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  「そ……そうですか」 「なんや、驚かへんやん」 「だって凱旋公演の前に大学でお会いした時、石ケ森さんそんなこと言ってましたし。……そのセリフのせいで、俺、けっこう長いことモヤモヤしちゃいましたし……」 「……そーやんな。ほんまにごめん。大人げなかったな」 「いえ、いいんです」  空がゆるゆると首を振ると、賢二郎は自嘲気味な笑みを浮かべ、ハイボールの満たされたジョッキをぐびぐびぐびと傾けた。そして「はぁ〜〜美味っ」と息を吐き、いくらかすっきりした目つきで空を見つめる。 「あん時は、生身の君を目の前にして、さすがに僕もちょっとな」 「はい……」 「ああ、この子か〜て。めっちゃええ子そうやし、可愛らしいし……そら、あの天才クンが一直線になるわけやなて、思ってん」 「……」 「諦めてるつもりでも……やっぱ、すぐには吹っ切れへんかった。スランプの間も、このままじゃ累クンと対等になれへんやんて、さらに悩んだりしててな」  苦悩に満ちた過去を語る賢二郎の瞳は穏やかだ。  だが空は、あの凱旋公演の前に見た、賢二郎の苦しげな目つきを思い出していた。  濃い諦観を浮かべながらも、拭いきれない強い想いを感じさせられた。だからこそ「諦める」という言葉を聞いたとてまるで安心はできなくて、音楽の世界で累を理解できる賢二郎にずっと嫉妬してきたのだ。  ただ、嫉妬に苦しめられていたのは空だけではなかった。賢二郎もきっと、空の存在に心を締め付けられる日もあっただろう。  どう足掻いても自分のものにはならない恋だ。賢二郎の音楽留学は、累から物理的な距離を置くために必要な時間だったのだろうと空は思った。  だが、そこに救いはあった。遠い音楽の国で、賢二郎はパートナーを得たのだから。 「サーシャさんにこの話をしたんですね。だから累を目の敵に……」 「うん、そうやねん。……サーシャの部屋に招かれた日、僕は疲れのせいもあって相当酔っ払ってたらしくてな。どんだけ累クンのことが好きか、会えへんくなって恋しい思いをしてるか、みたいな話をずーーーーーっと延々聞かせてしもて」 「延々……」 「けど、どんだけ足掻いても、あの子には君がいる。四歳の頃から、あの子が好きやったんは空くんや。僕の出る幕も、付け入る隙も、一ミリもない……ずっと誰にも言えへんかった嘆きをサーシャの前でぶちまけて……覚えてへんけど最終的にはメソメソ泣いてたらしい」 「……なるほど」  賢二郎が累への片想いを患い続けていたことを、サーシャは良く知っているということだ。だから今も、生身の累を見て警戒してしまうのだろう。……そういう気持ちは、空には実によくわかる。 「まぁ、それはそれとして。僕には気分転換が必要やいうて、サーシャはあっちこっち僕を連れ出してくれた。色んなものを見せてもうたし、教えてもらって、楽しかった」 「へえ、素敵ですね。それでスランプから抜けられたんですか?」 「そうやな……なんかこう、肩に力入りまくってたんがいつの間にかスッと抜けて、日本におる時よりも自由に音楽をやれるようになった気がした。調子が戻ってからも、サーシャとはいい友人で。しょっちゅう飲みに行ったり遊びに行ったりもしたし、オフの日はどっちかの部屋でそれぞれ好きに過ごしたり……ていう感じになって」  サーシャの話をするとき、賢二郎の表情はやはりとても和らいだものになるなと感じた。空もノンアルコールドリンクで唇を潤し、相槌を返す。 「そのまま一年、二年……そういう穏やかな関係が続いて、僕も向こうの学校にも慣れて、毎日楽しくてな。そこそこ大きいコンクールで賞も獲れて、自信もついて。気づけば、僕は累クンにこだわることがなくなってた」 「二年……」 「そ、二年や。それが長いんか短いんかは、ようわからんけど」  箸でホッケの開きをつつきながら、賢二郎は唇を笑みの形にしならせる。空も少し冷めた若鳥の唐揚げに箸を伸ばして、小ぶりなものを一つ口に入れた。    噛み締めると弾力があり、じゅわっと溢れ出すのは香味豊かな味わいだ。緊張もほぐれ気持ちも落ち着いてきたためか、ようやく食事の味を感じることができている。この店、何から何まですごく美味い。 「じゃあ、サーシャさんとはどういう流れで……?」 「僕の帰国が迫った頃……確か、今から半年くらい前かな。いつもみたいにサーシャの部屋で飲んでたときに、『実は仕事が決まったんだ』って言われてん。『ここから遠く離れた国で、講師として働くことになった』って」 「……へぇ」  賢二郎いわく、これまでサーシャはウィーン国立音楽芸術大学で博士課程に在籍しつつ、若手指揮者としての仕事をバリバリこなしていた。  そんな中の、突然の『遠く離れた国へ行く』という宣言だったらしい。 「ショックやった。サーシャとは毎日のように一緒に飯食ったり酒飲んだりしてて、話してて楽しくて、一緒におるのがなんやもう自然すぎて。僕かて日本帰らなあかんのに、サーシャが僕の知らん場所へ行ってしまうかもっていうんがめっちゃ嫌で、僕は何も言われへんかった」  静かな語り口に引き込まれる。その時の賢二郎の気持ちが空に流れ込んでくるようだった。 「そしたらあいつ、『どうしてそんなに悲しそうなの?』て言うねん。なんやめっちゃ腹立って、そら寂しいからに決まってるやん! て軽くキレたら、抱きしめられて……僕のことが好きやって言うねん。びっくりしすぎて沈黙しとったら、『僕も日本に行くよ。これからも君のそばにいたいから』……って」  滔々とその時のことを語る賢二郎の顔を食い入るように見つめていたら、はっとしたように視線がこちらを向く。  ずいぶん空が前のめりになってしまっていたせいか、賢二郎が我に返ってしまったらしい。  賢二郎は途端に頬を引き攣らせ、すい〜と目線を泳がせた。そして、「ま、まぁそんな感じや」とそっけなく話を締めた。 「えっ!? なんでですか! もっと具体的に知りたいです!」 「具体的にて……いや、こんな話誰が興味あんねん」 「俺、俺あります! だって、日本にまでついてきちゃうなんてよっぽど石ケ森さんのこと好きってことじゃないですか!」 「いや……けど最初は断ったんやで。いきなりそういうふうには見られへんし」 「え!? そ、そうなんですか?」 「累クンには惚れてもーたけど、自分がゲイやとは思ったことなかったし。……てか今でも思えへんし」 「そ……そういうもんなんですかね……」 「サーシャはバイやて自覚しとったけど……僕はそもそも、恋愛自体あんま関心もなかってん。今も実際、サーシャを好きやからゲイやったんやとは思えへんというか」 「……まぁ、それはなんとなく、わかるかなぁ……」  空にとっても、唯一恋愛感情が芽生えた相手は累だけだ。だからすなわち「男が好き」というような単純な図式には、自分たちの感情を落とし込めない気がする。    かといって、女性を好きになることがあるかと言われると……それはないと思う。もはや累以外の誰かと恋愛関係になる未来など、想像さえできない。  かいつまんで空の心情を説明すると、賢二郎は「そう! そうやねん、そんな感じ」と何度も深く頷いた。 「じゃあよっぽど、サーシャさんのことが特別なんですね」 「特別っちゃ特別やな。けど、『恋人』っちゅー表現よりは、『パートナー』のほうがしっくりくる感じやねんなぁ」 「そうなんですか? 二人きりの時はラブラブとかじゃ……」 「いや……それは……」  さっきまで澱みなく喋っていた賢二郎の口が急に重くなる。心なしか火照ったように頬が赤く、なんだかこれまでになく艶っぽい表情だ。  空はハッとして、ドキドキしながらこう尋ねた。ちょっぴり妄想してしまったので空の頬まで熱くなってしまう。 「す……すごくラブラブってことなんですね? すごい……」 「はっ? いや、君が何を想像してんのかわからへんけど……逆。その逆」 「え? 逆?」  賢二郎はガッとジョッキを掴んでぐびぐびぐび〜〜と半分ほど残っていたハイボールを一気飲みしてしまうと、はぁ〜〜〜〜……と今度は長いため息を吐いた。 「……できひんねん、怖くて」 「えっ……? なにをですか」 「…………セックス」 「せっ……」  蚊の鳴くような声で、賢二郎はぽつりとそう言った。空よりも大人な賢二郎が、こんなにも恥ずかしそうにその言葉を口にするものだから、空まで一気に恥ずかしくなってしまう。  気まずい沈黙が流れていたテーブルに、またいつもの店員さんがシャッとカーテンを開いて現れ、「ドリンクの追加いかがですか〜!?」とよく通る声でオーダーを取りにきた。   空もいっそ酒を飲んでしまいたいような気分だったがコーラを頼み、賢二郎はまたハイボールをおかわりした。

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