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⑤……累目線

   賢二郎の前で、累はバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番第4曲『ジーグ』を弾いた。  京都・南禅寺で行われたコンサートで弾いた曲だ。  あの時は、世界の隅々にまで自分の音が響いていきそうな心地よさがあったのに、今は違う。自分でも音に強張りがあるのがわかる。  クリアに響いていくはずの音はどこか曇り、遠くまで音が広がらない。音色の一つ一つに伸びがなく、小さな檻の中に閉じ込められているような閉塞感を感じてしまう。  ——息苦しい……  賢二郎の視線を頬に感じる。怖くて、そっちを見る気になれなかった。    ——失望されるだろうな。高校生の頃はいろいろ大口を叩いていたのにこの調子じゃ……  最後の音色が残す余韻が消えてゆく。  音の端々にまで気を巡らせるかのように目を閉じていた賢二郎が目を開き、腕組みをする。……そして、しばし考え込むように「うーーん……」と唸った後、賢二郎はこう言った。 「……なるほどな。わかる気がするわ」 「はい……」 「前の君の音はもっと音量があったし、どうやっても隠しきれへんような華やかさというか……君が音を出すたび輝くような強さみたいなもんがあったように思うねんけど……今は、なんちゅうか、なんかこう……」 「はぁ……」  賢二郎はピーンと察したような顔になり、人差し指を累に向けた。 「庶民的!」 「……庶民的……」 「そうや、庶民的な音になってしもてるやん!! ……なんちゅーかこう、どう頑張っても下々のものには手が届かへんて思い知らせるような、圧倒的な迫力が足りひん!!」 「はぁ……」  いつになく情熱的に、もがき苦しむように訴えてくる賢二郎の言っていることがいまいちよくわからなくて、累は小さく首を傾げた。 「圧倒的な、迫力……」 「あんなぁ、音大入って庶民的になってどないすんねん。最近はどんな活動してはんの? あっちこっちのオケに呼ばれてソリストやってんねんろ?」 「……はい」  かいつまんで、これまで依頼を受けてきた楽団の名前を上げ、なるべくそれぞれの楽団の雰囲気を活かせるようにと、苦手ながらもコミュニケーションを取るように努力をしてきた……と累は賢二郎に説明した。  それを頷きながら聞いていた賢二郎は、半ば呆れたような、そして納得したような微妙な顔をした。 「……なるほど。君が色々頑張ってたんは、ようわかった」 「……はぁ」 「けど……ちゃうと思う。君はもともと、そういうレベルのソリストとちゃうねん」  賢二郎が珍しく自ら距離を詰めてきたかと思うと、累の腕をガシッと掴んだ。そして、ひどくじれったそうな表情で累を見上げて、強い口調でこう言った。 「君はオケを引っ張れるだけの力があるヴァイオリニストや。前も言うたやろ、君みたいな天才は、下々のもんに遠慮する必要なんてないねん」 「そんな乱暴な……。僕はまだ学生だし、指揮者も、オケの人たちも皆ベテランです。学べることは学んでいきたいと思って……」 「んーーーせやし、そこがちゃうと思うねん」  こんなにも切羽詰まった顔をする賢二郎を初めて見た。自分はそんなにも大きな間違いを犯してしまっていたのだろうか。  不安のあまり青ざめる累の腕を掴む賢二郎の手に、力がこもる。 「そうやって仕事してきた人ら、どうやった。喜んではったか?」 「……え?」 「そら、君が見かけによらず誠実キャラやってことは伝わるやろ。けどな、相手はそういうの期待してへんと思う。戸惑ってる人もおったかもな」 「っ……」 「ええか。君はそのへんのヴァイオリニストと違う。高比良累や。みんな、君が、君の解釈で表現する音楽に期待してんねん。君が遠慮して合わせる必要なんてない。まわりが君に合わせるんや。君が思い描く音楽を最大限表現できるように」  ぎゅ……と痛いほどの力が賢二郎の指にこもっている。賢二郎の強い眼差しとともに、「勘違いしたらあかん」と言った。  そして、我に返ったようにパッと手を離し、その手をおさまりどころが悪そうにさまよわせたあと、うなじをかく。 「そら、君はちっちゃい頃から天才で、押さえつけられたり敗北させられたりした経験がないから、なにがなんでも自分の音楽を披露してやるで……!! みたいな貪欲さやガッツはなさそうやけど」 「それは……そうかも……」 「僕がどっかのオケにおったとして、君に中途半端な演奏されたら、めちゃくちゃ腹立つけどな。わざわざ手ぇ抜いてレベル合わせてあげてます〜みたいな配慮なんて、ほんまいらんお世話やし」 「そ、そんなつもりありませんよ! 僕は……ただ」  そう言いかけて、ハッとする。  賢二郎の言ったことを、完全に否定することができなかったからだ。  ーー……僕は、なにをしてたんだろう。  協奏曲において、オーケストラと指揮者、そしてソリストのパワーバランスによって、演奏される音楽の雰囲気はずいぶんと変わってくる。演奏家によって考え方はさまざまだが、指揮者とソリストの意見が合わず大喧嘩になり、ソリストが本番を前にして舞台を降りてしまうことも少なくはない。  ドイツにいた頃は、ニコラとともにたくさんの公演を見に行った。そこで耳にした数多くの素晴らしい音楽は、累にとってかけがえのない財産となっている。  ニコラのつてで、本番前の通し練習を見学させてもらう機会にも恵まれた。ピアニストやヴァイオリニストといったソリストと指揮者、そして個々のオケのメンバーらのきめ細かい練習の積み重ねによって、観客の耳にかなう音楽が出来上がってゆくさまを見ることができた。  見事に完成へ導かれてゆく過程を見ることのほうがおおかったけれど、中には、指揮者やオーケストラを罵倒してステージを立ち去るソリストもいた。互いの解釈を話し合うこともなく、おのおのが己の意見を突き通そうと躍起になり、大げんかの末ステージを投げ出すソリストの姿を目の当たりにしたこともある。  幼心に、累はそれを音楽への冒涜だと感じたのだ。意見を戦わせることは必要だと思う。だけど、やっつけのような演奏を披露したり、仕事をほっぽりだすようなことは、絶対にしたくないと思った。  できればケンカはしたくない。譲り合いの精神も大切なのではないかーーと、幼ない累は思っていた。  その影響か、ギャラの発生する仕事をひとりで受けるようになってからというもの、「その楽団に合わせた演奏をしなくては」と思い込むようになっていた。オーケストラにはそれぞれ違った個性があり、その個性を活かしながら活動してきた歴史がある。だからこそ、その楽団に要求されるように弾くべきなのだと、それこそが仕事なのだと。  そして、そこに自分の演奏を当てはめていくことを、相手に求められていると思っていた……だけど、それは違うのかもしれない。  開催されてきたコンサートはそれぞれ成功したといえる出来ではあったけれど、それ以上の感動はあっただろうか。観客や楽団メンバーの表情に、曖昧なものを感じ続けてきたのはそのせいだったのだろう。ただ事務的に弾くことを、楽団の人々は累に求めてはいなかった。  十五歳のとき、ハノーファー国際ヴァイオリンコンテストで最年少優勝を果たした時。凱旋公演で選りすぐりのプロに囲まれながら、自身の全てを出し尽くしたときの充実感。  愛おしい音楽を、実力以上の力で表現できた瞬間の感動と快感を思い出した肌が、ざわりと粟立つ。  見失っていた感覚が、ようやく戻ってきたような気がした。  頭の中がすっとクリアになり、目が覚めたような感覚だ。累は無言のまま賢二郎を見下ろした。  すると賢二郎も、累の瞳に浮かぶ清廉な光に気づいたのだろう。眉間から力が抜け、険しげだった表情が少し緩んだ。 「……わかってきた気がします」 「そか。そんな基本的なことがわからへんくなるなんて、君らしいというか、なんというか」 「すみません……」 「ま、ロベルソンみたいに経験豊富ででかい場数踏みまくってる指揮者なら、君のそういうところもうまく指導してくれはるやろ。けど、若い人や公演経験少ない指揮者やったら、君に遠慮して強く言えへんかったかもな」  賢二郎は肩をすくめ、ようやく唇に笑みを浮かべた。累も苦笑したあと、賢二郎にむかって深々と頭を下げる。 「相談にのってくださって、ありがとうございました」 「い……いやいや、ええてそんなん。可愛い後輩が悩んでんねんもん、そら手ぇ貸すやろ」 「可愛い後輩?」 「ほ……ほら、あれやん。君も同じ大学に入ってきたわけやし……さ」  もごもごとそんなことを言いながら、賢二郎はまた腕組みをした。  調子を落としていたことをもっと厳しく責められるかと思っていたのに、穏やかに諭されるとは意外だった。 「石ケ森さん、何だか丸くなりましたね」 「はっ……? どういう意味やねん」 「僕、もっときつく怒られると思ってました。つまらんヴァイオリニストになり下がりやがって……とかって」 「あのなぁ、君は僕をどういう目ぇで見てんねん」 「……すみません」  苦笑しつつ謝る累を見上げて、賢二郎はふっと眉根を緩めた。   「これでスランプが解消されるとは思わへんけど……もし調整きくなら、ちょっとくらい休んだほうがええ。僕も留学してみてわかったけど、ただがむしゃらに弾くだけじゃ腕は上がらへん。行き詰まるだけや。それならいっそスパッと弾くのを一旦中断して、気持ちに余裕を取り戻したほうがええと思う」 「余裕か……。確かに、最近よく余裕なさそうって言われるな……」    ついさっき、サーシャにもそう言われたばかりだ。ため息をつく累に、賢二郎は腕組みをしながらこう言った。 「思ったんやけど、それって単なる空くん不足ちゃうか?」 「空不足……?」 「聞いとったら君、なんやめちゃくちゃスケジュール詰まってんねやろ? ちゃんとふたりで遊びに行ったり、ゆっくり過ごしたりできてんの?」 「……できてません。去年の夏休みも冬休みもめちゃくちゃ忙しくて、寂しかったな……」 「ほら、それやん、それしかないわ。真面目に依頼受けんのもええけど、自分で自分忙しくしてパフォーマンス落としとったら意味ないんやで? わかってる?」 「確かに……」  空不足、という言葉は何より一番腑に落ちる。  忙しくなってからこっち、空には口癖のように「ごめん」と謝ってばかりいる。  空はいつも「ううん、大丈夫。がんばれよ」と言って笑顔で送り出してくれるけれど、その笑顔はいつもどこか遠慮がちだ。  累は累で空に言えていなかったことがたくさんあるけれど、空にもきっと、自分に言えないでいることがたくさんあるに違いない。  ——空に会いに行こう。  累はさっと腕時計に目を落とした。  この時間は確か、『ほしぞら』でアルバイトをしているはず。  思い出されるのは、空の寂しげな笑顔ばかりで、申し訳なさが込み上げる。  いつものように、弾けるような笑顔が見たい。ふたりできちんと話がしたい。  賢二郎に丁重に礼を述べ、累はレッスン室を飛び出した。

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