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「くぁ〜〜相変わらずカッコつけやなぁあの子。ちょっとはビビったり動揺したりして見せてみぃっちゅー話やで」 「そうなんですよ。いっつもそんな感じで、なんでもさらっとできちゃうんですよね」  ——あ、あれ。石ケ森さん、なんか雰囲気が……  どうやらすでに酔い始めているらしい。キリッとした怜悧な瞳はなんだかジトっとした半目になっているし、白い頬もほんのり赤く色づいている。 「あ〜〜〜わかる、わかるわ。そんなかんじやもんいつも。ヴァオイリンかてサラ〜〜と弾けたらしいやん?」 「そうらしいですね。お母さんが弾いてるのいつも見てたから、って言ってたけど」 「聴いてただけで弾けたら苦労せぇへんちゅーねんなぁ!? これやから天才は……」  脚を組み、頬杖をついて枝豆をつまんでいる姿もサマになっているけれど、このまま酒を飲ませ続けていて大丈夫なのだろうかと空はちょっと不安になってきた。いつも彩人に「酒弱いもんな〜」とからかわれている壱成でさえ、もうちょっとシラフ状態を保っていられているような気がする……。 「あ、あの……いったん水とか挟みます……?」 「え? なんで? だいじょうぶやってこんくらい」 「はぁ……」 「どーせ酒も強いんやろ。カッコつけてワインとか傾けてんねやろ。ハイボールみたいな安っぽい酒は飲まへんねやろどーせ」 「いや……それはわかんないですけど。累が飲んでるとこ俺もまだ見たことなくて」 「そーなん? あー、わかった。『空と一緒に酒解禁したい』とか言うてはるんやろ。あってる?」 「そ、その通りですけど……」  さすがというべきかなんというべきか。石ケ森賢二郎、累の思考をやはりとても理解している……そう思うと、やはり少しばかり落ち着かない。空はポテトフライをつまんでもぐもぐ味わいながら、前から気にかかっていたことについて思い切って尋ねてみることにした。 「俺が言うなって感じですけど……石ケ森さん、もう累のことは大丈夫なんでしょうか……?」 「え? ……大丈夫、って?」 「あ、えーと……」  ——や、やばい、地雷だったか……!? や、やっぱりまだ、この人累のこと諦めてないんじゃ……  どよんと据わった目がこちらを向き、空はやや身構えた。しかも賢二郎が「くくくっ……」と謎めいた笑いを噛み殺しているものだから、危機感はいよいよ高まり—— 「大丈夫に決まってるやん。僕にも、今はれっきとしたパートナーがおるわけやし」 「パートナー……あの、指揮者の人ですか? スイス人の」 「そうやけど、よう知ってはんな。て、累クンからとっくに聞いてるか」 「ええまぁ……。なんかすごい絡まれるって、累が珍しく文句言ってましたけど……」 「あー、うん……そうやねんなぁ……」  パートナーの話題が出たとたん、賢二郎はふっと大人びた理性を取り戻したかに見えた。今度は逆の手で頬杖をつき、箸で軟骨の唐揚げを口に放り込みながら、賢二郎はやや呆れたような顔でこんなことを言う。 「サーシャも、累クンのこととなると急に嫉妬深くなるっちゅーか、子どもじみた態度になるっちゅーか……」 「そうなんですか?」 「普段はもっと穏やかで、普通に大人やねんけどな。だから僕もびっくりしてる」 「へぇ……」 「まぁ、僕のせいっちゃ僕のせいでもあるんやろけど……。あれで一緒にコンチェルトとかやれんねやろかってちょい心配やねんけど」 「え? 石ケ森さんのせいって?」  相手は酔っ払っているようだし料理は美味いしで、緊張がほぐれ、だんだん遠慮がなくなってきた。空はやや身を乗り出して賢二郎の話に食いついた。 「……留学して二、三ヶ月たった頃、僕もまぁまぁ重ためのスランプになってしもて。まだ腹割って話せる相手もいいひんかったし、せっかくウィーンに招待してくれたベッテルハイム教授にも落胆されたなくて……なんやもう、寝る間も惜しんでヴァイオリンばっかり弾いてる時期があってん」 「そ、それは……つらかったですね」 「うん。めちゃめちゃつらかったな」  賢二郎は素直に空の言葉を受け取って、物憂げにからっぽになったジョッキを見つめている。……空はそっと、追加のドリンクをオーダーしておいた。 「向こうの冬ってめっちゃ寒いねんけど、気温とか感じる余裕もないくらい切羽詰まっててん。どんよりした黒い空から雪が降ってて、なんやみょーに絶望的な気分になって、ヴァイオリン片手に寮の庭でぼーっとしとったときに、サーシャと会ってん」  どことなく哀しみの色を浮かべていた賢二郎の瞳に、やや明るい光が灯る。 「そんな格好じゃ風邪ひくよって、日本語で声かけられてん。バカでかいダウンコート羽織らされて、ようやく自分がどえらい薄着で外におったんやなって気づいて……あぁ、僕けっこうヤバい状態やねんなって自覚した」 「そんなに……」 「サーシャも同じ寮に住んでたらしくて、前から僕のヤバさには気づいとったらしいねん。『昔日本人の女の子と付き合ったことがあるから、俺は日本語しゃべれるよ』『話せるようなら話してごらんよ。初対面なんだし、かっこつける必要なんてないよ』って言うてくれはってさ。あったかい部屋に招かれて、手料理とワインと振る舞ってもろて、なんかようやく我に返ったていう感じがしたな」 「そうなんですか……よかった、いいタイミングで声かけてもらえて」 「な。ほんま、ああいう外見やし、ほんまに天使かと思ったわ」  そう言って、賢二郎は初めて自然な笑顔を見せた。その表情を見てようやく、空はほっと安堵した。そして同時に、「建前上の恋人」と疑ってしまったことを心底恥ずかしく思った。 「写真とかありますか? 俺、まだサーシャさん見たことなくて」 「あぁ、そっか。……えーと」  テーブルの上に無造作に置いてあったスマホを手に取り、賢二郎はつつつ、と指先で操作している。ほどなくして空に向けられた画面には、ソファに座り、膝の上に分厚い楽譜を開いているサーシャの姿が写っていた。  緩やかにウェーブしたプラチナブロンドが細面の容貌を彩り、愛おしげに細められた切れ長の目元はとても優しい。瞳の色も累より数段淡いアイスブルーで、窓から差し込む白い陽光とあいまって、今にも光に透けていってしまいそうなほどに輝いて見える。 「う、うわぁ……綺麗ですね。確かに天使っぽい……なんていうか大天使のほう。熾天使とか」 「ま、これは奇跡の一枚やけど……顔はいいな、才能もあるし。僕もたまにびっくりする」 「びっくりって?」 「……」  ふと賢二郎が黙り込むので、空は怪訝に思って伏せられた目元を覗き込んでみた。  さっきより頬が赤い気がする。まさか、さらに酔いが回って眠くなってしまったのか? と心配になりかけたところで、賢二郎がようやく、ほっそりとした唇でこうつぶやく。 「……なんでこんな人間が、僕を好きになるんやろ……って」 「ふぇぇ……」  突然の盛大な惚気に、空は心臓をぎゅぎゅーんと鷲掴みにされてしまった。酒など一滴も飲んでいないのに顔がかぁぁぁと熱くなり、こっちまで照れくさくなってしまう。 「ちょっ……そのへん、もっとくわしく知りたいんですけど……」 「………………いや、もうやめよ、こんな話、誰が興味あんねん」 「いやいや興味津々ですよ! だって肝心なとこ抜けてます、どうしてそうなったのかが知りたいです!」 「……うう……何話してもーてんねやろ僕は……」 「まぁいいじゃないですか。ね? 次は何飲みますか?」  賢二郎の酔いにつられて、空まで妙な高揚感に包まれてしまっている。てきぱきと追加の酒とノンアルコールドリンクを注文し、ついでにつまみの種類も増やす。 「さっき言ってた、サーシャさんが嫉妬深くなる理由ってなんなんですか?」 「あー…………うん、あれな。うん。君にとってもおもろい話とちゃう気がするけど……」 「え?」  頬杖を解いて机の上で腕組みをし、賢二郎は下から掬い上げるように空を見つめた。不意打ちの上目遣いだ。その物言いたげな強い眼差しにドキリととさせられてしまうが、空は賢二郎から目を逸らさなかった。  すると賢二郎はふっと口元を緩め、どこか懐かしげな微笑みと共に目を伏せて、こう言った。 「留学したての頃……僕はまだ、累クンのことがめちゃめちゃ好きやってん」

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