でオーケストラと合わせる機会も増えた。その度に新鮮な発見もある。自分よりもずっと年上のオケのメンバーや指揮者が累に遠慮しすぎて、対応に困ることもままあった。
言葉で伝えるのは不得手だが、思ったこと感じたことは、なるべく言葉にして共有してほしいと伝え、できる限りコミュケーションを大事にしてきたつもりだ。その甲斐あってか、これまでの公演は問題なく終えることができていたと思う……。
そうこうするうち、夏休みに入る少し前あたりから、自分の音に違和感を感じるようになった。
一時的なものだと周りからは言われるし、自分でもそうなのかもしれないと思う。だけど、もし、万が一治らなかったら……とネガティブな思考に囚われてしまうと、足元が抜け落ちてしまいそうなほどに怖くなった。
不安から目を逸らせば逸らすほど苛立ちが募り、空を抱くことで自我を保とうとしている。そのせいで空を傷つけるなんて、決してあってはならないことなのに。
ただ自分勝手に甘えをぶつけて、一番大切にしたい相手を思いやれなくなっているなんて……。
「はぁ………」
コーヒーの缶を掌の中に包み込み、累はここ最近くせになってしまっているため息を吐いた。寝ていないせいか、頭も痛いし身体も重い。ただでさえ暑いのは苦手だ。心も身体も絶不調である。
——空と、ゆっくりどこかへ行きたいな。最近、ちゃんと空の話も聞けてないし……寂しい。
まとまった時間が取れない上、夏休み明けに行われる音楽祭でも、累は学生オーケストラと共に#協奏曲__コンチェルト__#をやることが決まっている。今回はプロオケではなく、高城音楽大学の学生選抜オーケストラだ。累もオーディションを受け、ソリストとして選ばれた。
二、三年生が中心となって構成される学生オケの練習は四月からすでに始まっていて、累との共演を皆が楽しみにしていると聞いている。
顔見知りも多く参加しているオケなので、累もとても楽しみだ。だが心配なのは、それまでに調子が戻っているかどうか……ということ。
そして今回のコンチェルトでは、指揮者をゲストで招くことになっている。ゲストといっても外部の大物指揮者などではなく、来年度から指揮科で教鞭を取ることになっている特別講師だ。
提携校のウィーン国際音楽芸術大学の博士課程を修了した指揮者、サーシャ・シャノアーヌ・ブルクハルト。
スイス人の二十八歳で、ウィーンでは『若き天才』と評されているらしく、しかもそうとうな美男であるという噂だ。
しかもかなりの熱血タイプで、メディアへの露出も積極的にこなし、これまでクラシックになど目もくれなかった若者たちの関心をぐいぐいと引き寄せているらしい。
——そんな熱い指揮者と、こんな状態でうまくやれるのかな、僕は……
珍しく人恋しくなって大学まで出てきたのに、外が暑すぎるせいか誰もいない。何をする気にもなれなくて、累はぼんやりと自販機の脇にある窓から空を見上げた。
痛いほどの青。そばに立つ樹木の生命力あふれる緑色の葉がさらさらと揺れて、あまりにも鮮やかだ。
建物の中にいても、かすかに蝉の声が聞こえてくる。指揮もないというのに声を揃えて大合唱する蝉たちに、シンクロする生命のリズムを感じる。
遺伝子に組み込まれたプログラムによって目覚め、活動し、子孫を残し、そして死んでゆく生き物たち。そこに虫たちの意志はないかもしれない。だが、絶えることなく営みは続いている。
——僕は、なんのためにヴァイオリンを弾いているんだっけ。
五歳でヴァイオリンを始めてからずっと、一度も考えたこともないことだった。
ニコラの弾くヴァイオリンを、幼い頃からすぐそばで聴いてきた。
軽い調子で『累もやってみる?』と尋ねられ、さほど迷うことなく頷いた。ヴァイオリンは正しく音を出すのが難しい楽器だが、累は不思議とすぐに正確な音階をなぞることができたし、一度耳にしたメロディはさほど苦もなく再現することができた。
累はヴァイオリニストとしての才能を、母親からしっかりと受け継いでいたのだろう。
学べば学ぶだけ多彩な音を出せるようになった。ひとつひとつ技を獲得してゆく感覚はまるでゲームのようで楽しくて、長時間にわたるレッスンにも耐えることができた。
ただ、レッスンを受けるようになってからは空と過ごす時間が限られるようになってしまった。だけど、小学生だった空が「るいすごい!! カッコいい」「きれいなおとだね、すごいねぇ!」と目を輝かせて手を叩き、褒めてくれたことで、累のモチベーションは一気に爆上がりしたものだった。
ドイツでの五年間は寂しかったし、空がそばにないことが苦痛だったけれど、その苦悩があるからこそ表現できる音楽もあった。気持ちを乗せて弾くことが、癒しにもなっていた。友のように思っていた。
頭の中で思い描く音楽をこの手で表現できる心地よさに満たされていた。
凱旋公演で初めてソリストを務め、壮大な音楽を奏でることができるという充実感を知った——これからが本番だと思っていた矢先のスランプだ。
累は何気なく左手を持ち上げて、じっと見つめる。
「へぇ、綺麗な手だね。よく手入れされていて、まるで楽器の一部のようだ」
「っ……!?」
顔のすぐ横に顔があり、見知らぬ男が同じように累の掌を見つめている。
仰天した累はバッと椅子の上で身を引き、気配もなく近づいてきた男を全身で警戒した。
男は累の反応を見て満足げに笑い、屈めていた上半身をひょいと起こした。
見たこともない西洋人ふうの男が、そこにいた。
肩のあたりまで伸びたプラチナブロンドは、シルバーに近い淡い色だ。その髪をゆるくハーフアップにした若い男で、累を見下ろす瞳の色は、氷のように冴え冴えとしたアイスグレー。弓形にしなる唇は笑みの形を作っているが、どことなく嘲笑いのように見える。
黒いTシャツというラフな格好で、細身のダメージデニムを穿いた脚はすらりと長い。こんなにも目立つ容姿の学生がいれば、さすがの累でも気づくはずだ。だが、これまで一度も見たことがない。
——てことは、部外者か。
この不審人物をどうやって追い返せばいいのかと考えながら立ち上がる。すると、男とほぼ正面で目線がぶつかった。累より5センチほど背丈が低いことに気付かされてか、男はややつまらなそうな顔をする。
「へぇ、背、高いんだね。まだ十九歳だろ?」
「……それが?」
「きみがルイ・タカヒラだね。噂通りのいい男だ。けど、思ってたよりオーラがないなぁ」
「え?」
見るからに一般人からかけ離れたオーラを溢れさせている男にそんなことを言われ、累は眉間に皺を寄せた。初対面の相手に投げかけるにしては、あまりに失礼な台詞だ。
苛立った累は、やや目に力を込めて相手を睨みつけた。こんな些細なことに神経を尖らせてしまう自分に辟易するが、怪しい部外者をここに居直らせるわけにはいかない。
「あなたは誰ですか。ここは部外者立ち入り禁止です」
「部外者ではないけど……まぁ、今はまだ部外者か。けど、ここにいて咎められるような人間ではないけどね」
「……はぐらかさないでください。どういう意味です?」
累が低く凄むと、男は目を細め、楽しげに笑った。その笑みに、さらに苛立ちを刺激される。
「あははっ、そうカリカリしないでよ。なんだか、聞いてた話と違うなぁ」
「聞いてた話?」
「きみは天才ヴァイオリニストなんだろ? その割には冴えない顔だ。何だか余裕もなさそうだし」
「……」
昔から『天才』と表現されることにかすかな抵抗を感じていたが、慣れてはきていた。だがスランプを感じるようになってからというもの、そう表現されることがあまりにも滑稽で、むしろ侮蔑されているようにさえ感じてしまう。相手に悪意はないのかもしれないが、今の累にとっては苦痛な言葉だった。
ただ、この男からははっきりとした揶揄を感じる。下手に応じれば応じるだけ、メンタルがすり減りそうな相手だ。ヴァイオリンケースを手に、累はその場を立ち去ろうとした。
だがその時、耳に覚えのある声がレッスン棟内に響いた。
「サーシャ! どこいってん! あっちこっちフラフラすんなって言うたやろ!」
——この声……
軽やかな足音と共に、階段を駆け上がってきた男の顔を見て、累は丸くした。
そして相手も、同じように。
「あっ……」
「石ケ森さん……」
息を切らしながら現れたのは、石ケ森賢二郎だった。
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