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〈3〉……累目線

 今日は初めてのオーケストラとの合同練習だ。  場所は本番と同じ、高城音楽大学ミレニアムホール。大学内で一番大きなホールで、客席数は980席で3階席まである。大学の設備としてはかなり大規模なものだ。  ヨーロッパのオペラハウスを彷彿とさせる格調高いデザインと、計算され尽くした音響施設で人気の施設で、年に何度かプロのオーケストラがここでコンサートを開くこともあるらしい。  外はうだるような暑さだが、ホールの中は空調が効いていてとても涼しい。湿度管理まで完璧になされたホール内のステージ上には、すでに学生選抜メンバーが着席している。  さらには午前中、ここで別のグループがピアノ協奏曲の練習をしていたらしく、グランドピアノがステージ前方に鎮座している。  質量のあるグランドピアノには妙な圧迫感があるし、学生オーケストラのメンバーたちはほぼ初対面。期待の眼差しを向けてくる彼らを前に、累はやや緊張していた。  たが気合いで自分を奮い立たせると、学生オケのメンバーに向かって深々と頭を下げ、「どうぞよろしくお願いします」といつもより大きめの声で挨拶をした。  挨拶に応じる学生オケのメンバーたちの反応は朗らかで、女性メンバーたちからは密やかな悲鳴のようなものも聞こえてくる。  以前は気にならなかった黄色い声も、今の累には若干プレッシャーだった。女性の高い声がざらりとした金属音のように聞こえてしまう。  だが、そういう自分の焦りや余裕のなさに気づけるくらいには冷静だ。累は誰もいない客席のほうを向いて大きく息を吸い、深く吐く。そして、ヴァイオリンを顎に挟んだ。  すると、指揮台に立っているサーシャがストンとステージ上に降りてきた。白いTシャツに膝の辺りが破けたブルーデニムを履いたサーシャは、教員とは思えないほどに若々しい。まるで指揮科の学生のように見える。  口元に笑みを浮かべたサーシャは軽やかな足取りで累の背後に回ると、ぎゅ、ぎゅ、と肩を揉む。そして、ばし、と軽く背中を叩かれた。 「ルイ、筋肉が硬いな。リラックスリラックス」 「……大丈夫です。そこまで緊張してません」 「本当? それならいいけど。じゃあみんな! 第一楽章頭から、一度通してみよう!」  サーシャはよく通る声で練習開始を告げ、人の良さそうな笑顔を浮かべた。すると、累の登場でやや緊張感が走っていた学生選抜オケのメンバーたちの表情が緩み、空気が変わりはじめるのがわかった。ここまで練習を重ねているオーケストラのメンバーとは、すっかり信頼関係が構築されているようだ。  指揮台に上がり、まずはステージ上に配置された楽団員のひとりひとりの表情を見渡す。そして小さくひとつ頷くと、ちょっと訳知り顔の笑顔を累へ向けた。  累が小さく頷き返すと、サーシャはすっとタクトを構える。  一瞬の静寂。タクトが軽やかにしなるのを合図に、第一ヴァイオリンが優雅に音楽の始まりを告げる。  そこへ弦楽器の音色が重なり、管楽器、木管楽器による冒頭のメロディーが広がってゆく。プロとも遜色のないまとまりのある音に、累は少し驚いていた。  ——すごい完成度だな……。  楽団メンバーの視線は、きれいにサーシャほうを向いている。序奏が徐々に盛り上がりを見せてゆくころには、視線だけではなく、メンバーそれぞれの呼吸のリズムまで拍を揃えているような一体感が生まれていた。賢二郎が『気持ちいい』と言っていた理由がよくわかった。  累は弓をそっと弓を構え、表情豊かにタクトを振るサーシャを見上げた。  序奏のあとは独奏ヴァイオリンによる五小節の短いカデンツァ。カデンツァとは、ソリストが伴奏なしで自由で即興的な演奏をすることを意味する。  観客の心を掴み、自分とオーケストラの気持ちを盛り上げるためにも、華やかさを心がけるようにしている大切なパートだ。  何度も練習を重ねたカデンツァを経ると弦楽器の伴奏が入り、独奏ヴァイオリンによる第一主題が展開されるのだが……。  ——……音が響いていかない。  スランプに陥ってから何度も繰り返されてきたあの息苦しさが、再び累の胸をつかえさせる。  音符は正確になぞっているし、弓を引いているのだから音は出ている。だが、累の音色はただ自分の周囲の空気を震わせているだけだ。  ホール全体の空気を震わせる広がりもない。しなやかに音が伸び、聴衆ひとりひとりにまで音が届いていると感じられるような、雄大な響きは皆無だった。  ——僕はまだ、ダメなのか……?   足元が抜け落ちてしまいそうな絶望感が、累を苛む。だが、機械的に指は動き、複雑なメロディを違えることなく弾くことはできている。  弾くことはできるのだ。十五歳のときにも、そして二十歳になった今も、何度も何度も練習してきた楽曲だ。多少の不調には目をつぶれ。弾き切ることはできればコンサートは成立する——……! 「はいはい、ストップ! いったん止めよう」  すう……と潮が引いてゆくようにオーケストラの音色が消えてゆく。だが、周りが見えなくなっていた累の音色だけが、しばらくホールの中に虚しく響き、楽団員の困惑した空気があたりに漂う。 「……っ」  累はハッとした。そして、ピタッと演奏を止める。  こんなのは初めてだ。周りの音が聞こえず、見えず、完全に自分だけの世界で弾いていた。いたたまれず、累は小さく俯いた。 「す……すみません! もう一度お願いします」  その声さえ小さく震えているような気がして、累は心底自分が情けなくなった。  サーシャの視線を感じるけれど、そちらを見上げることができない。きっと蔑むような眼差しでこちらを見ているに違いない。  不甲斐なさのあまり、累はぎゅっと唇を噛む。 「……うん、わかった。じゃあ、オケのみんなは三十分休憩ね。ちょっとルイとふたりにして」  普段と変わらぬのほほんとしたサーシャの声だ。そんな気遣いはいい、いっそ皆の前で罵倒したらいい。そのほうが楽なのに……と、累は思った。  ごそごそと背後で学生たちが席を立つ音が聞こえる中、累はようやく顔を上げた。  サーシャは腰に手を当て、批判とも憐憫ともとれるような眼差しでじっと累を見つめている。 「……ごめんなさい」  苦い感情を噛み砕くように謝罪の言葉を口にすると、サーシャは指揮台の上で肩をすくめた。 「いいよ、わかってる。君は意外と顔に出やすいタイプなんだな」 「え……?」 「それに、俺も君に謝っておかなきゃいけないことがあるし」  指揮台からストンと降りてきたサーシャは、ヴァイオリンを手に佇んでいる累のそばに立った。 「オケの子たちには、君がスランプだってことを伝えてある」 「え、そ……そうなんですね」 「ごめんね。ソリストのプライドに関わることだろうとは思ったんだが」 「いえ、別にいいです。本当のことなんで」 「そう」  サーシャは手近なパイプ椅子を引き寄せて浅く座ると、斜め下から累を見上げてきた。アイスブルーの澄んだ瞳は表情が読み取りにくく、サーシャがどういう想いで自分を見ているのかわからない。  がっかりしているのは間違いないだろう。恋人である賢二郎が固執しつづけてきた累が、この程度だとは思わなかったと……。 「ルイ、あのね。ここは大学だ」  不意に、サーシャがドイツ語で話しかけてきた。久方ぶりに耳にしたドイツ語にやや驚きつつ、累は小さく首を傾げる。 「え?」 「学ぶ場所なんだよ、ここはね。失敗したっていい、それも学びだ。そして俺は一応教師で、君を教え導く立場にいる」 「はい……」 「君はすでにデビューして売れっ子なんだろうけど、まだここの学生なんだよ。そしてオケの子たちも、不調や好調、どん詰まりを繰り返しながら成長している学生だ。君の失敗を笑ったり、蹴落として貶めようとする子はひとりもいない」 「あ……」  十五歳でデビューして以来、当たり前のようにプロとしての扱いを受け続けてきた。サーシャの台詞は、聞いていれば確かにその通りで当たり前の事実でしかないのだが、自らに完璧を課し続けてきた累にとって、それは目から鱗が取れるような気づきだった。 「練習はこれからなんだ。初めての顔合わせで皆にいいところを見せたい気持ちもわかるけど、そこまで気負うことはないよ」 「いいところを見せたいわけでは……。ただ、幻滅はされたくないって……思ってた、かも」  つられて累もドイツ語で返事をすると、サーシャは少し嬉しそうに目を細めて微笑んだ。そして、つんつんと指先で累の胸元を指差しながら、「そういうのを気負いっていうんじゃないの?」と言った。 「なーに、君みたいなタイプはね、ちょっと弱いところを見せるくらいでちょうどいいのさ。君に威圧感を感じてる学生はたくさんいるからな」 「威圧感?」 「そう。きみは有名人だし、話しかけにくいオーラがバリバリ出てるしね」 「そんな……」 「それに、きみはまだ二年生だよね?」 「はい」 「ふふん、俺からしてみれば、まだまだお尻の青いヒヨッコだ」 「お尻の青いヒヨコ……」  サーシャはこともなさげにそう言って、ひょいと立ち上がった。そして指揮台の前に置かれているグランドピアノに向かってスタスタと歩いてゆく。  サーシャはスマートに椅子に座ると、ピアノの蓋を開き、豪快に鍵盤全体に指を走らせた。  長い指が優美に動き、どこか気まずい空気が満ちていたステージ上に……いや、ホール全体に、あっという間に音が溢れた。さほど力を入れて弾いているようには見えないというのに、こんなにも華やかな音が出るのかと驚かされる。  サーシャは戯れのようにきらきら星変奏曲をスタッカートで弾きながら、累を見て微笑んだ。 「そうそう、賢二郎から聞いた。むかし、賢二郎と弦楽四重奏でカノンを弾いたらしいね」 「はい、高校生のときに」 「肩慣らしに、俺ともアンサンブルをしよう。……どうだい?」 「あ……はい、わかりました」  戸惑いながらも累は頷き、ヴァイオリンを持ち直してサーシャのそばへ歩み寄る。  軽く首を回して息を吐き、累は改めてヴァイオリンを構えた。 「序奏は俺が弾くよ。途中ペースを変えても構わない。こっちがきみに合わせるから、自由にやりなさい」 「はい」 「よーし、じゃ、やろっか」  サーシャは両手を組み合わせたり手を握ったり開いたりしたあと、楽しげににっこり笑った。  そして椅子の上で背筋を伸ばし、鍵盤の上に手を置いて……。  さっきの大胆なタッチが嘘のように、ゆったりとした優しい音色が流れだす。  パッフェルベルのカノン。あまりにも有名なあの序奏が、繊細な音色で奏でられはじめた。  ——綺麗な音だ……。  細胞の隅々まで澄み渡るような、美しい音。耳から入り鼓膜を震わせるサーシャのピアノの音は、強張り、息の詰まっていた累の全身へと染みこんでゆく。  こわばりをほどいてゆくような清らかな音色にしはらく身を任せていると、自然と弓を持った腕が持ち上がる。累は目を閉じ、サーシャの音色に耳を傾けながら、初めの一音を放った。  懐かしいメロディ。これは空の好きな曲だ。  ヴァイオリンを覚えたての幼い頃は、空の前で何度も弾いた思い出がある。 『きれいなきょくだね』『るいすごい、じょうずだねぇ!』と褒めてもらえると嬉しくて、ふわふわした雲の中でヴァイオリンを弾いているような気持ちになった。何度練習しても飽きることがない、特別親しみのある曲だ。  ——あの頃はただ上手くなりたくて、がむしゃらだったな。空の前でつっかえたりしたくなかったから、必死で練習してたんだ。マメもできたし、皮が剥けて痛かったけど、空の笑顔のためならって……。  耳に流れ込んでくる清らかな旋律が、郷愁を呼び覚ます。  弓を引きながら、累の唇に笑みが浮かんだ。  賢二郎と出会ったきともこの曲だった。  初めはとてもとっつきにくい人だと思っていたが、今は賢二郎は累の良き理解者のひとりとなった。  スランプに喘ぎ、空との関係までギクシャクしていた辛い時期。賢二郎がいなかったら、自分たちはどうなっていただろう。空をもっともっと傷つけてしまったかもしれない。修復不可能なまでに関係を拗らせてしまっていたかもしれない。想像したくもない痛い未来を現実のものにしなくて済んだのは、あのとき賢二郎が累に手を差し伸べたからだ。  ——いろんなステージに立ったけど、石ケ森さんと一緒に弾いた曲は特によく覚えてる。  音楽祭、凱旋公演、南禅寺のコンサート……過去の風景が脳裏を去来する。それと同時に、耳の奥に過去の自分の音色が流れ始める。  スランプなど無縁だった。ヴァイオリンを弾く理由はただ、『空に喜んでもらいたいから』それだけだった。  だがその根幹には、ヴァイオリンが好きだという想いが当たり前のようにそこにある。  音楽を、ヴァイオリンを愛している。  表現したい音楽が溢れているからヴァイオリンを弾く。  神に捧げる祈りのような音楽を、この手で奏でることができる喜びを、これからも感じていたい。  ——これからもずっと『音楽の世界』(ここ)にいたい。弾いていたい。空のためだけじゃない、僕自分のためにも……!  幼い頃からの環境ゆえに、自然と足を踏み入れいていた世界だった。だが今は違う。  累は、自ら望んでそこに立っている。  目を開き、眼前に広がる大ホールを見渡した。  閉塞感に息が詰まる思いだったが、今は二階席や三階席のひとつひとつまで、くっきりと見渡せる。 「はぁ……」  深く呼吸ができる。清浄な空気で満たされてゆく。  累は身体ごと後ろを向き、サーシャを見た。  累の瞳を見て感じとったものがあったらしい。サーシャはクールなアイスブルーの瞳を輝かせ、幸せそうな笑顔を浮かべた。  穏やかで静謐なタッチで伴奏していたサーシャの演奏が、がらりと変わる。  音が一気に強くなり、きらびやかなメロディがキラキラと舞い上がる。  華やかで豊かな和音。サーシャが力強いタッチで鍵盤を叩くたび、分厚い音色がホール全体を震わせ、空間を輝かせる。  やがて、累の奏でる主旋律にピアノが重なった。  全く同じペースでメロディが絡まって、弾んで、追いかけっこになる。  ヴァイオリンのペースなど構わずどんどん駆け上がっていくようでいて、そうではない。累を誘い、ともに盛り上げていくような弾きかただ。こんなにも自由なアンサンブルは初めてだった。刺激的で、ふつふつと気持ちが昂りはじめるのを感じて楽しくなる。  サーシャの誘いに乗って弾き方を変える。よりアップテンポに、ペースを上げて、軽やかにヴァイオリンを歌わせる。  累が乗ってきたことで、サーシャがより勝ち気に、挑戦的な笑みを浮かべた。  大きな手、長い指が、モノトーンの鍵盤の上を軽やかに跳躍する。弾けるような和音が、サーシャの指先から華やかにあふれている。  その音量に負けじと、累も全身を使って音色を奏でた。サーシャのメロディを追いかけつつも、目線で合図を送り合って主旋律をスイッチすれば、サーシャが累のメロディに力強く華々しい伴奏を添えた。  ——ああ……楽しい。楽しい……!  ぶつかり合うよういて、共に踊るかのような掛け合いが楽しくて、気づけば全力でヴァイオリンを弾いている。累の口元にも笑みが浮かび、汗がはじけた。  気づけばずっとサーシャと視線を交わしたままだ。目線だけで、サーシャの考えていることがわかる。理解できる。その証拠に、ふたりの音は完璧に息が合い、ひと呼吸ひと呼吸までシンクロしている。  こうしようああしようと考えなくても、自然と音楽がこみ上げてくる。弓を滑らせるたび、イメージ通りの音がきらめきとともに生まれていく。  そして、徐々にクールダウンを促すように、ピアノがペースを落とし始める。コーダへ向かい、豊かな和音で、ゆるやかなペースを作ってゆく。終わりが近い。  この素晴らしいひとときが終わってしまうことを、寂しく感じずにはいられない。  ——もっとこうしていたい。もっと、弾いていたいのに……。    より一層力強い和音を叩き、リズムを刻み——そしてサーシャは、華麗なグリッサンドでラストを締めた。  音が止んだホールの中。  光をまとった音楽の飛沫が、あたり一面の空気をきらきらと輝かせる。  誰もいないホールに舞う光の粒を捉える青い瞳から、一筋の涙がすべり落ちた。

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