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④……累目線

 真っ白なTシャツに細身の濃色デニム、足元は涼しげなビーチサンダルという夏らしいいでたちをした賢二郎が、目を見張っている。  累を見つめること数秒、賢二郎ははたと我に返ったように目を瞬き、うっすらと頬が染めながら怒ったような顔をして俯いた。そういう表情が無性に懐かしくて、累の頬からこわばりが解けてゆく。 「帰国されてたんですか……。おかえりなさい、石ケ森さん」 「お、おう……た、ただいま。累クン、ほんまにうちの学生になったんや」 「はい。今、二年で」 「そ、そか……」  突然の再会すぎて、面食らう暇もない。  三年が経っているのだから、賢二郎は二十二歳になっているはずだ。だが、ぱっと見たところ、まるで容姿には変化がないように見える。ほっそりとした体つきは相変わらずで、冬場は寒そうに見えていた白い首筋も、何も変わらないままだ。  ウィーンの話をすぐにでも聞いてみたかったけど、何から尋ねていいのかわからない。なんとなくお互い黙り込んでいると、プラチナブロンドの男の大袈裟なため息が聞こえてきた。 「ちょっと、なになになに? 雰囲気おかしくない? ねぇ賢二郎、やっぱりきみ、まだルイのこと、」 「おわーーーーー!! 何言い出すねんアホ!! 急に出てきたからびっくりしとっただけやし!!」  男が肩をすくめながら言いかけた台詞を、賢二郎が大声でぶった斬った。わけがわからず、累の頭上には『?』が浮かぶ。 「石ケ森さん、この人と知り合いなんですか?」 「し、知り合い……うん、まぁ、せやな」 「知り合い!?」  珍しく口ごもっている賢二郎の隣で、プラチナブロンドの男がむうっと不愉快そうな顔をしている。  容姿は怜悧で端整極まりないが、どうやら表情豊かなタイプらしい。クールなスーパーモデルのようだった顔が、急に幼くなる。 「ルイの前で、知り合いで片付けないでくれるかな! 俺たちはただの知り合いじゃないだろ?」 「そ……それはそうやけど」 「俺のことは、きちんと恋人って紹介してほしいんだけど」 「こ……恋人!?」  目の前で繰り広げられるやりとりにポカンとしてしまう。さっきから癪に障りっぱなしのこの男が、賢二郎の恋人だというのか……!?  賢二郎が恋人を連れて帰ってきたことにも驚きを隠せないし、その恋人が同性であるということにもびっくりだ。しかも、こんなにも常人離れした美しい男を……。  だが、いまいち甘い雰囲気は感じ取れない。賢二郎は男の胸ぐらを掴んで斜め下からんぐいぐい揺さぶりつつ、「おいコラ、いきなり人前でそういうこと宣言すなって言うたやろ!」と怒っている。(そして揺さぶられている男はどこか嬉しそうである)  改めて、累は男の顔をしげしげと見つめた。  すると男はジロリと累のほうを見やり、腰に手を当ててつんと顎を上げ、冷ややかな口調でこう言った。 「ルイ。きみと賢二郎はずいぶんと親しかったようだけど、俺はウィーンで賢二郎と濃〜密な三年間を過ごしてたんだ。俺はきみよりもずーーっっと、賢二郎のことを理解している」 「? はぁ……」 「フン、きみがどの程度のヴァイオリニストかは知らないけど、賢二郎を励まし、支え、さらなる高みへと引っ張り上げたのはこの俺……」 「うわーーーーもうええて言うてるやろ!! ちょい黙らんかい!!」 「……なるほど」  ——この人、石ケ森さんのことがすごく好きなんだな……  にぶい累でも、この分かりやすい態度を見ていれば理解ができる。この男、賢二郎にベタ惚れしているらしい。  ウィーンでどんな出会い方をしたのかはわからないが、この男まで日本にいるのはなぜなのだろう。よほど賢二郎と離れがたくて、日本についてきてしまったのか……? と考えたところで、「サーシャ」という名前に、ようやくピンときた。 「あっ。サーシャって……指揮科に新しく来る講師の名前……!?」 「ふっ、その通り。俺はサーシャ・シャノアーヌ・ブルクハルト。秋からここで学生を教えることになってる」 「そ、そうだったんですか……」  今は部外者だけど——と言っていたのはそういう意味だったのかと、ようやく合点がいった。そしてまた同時に、累ははっとした。  ということはつまり、秋の音楽祭で、累はこの男の指揮でコンチェルトを弾くということだ。  なんとなくだが、自分を目の敵にしていそうな相手とのコンチェルト。しかもスランプからの脱出口さえ見えていないと言うのに……累はさらに絶望的な気分になった。  だが、一応相手は教師だ。累は小さく一礼した。 「先生だったんですね。失礼しました」 「いーよ別に。穏やかな子だと聞いていたのに、ずいぶん凄まれたからびっくりしたけど」 「……聞いていたって、石ケ森さんからですか?」 「ああそうだよ。ルイの話は賢二郎からいやってほど聞かされて、」 「あーーーッ、それはいい! いらんことは言わんでいい!!」  そこへ、赤い顔をした賢二郎が強引に割って入ってくる。サーシャはぷんとむくれた顔をしつつ賢二郎を見下ろしていたが、肩をすくめて大きく息を吐いた。  妙な沈黙が流れた後、賢二郎はくるりとサーシャに向き直る。そして「せや、学部長が探しとったで。早う行かなあかんのちゃう?」と早口で言う。 「あ、ああ……行かないとな。賢二郎、あとでね」 「ん」  サーシャはじろ、と累を一瞥したあと、賢二郎にだけ笑顔を残して踵を返す。が、ちらちらと振り返り、累を牽制するように睨んでおくことは忘れない。    ようやくその場が静かになり、妙な疲れがどっと出てくる。累がため息をついていると、賢二郎が申し訳なさそうにこっちを見上げた。   「えーと、ごめんな。失礼なやつで……」 「いえ。よかったですね、素敵な恋人ができて。すごくかっこいい人じゃないですか」 「……恋人っていうか……」 「違うんですか?」 「いや……付き合ってはいる、けど。……まだ慣れへんくて」  賢二郎の白い頬が桃色に染まり、そのまま俯いて黙り込んでしまう。  口ごもる賢二郎の姿はいやに色っぽい。その姿はあまりにも衝撃的で、なんだか見てはいけないようなものを見てしまったような気分になった。  その気まずさをごまかすべく、累はやや早口でこう尋ねた。 「だ……大学、卒業されたのかと思ってました。今日はあの人の案内で来たんですか?」 「いや、自分の用事。院に進むことになったから、書類を取りにきてん」 「あ……そうなんだ。それなら、もう二年はここにいるんですね」  自然と笑顔が浮かび上がる。すると賢二郎はようやく微笑を浮かべ、「そうやな。敬って先輩て呼びや」と軽口を叩いた。 「ところで、君はこんなとこで何してはんの。楽しい楽しい夏休みの最中やろ」 「……ええ……まぁ、はい」 「? どないしてん、ほんまに冴えん顔やな」  黙り込む累のほうへ、賢二郎が小首を傾げながら歩み寄ってきた。そして斜め下から顔を覗き込まれ、心配そうにこちらを見上げる黒い瞳と視線が結ぶ。……かと思ったら、なぜだかぎろりと睨まれた。 「なぁ、なんやまた背ぇ伸びたんちゃう?」 「え? あ……はい、185くらいには」 「そんなに!? 成長しすぎやろ!!」 「はぁ……。けど、ヴァイオリンの腕前は伸びてません」 「え?」 「……スランプ、っていうんですかね。僕の顔が冴えないのは、そのせいかと」 「……」 「すみません」  じ……っと食い入るように睨まれて(睨んでいないのかもしれないが)、累は思わずキュッと目を瞑って俯いた。  ウィーンへと旅立つ賢二郎に余裕の大口を叩いたような記憶があるのに、自分はまったく成長もできず、停滞したまま。合わせる顔がないとはまさにこのことだろう。『つまらんヴァイオリニストになっていたら承知しない』とまで言われたのに、このざまだ。 「なんで謝るん。べつに、謝ることでもないやん」 「……けど」 「スランプなんて、誰だってなるもんやろ」 「……石ケ森さんもですか?」 「当たり前やん。僕も留学してから三、四ヶ月は、ちょいきつかったし」 「そ、そんなに……?」  ——こんな苦しい状態、が三、四ヶ月? しかも慣れない環境で……?  器用そうな賢二郎のことだ、きっと留学先でも新しい世界から与えられる影響をぐんぐん吸収し、もりもり力をつけているに違いないと思っていた。 「大変でしたね。どうやって克服したんですか?」 「寮で暮らしてる先輩らの中に、日本語のわかる人がおって……まぁ、色々オープンにさらけ出して話きいてもうたり、観光連れてってもらったりとかしとるうちに、だんだんな」 「あ……。それが、あの人だったってことですか?」 「ま、まぁ……うん。そんな感じやけど……ってそこそんな突っ込まんでええねん! 今は君のスランプの話や!」  照れているのか、賢二郎は色恋の話になりかけると話をぶった斬る。そこもすごく気になるのに、と累は思った。 「てか、君には空くんがおるやろ。話聞いてもーてへんの?」 「……」  腕組みをした賢二郎がそう問いかけてくる。が、今まさに空と気まずい状態の累にとって、その質問はひどく酷なものだった。  ずーんと重い空気を漂わせる累を前に、賢二郎が顔を引きつらせる。 「な、何やねんその顔。……まさか、別れ……」 「別れてません! ただ……スランプのことうまく言えなくて、なんか……気まずくなっちゃってて」 「そうなん?」 「だから余計に、悩んでるのかもしれません」 「……かわいそうに」  賢二郎の口からは到底出てこなさそうな言葉が飛び出してきたことに驚き、累は賢二郎のつむじを見下ろした。もっと罵倒されると思っていたのに、まさか哀れみの言葉をかけられるとは……。 「君ちゃうで。空くんがかわいそうや言うてんねん」 「……はぁ」 「スランプで悩んでることをうまいこと隠せもせず、八つ当たりだけしてほったらかしてるっちゅーことやろ?」 「うっ……」 「おおかた、空くんの前では完璧にイケメンな王子様でいたい、みたいなカッコつけしてんねやろ? しょーもな」 「うう……」  哀れみではなくやっぱり罵倒だった。だが、すべて賢二郎の言う通りだ。  空に気を遣わせて、悲しい顔をさせて、寂しい思いをさせている。  カッコ悪いところを見せたくない、空をガッカリさせたくない……そういう気持ちは今もある。恋人関係になり、自分の全てを見せているつもりになっていたけれど、スランプに悩み、無様に足掻いているところを知られたくなくて、ずっと空には何も言えなかった。  ——だから寂しそうな顔、してたんだよな…… 「……その通りです」 「向こうも、音楽のことはわからへんから口出ししにくいんやろ。あの子、音楽を高尚なもんやと思いすぎてそうやもんな」 「確かに……」 「お互い遠慮しすぎてんちゃう? もっとできない自分をさらけ出して、派手に甘えて、よしよししてもーたらスランプもすぐ治るんちゃうか」 「よしよし……」  ——派手に甘えるってどうやるんだろう。空は、よしよししてくれそうだけど……  空によしよししてもらうというシチュエーションはものすごく魅力的だが、若干の抵抗もある。どちらかというと、自分が空をよしよししたいし、甘えてほしいと思うからだ。  だが、ああして苛立ちをセックスでぶつけてしまうこと自体が甘えのひとつに違いない。累は改めて、空への申し訳なさを感じずにはいられなかった。 「今、時間あんの?」 「あ……はい」 「ほな、ひさびさに聴かしてもらおかな」 「え?」 「音聴いたほうが、君の不調がわかる気ぃすんねん」 「あっ……はい! よろしくお願いします」 「よっしゃ、行こか」  に、と以前と変わらぬ勝ち気な笑みを浮かべた賢二郎のあとに続いて、累はレッスン室に入った。

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