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 今日は朝からアルバイトに入っていた空は、四歳児クラスの副担任保育士・角藤(すどう)とともに子どもたちの世話を焼きながら給食を済ませ、どうにかこうにか全員を昼寝に持ち込むことに成功した。 『ほしぞら』は二十四時間保育所という性質上、子どもたちの在園時間が長くなってしまう。体力の回復や頭を休ませるためにも、午睡はとても大事なのだとあいこ先生から学んだ。  子どもたちが昼寝をしている間は、打ち合わせや午後からの保育の準備、そして事務作業などをする。余裕があれば休憩を取ることもあるが、なかなか眠らない子や早く起きてきた子への対応もあり、のんびり休んでいられる時間はほとんどない。  空は職員室の片隅に置かれた机で日誌をつけつつ一息つかせてもらっているところだが、正職員の保育士たちは昼寝時間中もとても忙しそうだ。  そこへ、角藤がコーヒーの入ったマグカップを持ってやってきた。空の前にコトンとカップを置き、隣に腰を下ろす。 「すみません、早瀬くん。僕が指導しなきゃいけない立場なのに、色々お世話をかけてしまって」 「あ、いえいえそんな。俺にできることなら、なんでもやらせてください」  空がそう言うと、角藤は丸っこいメガネをかけた目を細めて苦笑を見せた。空よりも10センチちかく背は高いがひょろりとしていて、線の細い男性保育士だ。  角藤は保育士になって三年目、『ほしぞら』に赴任してまだ一年も経っていない。今年の『ほしぞら』は結婚・妊娠・産休ラッシュな上、この暑さのせいで体調を崩してしまう妊婦の保育士もいて、人材確保が追いついていないのが現状らしい。なので新人の角藤も、さっそく副担任という役回りを引き受けているという。  なので、できるサポートはなるべくやろうと心に決めている空だ。今も角藤は若干くたびれ気味で、ちょっと心配になる。 「早瀬くん、ここの卒園生なんだってね。あの厳しいあいこ先生が信頼してるわけだ」 「ええ、すごくお世話になったんで。ちょっとでも恩返しができたらなと思って」 「そっか、そっか。えらいなぁ」 「いや、えらいってわけじゃないです。……こっちの都合もあるって言うか」 「ん?」  ——累に会えないからバイト詰め込んでるなんて言えないよな…… 『ほしぞら』のためになりたいというのは本音だし、バイトをしながら現場を知ることができるのはありがたい。だが自分でも、ちょっと予定を詰めすぎているなということはわかっている。  角藤の弱音に相槌を打ちながら、空は何気なく園庭を眺めた。  そのとき、きらりと光るなにかが見えた。園庭の柵と生垣の向こうは歩道のある道路だが、そこを何かが横切ったように見えて—— 「んっ……!?」 「どうしたの、早瀬くん?」  ——る、累……!?  ヴァイオリンケースを背負い、汗を拭いながら門扉に手をついている累の姿だ。  ふだんは何をするにもスマートな累が、いったいこんなところで何をしているのだ……!? 空は大慌てで立ち上がった。  戸惑った声で空の名を呼ぶ角藤をスルーして、園庭を突っ切ってゆく。 「累! 何やってんの、こんなとこで!」 「空……っ、はぁ、よかった、いた……」 「いや、いるよ! バイトって言ってあったでしょーが! どうしたんだよいったい」 「空に、会いたくて……あやまりたくて、それで……」  鉄の門扉を隔てて言葉を交わすうち、俯いて肩を上下させていた累がようやく顔を上げた。なんだか、ひさしぶりにきちんと視線が結び合っているように感じて、空ははっと息を呑む。  ここ最近ずっと曇りがちだった青い瞳に、澄み渡るような光が戻っている。白い肌に伝う汗も、しっとりと汗に濡れた金色の髪も、なにもかもが鮮やかな色彩を帯びているように見えた。 「と、とりあえず入ってよ! こんな暑いとこいたら、熱中症になっちゃうだろ! すごい汗だし」 「あ……ああ、うん、ごめん……」 「駅から走ったの? ほら、俺の着替えでよければ貸すし、水分も摂って、涼しいとこいこう」  門扉を開いて累を中に入れる。久方ぶりに『ほしぞら』の園庭に入った累は、懐かしげに周囲を見回したあと、青と白の爽やかなストライプ柄のエプロンをつけた空をまじまじと見下ろした。  物珍しげな目つきだ。なんだか恥ずかしくなってしまい、空はぐいぐいと累の腕を引いて園舎のほうへと連れて行く。 「空、エプロンも似合う。いつもこういう格好でバイトしてるんだ」 「そ、そうだよ! あんま見ないでよ、恥ずかしいなぁ」 「似合ってるよ。本物の先生みたいだな」  ようやく玄関口まで累を引っ張ってくると、エプロンのポケットに突っ込んでいたタオルを累の首にかけてやる。送迎時間帯は混雑する玄関も、今はしんと静かだ。パステルカラーの合皮製ソファなどが置かれたスペースに、空は累を座らせた。 「どうしたんだよ、こんなとこまで来ちゃうなんて、びっくりするじゃん」 「ごめん、どうしても空の顔が見たくなって、居ても立っても居られなくなったんだ」 「えっ、な、なんで……」  ——あれ? 累……なんか、スッキリした顔してる。 「累、今日はなんだか元気そう……?」 「あ……うん。ごめんね、心配かけて」  この間ようやく『スランプで悩んでる』と告白してもらったばかりだが、この短期間で、累の表情はずいぶん清々しいものへと変化しているように感じる。  なにか悩みが解消されるような出来事があったのだろうか……と思ったところで、空はピンと来てしまった。 「だ……誰かに、話を聞いてもらえたりした……? その、音楽のこと、よくわかる人に……」  否応なしに空の中で存在感を増してゆくのは、石ケ森賢二郎のこと。  ウィーンに留学することはもちろん知っていたし、累が何も言わなくとも、帰国が今年の夏だということを空はしっかり覚えている。  だが、いきなり石ケ森の話を振るのも憚られ、空はおずおずとこう尋ねてみた。 「お、お母さんには、スランプのこと話してるの?」 「母さん? ああ……うん、ちょっとだけ。けどあの人、最近また海外の仕事が増えててほとんど日本にいないんだ」 「そうなんだ、忙しいんだね」 「それに母さんは、舞台に立ちまくることでスランプを克服してきたみたいで……あ! だから最近たくさん仕事詰め込まれてるのかも……」  表情を見ていると、ニコラの意見は累にとってあまり参考になるものではなかったらしい。……じゃあ、誰が累の瞳から曇りを晴らしたのだろう。  音大の友人か、先輩か、幼い頃から累を教えてきた夏目という教師か……。  ——違うな、きっと。きっと……あの人に決まってる。  直感的なものだが、きっと当たっている。空はあえて明るい口調を心がけながら、汗を拭う累から目を逸らしつつ、尋ねた。 「石ケ森さんに……相談できた、とか?」  声が小さく震えてしまう。ここが『ほしぞら』でよかったと、空は思った。  ここにいれば、空は冷静さを保っていられる。保育時間中はこの送迎用の玄関口に職員は来ないけれど、廊下の先にある保育室ではたくさんの子どもたちが眠っているからだ。  空は落ち着いた口調を心がけながら、顔を上げた累のほうをそっと見た。 「今年帰国するんだよね、確か」 「……うん、そうなんだ。さっき大学で、偶然会って」 「そ、そう……そうなんだ。よかったじゃん、あの人なら、累の悩みを全部わかってくれそうだな〜って、俺も思ってたし」  ぺらぺらと口が勝手に動いている。  石ケ森のことは嫉妬の対象ではなくなったはずなのに、累の気持ちを疑うわけでもなんでもないのに、なぜだかすごく悔しかった。  自分こそが累の一番の理解者でありたいのに、苦しむ累を助けることができない。だけど、三年間も遠くにいたはずの石ケ森とちょっと話をしただけで、憑き物が落ちたかのようにスッキリした顔になっている。  ——うううう……なんか、くやしいなぁ。そりゃ、俺じゃどうすることもできないことかもしれないけど、なんでこんなにモヤモヤするんだ…… 「……ねぇ、空。思ってること全部、言って」 「……え?」 「僕も、逃げずに空に話すから」  そっと肩を抱かれ、真摯な眼差しで見つめられる。空の瞳を覗きこむ累の眼差しは、どこまでもひたむきだ。 「僕はね、空に幻滅されたくなくてスランプのこと言えなかった。……ヴァイオリンが弾けない僕になんてなんの価値もない、どうやって空を幸せにすればいいのか、わからなくなったから」 「ええっ?」  そこまで追い詰めたことを考えていたのかと、空は心底驚いてしまった。 「な、なんの価値もないなんて、そんなわけないじゃん!! それに……俺は、幸せにしてほしいなんて、人任せなこと考えてないよ?」 「うん……わかってる。けど、弾けないでいる僕を、僕は自分で肯定できない。そんな自分で、空のそばにいることが心苦しくてたまらなかった」 「累……」  苦しげに目を細める累を、空は思わず抱きしめた。空よりもずっと大きな身体を両手で抱き寄せ、シャツをぎゅっと握り締める。 「これまで何も考えずにできていたことが急にできなくなって、不安で不安でしょうがなかった。けど僕がそんなこと言ったら、空を困らせると思ったんだ。空は……音楽の話になるといつもすごく遠慮するよね。自分が踏み込んじゃいけない領域だって思ってる……だろ?」 「……うん。それは、そうかも……」 「でもそれは、僕が空に弱みを見せてこなかったせいだと思うんだ。空には、かっこいいところを見てほしいし、すごいって褒めてほしい。小さい頃から、その気持ちだけでがんばってきたからだ。でも……こうなってみて初めてわかった。そんなの、ただの上っ面だって」  いつになく多弁な累を抱きしめながら、空は何度も頷いた。累の手が持ち上がり、空のシャツをキュッと掴む。ゆっくりと顔を上げた累に間近で見つめられ、空はなぜだか泣きたくなった。 「ダメな僕でも、空には丸ごと愛してほしいって思ってる。……わがままかな」 「わがままなんて……そんなわけないじゃん! どんな累でも、俺は好きだよ!」 「……ほんと?」 「ほんとだよ! バカ累っ……!!」  今度は空が累の肩口に顔を埋める。そうしていなければ、涙がとめどなく溢れてきそうだった。  累は空に壁を作って、その中で苦しんでいた。そして空は、その壁を乗り越えようとしなかった。気を遣い、思い合っているつもりだったけど、互いの遠慮のせいですれ違っていた。 「俺……累が苦しそうだなって気づいたところで、なんて言ってあげたら良いのかもわかんないし、もっと累を傷つけたらどうしようって思うと、怖くて」 「うん」 「だけど……石ケ森さんなら、累の苦しみをわかってあげられるんだろうなって、なんかふっと思ったんだ。……そこからはなんだかずっと、あの人に負けてるような気がして、ずっとずっと悔しくて……っ」  累が音楽の世界で孤独になってほしくないと願っている。累の理解者は一人でも多い方がいいと思っている。それは本音だ。……だけどやっぱり、自分の踏み込めない世界で、累を救える石ケ森に嫉妬してしまう。そのジレンマに、ずっとずっと苦しめられていた。  ぽつぽつとそう訴える空を抱きしめる累の腕に、ぐっと力が増す。累の吐息が、空の髪の毛を揺らした。 「空……」 「わかってるんだ、あの人が累をとったりしないことくらい……。けど、悔しいもんは悔しいんだもん!! 石ケ森さんもヴァイオリンすごくうまいし、一緒に弾いてる時の累、すごく幸せそうだし、頼もしいし、美人だしかっこいいし……!!」 「……ベタ褒めだなぁ」 「だってそうじゃん! それに、それに……っ」  あの人、絶対累のこと好きじゃん……と言いかけて、空ははたと黙った。それは言ってはいけないことだ。だが、そういう気がかりがあるからこそ、自分は石ケ森を穏やかな目で見ていられないのだから……。 「それに……何?」 「……な、なんでもない。とにかく……そういうこと」 「そっか。……空、今も石ケ森さんのこと気にしてたんだ。あの人は良い先輩だけど、本当にそれだけだ。何もないからね?」 「……うん、わかってるんだ。ていうか、俺が勝手にヤキモチやいてるだけ」 「ううん、……嬉しいよ。空が僕のこと、そんなに好きでいてくれるなんて、嬉しい」 「うう」  さらにぎゅっと強く抱きしめられ、空はくぐもった声をあげた。ふっと気の抜けた吐息の気配で、累が微笑んでいるのがわかる。ホッとして空もまた泣き笑いの顔になり、累の背に腕を回して抱きついた。 「それに、石ケ森さんにも恋人ができたみたいだしさ。空も、もうそんなにヤキモチやかなくても大丈夫だよ」 「……うん……。…………え? 恋人!?」  がば、と素早く顔を上げる空に面食らったのか、累が目を丸くしている。 「うん。確か、秋から指揮科の講師になる人。石ケ森さんにベタ惚れしてる感じで……あ、だから日本についてきたのかもしれないなぁ」 「えええ……すご。どんな人? 美人?」 「美人……かな、どっちかっていうと。僕より少し背が低いけど、モデルみたいにスタイルが良くて」 「え、でか。そんなでっかい女の人にベタ惚れされてるんだ」 「いや、男だよ」 「お、おとこ……」  色んな意味でびっくりだ。三年間のウィーン留学生活で、石ケ森にも心境の変化があったのだろう。  ちょっぴり安堵もするけれど、帰国して改めて累を前にした石ケ森の気持ちが、再び累に傾かないとも限らないぞ……と思ってしまう自分に呆れる。 「……そっか。恋人かぁ」 「石ケ森さんに言われたんだ。僕のスランプは、単なる空不足なんじゃないかって」 「え? 俺不足?」 「忙しくて、全然空とゆっくり過ごせてないだろ?」 「ああ……うん。でも、仕事じゃしょうがないじゃん」 「寂しくて耐えられないよ。スケジュール調整してもらうから、夏休みが終わるまでに、二人きりでどこかに行かない?」 「えっ……? う、うん……!! そうしよう!」  思いがけない提案に、きゅんと胸が跳ね上がる。よほど嬉しそうな顔になっていたのだろう、空を見つめる累の表情が優しくなり、白い歯がこぼれて笑顔になった。  いつもの笑顔が戻ってきてくれたことが嬉しくて、目尻がじわっと熱くなる。今すぐにでもキスをして、そのまま抱きしめ合いたい気分だったけれど……。  廊下の片隅からの視線を感じ、空ははっと我に返った。  目をこすりながらこっちを見てみるのは、いつも早めに昼寝から目覚めてしまう五歳児の女の子ふたり組・ゆめこちゃんとさらちゃんだ。 「あっ……! ゆ、ゆめこちゃん、起きてたんだ……!?」 「そらせんせぇ……それ、だれぇ?」 「あっ、えーと、えーとね、先生のお友達っていうか、なんていうか……」  大慌てで累から離れ、空は立ち上がってしどろもどろに説明した。すると、それを見ていた累がふと微笑み、ゆめこちゃんたちに歩み寄っていく。そして目線を合わせてしゃがみ込むと、にっこり笑って「こんにちは。そら先生の友達だよ」と自己紹介している。  子どもは苦手と言っていたはずだが、以前ここに遊びにきたことで子どもに耐性ができたのかもしれない。優しい笑顔を見せる累を前にして、ゆめこちゃんとさらちゃんはまん丸になった目を見合わせている。 「……えっ!? おっ……お、おうじさま……」 「うわっ……きんぱつさらさらのおうじさま……」 「うん。僕は、そら先生の王子様だ」  よほど機嫌がいいのか、累はさらりとそんなことを言いのけてまばゆい笑顔を浮かべた。すると二人の女児は「きゃぁぁぁぁ〜〜ん♡♡ そらせんせいのおうじさま……!? ええ〜〜〜!!」と色めきだち、キラキラの目を空に向けてほっぺたをりんごのように艶めかせた。 「なっ……累!! 何言ってんだよもうっ!! あっ、そーだ! あいこ先生呼んでくるからね! ちょっと待っててね!」  園児が起きたら報告だ。ふたりを累に任せて、空は職員室へと小走りに駆けてゆく。廊下は走ってはいけないけれど、そうでもしないと、火照った頬から熱が冷めない。 「なんだよ俺の王子様ってさ……」  そう独りごちてみても、ついつい唇がゆるんでしまう。  ぺしぺしと頬を軽く叩いて気を引き締め、空は勢いよく職員室の扉を開くのだった。 番外編『ジレンマ』 おわり♡

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