61 / 85

「これまでずっとそんなふうに見てこぉへんかったし、なんか……気恥ずかしいってのもあって」 「それはわかる気がします……」 「もともとスキンシップ多いやつやって、欧米人やからそんなもんなんかなと思ってたけど……やっぱ、好きやって言われてからはその……身構えてまうというか」 「……なるほど」 「サーシャも、それでええて言うてくれてはんねん。……でもやっぱ我慢してんのもわかってまうし。僕としても、一切触ってくんなっていうつもりとちゃうんやけど……」  これはずいぶん繊細な悩みだ。空はなんとなくきちんと座り直した。  そしてふと思う。賢二郎が空を呼び出した本当の理由はこっちだったのかもしれないな……と。  昨今理解が進んでいるとはいえ、同性同士の恋愛についてはまだ偏見もある。その上、セクシャルな悩みはとても繊細だ。誰にでもやすやすと話せる内容ではないだろうに、その相手に自分を選んでくれたのかと、空はやや驚いていた。 「じゃあ……サーシャさんとはまだ何もしてない、ってことですか?」 「いや……何もってわけじゃないけど……。あっちがそういうムード出してくると、ちょっと怖くなんねんな」 「ああ……わかる気がする……」  最初は累に抱きしめられるだけで緊張したし、初めてキスしたときは累に噛みついたりもしたものだった。幼馴染で親友だった累を、急に恋人として見られるようになるまでには、けっこう時間がかかった気がする。 「俺も……最初は累の勢いについていけなかったりしたしなぁ……」  と、独り言がぽろりとこぼれる。すると賢二郎はさっと顔を上げた。 「そうなん? 幼馴染でもそうなん?」 「はい……。それに五年くらい累はドイツ行ってて、小中と一緒にいなかったし……」 「ああ……そやったな」 「五年経って帰ってきたら、めちゃくちゃ背も伸びてて、顔も大人っぽくなって王子様みたいで、しかもいっぱしのヴァイオリニストになってて……変化についていけなかったような記憶が……」 「なるほどなぁ……」  空からこんな話を聞いて不愉快ではないのだろうかと勘繰ってしまうが、賢二郎はしみじみといった様子で頷いている。なんとなく両手に包み込んでいたグラスの中で氷が溶け、カランと涼しい音が個室に響いた。 「けど今はもちろん大丈夫なんやろ? どんくらいで平気になった?」 「どのくらい。えーと、あんまり覚えてないけど……」 「そういや、いつぞや君とイチャつけへんていう悩み相談に乗ったような……」 「わーー! 思い出さなくていいですよそんなの!!」  細い顎に手を当てて過去を振り返りかけている賢二郎を止め、空はごほんと咳払いをした。 「と、とにかく、こういうのって焦ることじゃないと思うんで、石ケ森さんが乗り気じゃないなら、無理はされないほうがいいかと……。こっちにも結構……覚悟がいるんで」 「覚悟。……うん、確かにな……あんなもん突っ込まれるなんて怖すぎやもん……相当覚悟いるであれは……」 「……」  情緒のない発言をさらっとしてのけ、賢二郎はまた枝豆をつまんだ。実際その通りでなので、空は苦笑するしかない。  賢二郎はジョッキのふちを指先でくるりと撫でながら、また頬杖をついた。白く長い中指が濡れたグラスの飲み口をゆっくりと辿るさまは、なんだかとても艶かしく見え、シラフだというのに空はドギマギしてしまう。  累も指先のケアは怠らないが、賢二郎もそうなのだろう。爪の先、指先までとても綺麗だ。大きさは違えど、手の形が何となく似ている。 「僕……昔ちょっと付き合った彼女とかとも、ヤりたいとかあんま思ったことないねんな」 「へぇ、そうなんですね」 「そもそも、積極的に来られたしまぁ付き合ってもええかなくらいのノリやって、恋愛として誰かを好きとか嫌いとか、そういうのあんまなかってん。デートする暇があるなら練習したかったし、家に泊まりに来られても、『うわ練習する時間減るやん』くらいに思ってて……今思うと結構最悪やな、僕」  ちょっと眠たげな声になりながら、賢二郎はため息をつき、ちょっと黙った。その沈黙から、空は「だけど累のことは恋愛的に好きだった」という含みを読み取ってしまう。  それはつまり、賢二郎にとっての初恋は累ということになるのだろうか。小学生の頃にコンクールで負かされたことをきっかけに累を仇のように捉えていたらしいが、そこまでの感情をずっと抱き続けてきたということは、賢二郎の中によほど大きな感情を芽生えさせたということになる。  ——なるほど……サーシャさんが嫉妬するわけだなぁ……  と、ちょっとだけ他人事のように捉えられるようになってきたあたり、空も賢二郎に対してやみくもにやきもちを妬くということはなくなっているのかもしれない。それに、すっかり空に気を許しているようすの賢二郎を目の前にしていると、毒気も抜かれてしまうというものだ。  無防備に眠たげな顔で、賢二郎はものすごく単調に枝豆を食べすすめている。なにやら考え事に沈んでいる様子だ。 「けど……サーシャに触られんのは、いやじゃない。けど……途中まではええ雰囲気やっても、急に僕が我に返ってまうねんな。色々されてる自分が、急に恥ずかしくて死にそうになったりして」 「それもわかる気がする……」 「はぁ……なんでやろ……。なんや最近申し訳なさがすごくて……日本(こっち)帰ってから泊まりにいったりもしてへんし、そのせいで余計にサーシャも疑い深くなってんのかも……」 「一緒に住んでるわけじゃないんですね」 「うん、マンションは同じやねんけど違う階にな。お互いに一人の時間も必要やん? 僕は一人暮らし長いから、ずーっと誰かと一緒におるんはちょっとしんどいし」 「なるほど」  付き合い始めて何年か経っているけれど、空は今でも累との逢瀬の後に別れる時は少し寂しい。  累は「早く一緒に暮らしたい」と常々口にしているし、空もその件については賛成だ。だがそう思えるのは、今お互いに実家暮らしでそれぞれに居場所があり、適度に離れる時間があるからそう感じるのかもしれない。  ややあって、賢二郎はがくりと項垂れた。そして「あああ〜〜」とうめき声を漏らす。相当悩んでいる様子だ。  こんなにも悩んでいる賢二郎をほうってはおけない。空はぐびぐびぐびと強炭酸のコーラを飲み干して、真っ直ぐに賢二郎を見つめる。 「石ケ森さん!」 「……は、はい」  空の改まった口調に、賢二郎ははっとしたように目を瞬き、そして背筋を伸ばした。 「そういうことに慣れてないのは当然だと思うんで、あまり自分を責めないほうがいいと思います」 「そ、そやろか……」 「だって、男性と付き合うのが初めてってことは、自分がそういう対象として見られるってことにもまだ不慣れってことですよね。恋愛自体にそもそも関心がなかったんだったら、余計に男性に抱かれる自分の姿を受け入れるのは難しいと思うし」 「……そやなぁ」  ——こんなこと言って大丈夫かな俺。なんかすごい偉そうじゃないか……?  賢二郎は殊勝に空の言うことを聞いてくれているが、空の考えが100パーセント正しいというわけではないかもしれない。だが、悩んでいる賢二郎に対して何も伝えずして、このまま帰るわけにはいかない気がしたのだ。 「サーシャさん、本番ができないからって石ケ森さんを嫌いになるような人には見えないです。だから今みたいに…………ってどの程度何をしてるのかはわかんないけど……いやそれは置いといて、ちょっとずつ、そういうふれあい方に慣れていけばきっと、いつかは大丈夫になる気がします」 「……」  少しでも賢二郎の気が楽になればいいと願いながら口にした言葉は、果たしてどのくらい届いているだろう。眠そうだった賢二郎の瞳は今はすっかり理性を取り戻しているかに見える。  必要以上にアドバイスめいたことを行ってしまったせいで、偉そうなガキだと思われているかもしれない。 「……空くんて」  じ……と空を見つめる賢二郎の両目が細められる。  ああこれはまた鋭い嫌味が飛び出してくるに違いないぞ……! と身構えた空に向かって、賢二郎はふっと柔らかく微笑んだ。 「ほんま、ええ子やな」 「えっ……。そ、それはどっちですか。嫌味的な意味で……?」 「は? なんやねん嫌味的な意味て。言うたまんま、そのまんまの意味や」 「あっ……し、失礼しました」 「ふふっ……」  賢二郎は肩を揺すって笑い、テーブルの端にずっと置かれっぱなしだったお冷を手にして一口飲んだ。 「ええ子やわ。あの天才クンが離せへんわけや」 「ええと、はい……ありがとうございます」 「……君がそういう子でよかったわ。うん……ほんまにそう思う」 「石ケ森さん?」  徐々に賢二郎の口が重たくなってゆく。心配になって顔を覗き込もうとすると、賢二郎はのろのろと机の上に突っ伏してしまった。 「えっ、だ、大丈夫ですか!?」 「だいじょぶ……だいじょぶ。……最近ちょい寝不足やって……夏バテもあって……」 「そ、そうなんだ。どうしよう、タクシー呼びます?」 「いや……だいじょぶ。寝るわけちゃうから、平気やし」  どこからどう見てもこのまま眠りこけてしまいそうに見える。空はあたふたしながら賢二郎の腕にそっと触れ、軽く揺すった。 「クーラーも効いてますし、風邪ひいちゃいますよ。それならもうすぐ店出て……」 「……ありがとうな」 「えっ?」  顔を伏せた状態から、賢二郎が目線だけを動かして空を見上げる。とろんと無防備な表情だった。 「あ、あの。何がですか?」 「……」 「あれっ、寝てる? うわわ、どうしよう……」  いつの間にやら目を閉じて、すー、すーと安らかな寝息を立てている賢二郎だ。空はやや途方に暮れかけたが……一旦すとんと自分の座布団に腰を下ろして、ふうとひとつ息を吐いた。  さっきもちらりと思ったけれど、賢二郎はサーシャとの付き合いにまつわるもろもろの悩みを、誰かに聞いて欲しかっただけなのだろう。  音楽家としての経験は積み上げたものがあるとしても、こういった色恋の悩みに関してはとてもうぶなところがありそうな人だ。ひとりで抱えておくだけの余裕が持てなかったのかもしれない。  酔っ払ってぐーぐー眠っている賢二郎の姿からは、これまで空をモヤつかせていた得体の知れなさなど、きれいさっぱり拭い去られてしまったように感じる。  空はちょっと微笑んだあと、店員を呼んでブランケットを借り、賢二郎の肩にそっと掛けた。 「とはいえ、このままここで寝てもらうわけにはいかないしなぁ……。累に手伝ってもらって、石ケ森さんちに送っていこう」  空はそうひとりごちながらスマホを取り出して累に手早くメールを打ち、テーブルの上に残っていた料理をぱくぱくと食べて片付けてゆく。  そろそろ賑わい出した店のそこここから、美味そうな匂いが漂って、活気あふれる店員たちの声が聞こえてくる。  心地よい騒がしさと賢二郎の寝息に耳を傾けながら、空はのんびりと累の到着を待つのだった。 『空、賢二郎に誘いを受ける』 おしまい♡

ともだちにシェアしよう!