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〈4〉……累目線
「っ……はぁ…………」
ヴァイオリンを降ろし、累は長い長い息を吐いた。
全力疾走をしたあとのように、心地よい疲れだ。顎を伝う汗が、ステージの床にぽたりと落ちる。
「ルイ、素晴らしいよ。素晴らしい」
「……サーシャ」
ホール中にこだまするような拍手をしながら、サーシャが累のもとへ歩み寄ってきた。そして、やおらぎゅっと抱きしめられる。
「それでいいんだよ! それでいい! ルイはもうとっくに殻を破ってるんだ!! 勇気を出しなさい、もう大丈夫だよ!」
「……っ……」
サーシャの高揚と感動がダイレクトに伝わって、目の奥がツンと痛んだ。制御不能な感情が湧き上がってきそうな予感がして、累はぎゅっと目を閉じる。
「サーシャ……先生。ありがとうございました」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるサーシャの肩に触れて身体を離し、累は冷静さをひっぱり戻しながら掠れた声で礼を言った。
するとサーシャは目を細めて累を見上げ、ぽんぽんと頭を撫でてくる。
「先生? 無理に先生呼びしなくてもいい。むしろこれまで通り名前で呼んでよ、友達いなくて寂しいんだ」
肩をすくめ、ちょっとおどけたような笑みを浮かべ、サーシャはこう言った。
「賢二郎が惚れた音色だ。気になって、きみのコンサート映像や音源はだいたい聴いた」
「……そうだったんですか」
「非の打ち所がないほどに上手い子だと思った。技術も、表現力も申し分ない。その上家柄も良くて美形ときて、しかも賢二郎が惚れてた相手ときた。……初めは嫉妬したよ、そりゃ。けど聴き続けるうちに、俺も君の虜になってしまったらしい」
「ほ、ほんとに?」
「本当だよ。だからこそ、君が調子を落としているのがもどかしくてね。気になって、ちょこちょこ練習を見にいっちゃったってわけ。嫌がらせじゃないよ?」
賢二郎がらみでてっきり嫌われているとばかり思っていたが、サーシャも累の音楽を好きだと言ってくれた。
認めてくれていたのかと思うとホッと気が抜けて、累ははぁ〜〜〜〜……と息を吐いてその場にしゃがみ込んでしまった。
「うわ、ルイ、大丈夫?」
「大丈夫……。あと、ありがとう。なんだか、自分を取り戻せた気がした」
累はその場にあぐらをかいて座り込むと、まだ潤んだままの瞳でサーシャを見上げた。
「……サーシャのピアノはすごい。すごく気持ちよくて、楽しかった」
「ハハッ、俺もだ。あんなに一生懸命ピアノを弾いたのはいつぶりだろう」
「ピアニストだったんでしょ? 僕はもっとサーシャのピアノを聴きたいよ。なんでやめちゃったんですか? 素晴らしかったのに」
「そうだねぇ……」
矢継ぎ早に質問を投げかける累に、サーシャはやや翳りのある笑みを浮かべる。そして、グランドピアノを複雑そうに見つめた。
「たいした理由じゃないさ」
「……本当に?」
「まぁ、今だからわかるのは、俺には指揮者のほうが向いていたってことかな。自分で選んだ道だしね」
「……」
音楽を共にする前までは何を考えているのかわからなかったサーシャの瞳だ。だが今は、彼が何か隠しているのがわかる。
曖昧に微笑むサーシャの瞳に、いいようのない空虚が見え隠れしていることも。
「怪我をした、とか?」
「……おや? ルイは俺の過去に興味があるのかい?」
「だって、こんなに良い演奏ができるのに。僕はすごく楽しかった。自由で、独創的で、人を巻き込むパワーもあって、華やかで……!」
「ふふ。きみにそう言ってもらえるなんて、光栄だな」
サーシャは目を細めて、床に座り込んでいる累の頭をぽんぽんと撫でた。誰もいないステージを遠い目で眺めつつ、サーシャはひとつ息を吐く。
「つまらない理由だよ。俺は、ピアノを愛していないからだ」
「え……」
心臓がヒヤリとするような硬質な声で、サーシャはポツリとそう言った。
「俺は音楽家一族の生まれでね、生まれたときから、俺のまわりには音楽が溢れていた。俺の両親はどちらももピアニストで、祖父母も、叔父や叔母やその伴侶も、その子どもたちも……何かしら楽器をやっていた」
「すごいですね」
「そう。だから俺も、当然のようにピアノを弾いていた。初めは楽しかったさ、才能もあったんだろう。上手く弾けるから、幼い頃はピアノを弾くのは苦ではなかった」
「それは……僕にもわかる感覚だな」
「だろうね」
サーシャは肩をすくめた。
「ただ不幸だったのは、父が交通事故で腕を負傷してしまったことだ。これからというところでピアニスト人生を断たれてしまった父は変わってしまった。自分が成し得なかったこと全てを俺に託すように、ピアノのレッスンを強いるようになったんだ」
「そんな……」
「ミスタッチをすると、ひどく殴られた。手や腕は傷つけないように、顔や腹、背中を折檻された。母親も見て見ぬふりだ。よほど父が怖かったんだろう」
「……」
唇にうつろな笑みを浮かべて過去を語るサーシャの気迫に、言葉を挟むことができなかった。
なんという過酷な家庭環境だろう。無意識に縋るものを求めて、ヴァイオリンを抱く手に力がこもる。
「まぁ、技術だけは伸びたさ。ミスをしないように、完璧に弾きこなせるように、学校と食事の時間以外は常にピアノに触れていた。今思うと、あれはもう強迫だな。そうしていないと不安だった。父を怒らせないように、母を泣かせないために、俺はピアノを弾いていたんだ」
「……ピアニストになってからも?」
「そうだな……はじめはね」
過去を見つめていたサーシャの瞳が、累を認める。灰色みのある淡い色の瞳から、累は目が離せなかった。
「大学在学中に大きな賞を獲ってプロデビューして、親への義務は果たせたと思った。親の功績もあって俺はその頃から既に有名人だったから、仕事はすぐにたくさんきたよ。俺は機械的にピアノを弾いて、弾いて、弾きまくった。なんの感傷もない俺のピアノを、皆素晴らしいと言って褒めちぎるんだ。愛想笑いはどんどん上手くなったけど、心はまるで満たされない。こんなことをしていてなんの意味があるんだろうって、いつもとても虚しかった」
「……それ、いくつの頃?」
「二十歳くらい、かな。ちょうど今の君の年齢だ。そして、父が自殺した年でもある」
「えっ……」
累は息を呑んだ。父の死を悼んでいるのだろうか、サーシャは長いまつ毛をゆっくりと伏せる。
「俺が家を離れてから、父はずっと塞ぎ込んでいたらしいんだ。鬱か何かだったんだろうけど、治療も拒否して、ずっと弾けもしないピアノの前に座っていた。その頃は、母親もとっくに父から逃げてよそで仕事をしていて……とても、孤独な死だったようだ」
「……」
「ごめんね、こんな話。そんなに悲しそうな顔をしないで、ルイ」
「いえ……僕が話をせがんだからだ。辛いことを思い出させて、僕のほうこそ、ごめん」
「いいさ」
サーシャはピアノ椅子から立ち上がり、累の隣に腰を下ろした。そして、累が抱いているヴァイオリンを親しげに見つめる。
「いい楽器だ。艶があって美しいね。よく手入れされているな」
「ああ……うん。十年くらいかな、ずっと一緒だ」
「そう。君はヴァイオリンを愛しているんだな」
「うん……スランプになるまであまり考えたことなかったけど、多分そうなんだろうな」
「そういう絆が、俺はとても羨ましいよ」
そっと手を持ち上げて、高く掲げる。ライトに翳されたサーシャの手を、累はともに見上げた。
「俺は音楽を愛する人に囲まれていたいんだ、ずっと。これからも音楽から離れたくない。だから指揮者になったんだ」
「そうだったんだね……」
「まだ、賢二郎に想いを伝えるずっと前、彼にもこの話をした。そうしたら賢二郎は、『それなら僕が、サーシャの楽器になってやる』って、言ってくれたんだ」
賢二郎とのエピソードを口にした途端、サーシャの表情はするすると柔らかくほどけ、優しくなる。笑みを浮かべていてもどこか渇きを湛えていた口元に、血が通うように。
「ふふ、こんな言い方じゃなかったかな。もっと男らしい言い方だった気がする。彼の言葉は独特だからな」
「……そうですね、わかります」
「そんなことを言う人は初めてだったから驚いたし、すごく嬉しかったんだ。指揮者としての俺を認めて、手放しに褒めて、励まして……賢二郎がそばにいてくれると、力が湧いてくるんだよ。絶対に離れたくないと思った。俺は、賢二郎を愛しているから」
飾ることのない愛の言葉の強さに、累は思わず目を見張った。まるで自分が愛の告白を受けているかのようにさえ感じさせられ、妙に胸がざわついた。
妙に面映ゆいような気持ちに戸惑いながら、累はサーシャに「すごく素敵なエピソードだ」と伝えた。
「いずれ賢二郎が帰国してしまうこともわかっていたから、俺はどうにかして日本についていけないかって、ずいぶん色々考えたよ」
「教職のこと? たまたま決まった話じゃなかったの?」
「うん。本当はね、俺よりもずっとベテランの、退官間近の教授に渡る予定の仕事だったんだ。チャンスだと思った。お偉方を説得して回って、ベテラン教授とも何度も話をした。だけど、俺みたいな若造に務まるわけがないって取り合ってもらえなかった」
苦労を語ってはいるが、サーシャは楽しい思い出を懐かしむような口調だ。
「悔しくてね。俺はそこから積極的にコンサートの依頼を受けたし、あちこち営業にも回った。上を説き伏せるために、もっと派手な実績が必要だったからだ」
「そこまでして……」
「自分でも馬鹿なことをしていると思ってた。まだ、賢二郎の気持ちさえ聞いていない頃のことだからな」
「もしフラれたら、とか思わなかったの?」
累の問いかけに、サーシャはスッと人差し指を立てた。おどけた調子で左右にスウィングして見せると、眉根を下げて軽やかに笑う。
「思ったよ、そりゃ。でも日本に行って、そこからまた口説こうと思ってたからな」
「心が強い……」
「それくらい賢二郎と離れたくなかったってことさ。どうしても、俺は彼のそばにいたかったんだ。夢が叶って幸せだ」
サーシャが音楽へ懸ける想いや、賢二郎への真摯な想いに触れていると、自分の甘さを痛感させられる。
恵まれた環境に甘えているばかりではいけない。
自分も、もっと強くならねばという想いが腹の奥から湧き上がってくる。
累はおもむろに立ち上がり、そして、サーシャに手を差し伸べた。
「……ありがとう。サーシャと話ができてよかった」
「ふふ、そうかい? お礼を言われるようなことはしていないけど、なによりだ」
「練習を再開しよう。僕はもう大丈夫だ」
累が決然とした口調でそう言うと、サーシャの目がきらりと輝く。差し伸べた手をがしっと力強く掴み、サーシャもステージ上に立ち上がった。
「よし、やろう。オケのみんなを呼んでおいで」
「はい」
固く視線を結び合わせ、ふたりは同時に笑みを浮かべた。
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