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〈5〉……累目線
「あ、累。おかえりー」
「空! きてたんだね。ただいま」
自宅に戻ると、キッチンに立ち、鍋をかき回している空がいた。カレーのいい匂いが家の中に漂っている。
なんだか色んなものを使い果たしてヘロヘロになっていたこともあって、吸い寄せられるように空に抱きつく。突然背後から抱きしめられた空は「うわっ、あぶないじゃん!」とおたまを取り落としそうになった。
「あぁ……空の匂い。落ち着く……」
「累? 疲れてんね、どうしたの?」
「それはあとで聞いて。……はぁ、いい匂い。好きだよ、そら」
「え? カレーじゃなくて俺の匂い? どうしたんだよ」
鼻先を突っ込んだ空の髪は微かに濡れている。それに、なんだかシャンプーの匂いも香ってきた。
「もうシャワー浴びたんだね」
「うん。今日バイトあったからさ。もー砂まみれの汗だくだったから、さっぱりしたくて」
「ふふ、そっか」
後期が始まってからも、『ほしぞら』で定期的にアルバイトに入っている空だ。もっぱら元気いっぱいの男児たちを相手にせねばならないらしく、バイトのある日は泥まみれで帰ってくる。
「なんか累、機嫌いいね。いいことでもあった?」
「うん……うん、まぁね」
「へぇ、なになに? なにがあったの?」
「それもあとでゆっくり聞いて。今は……こっちがいいな」
累はカチ、とガスコンロの火を消した。そして、怪訝そうにこちらを振り返る空の額に、チュッと軽いキスを降らせる。
空は累がしようとしていることを察したらしい。ぽっと頬を赤らめてむずかしげな顔をしつつ、鍋に蓋をした。
「……ご、ご飯は? お腹空いてないの?」
「ちょっとね。でも、空が先がいい」
「ん、っ……」
うなじにかぷりと歯を立てると、空の背中がぴくんと震えた。シャツの中に手を入れて敏感な尖りを探しながら、ちゅ、ちゅっと音をたてながらうなじに唇を滑らせる。
「るい……っ、ん……くすぐったいよ……」
シンクに手をついて前屈みになった空の乳首を軽くつまむと、空は背中をしならせて甘いため息を漏らした。空の腰のあたりに昂ったものを押し当てながら、累は空の耳朶を甘噛みし、同時に乳首をくりくりと捏ね責める。
「ぁ、あぁ……ん、っ……」
「声、かわいい。もっと聞きたいな」
「あっ! るい、っ……」
耳にぴったりと唇をくっつけて囁きながら、そっと空の股ぐらに手を忍ばせる。ちょっと触れただけですでに硬さをもちはじめている空の性器をやわやわと愛撫しながら、累は尖らせた舌先で耳穴を甘くくすぐった。
「ひ、ぁっ……ァっ……ん……」
「先っぽ、もう濡れてきた。どんどん硬くなるね」
「み、みみもとで実況中継しないでってば……!!」
「ふふ……ごめん、つい」
徐々に体温を上げてゆく空の身体を愛撫するうち、累のほうもだんだん堪えがきかなくなってきた。
空の履いていたハーフパンツと下着を落とすと、丈の長いTシャツの下から白い双丘がむき出しになる。ものすごくいやらしい眺めだ。たまらない。
「舐めてもいい?」
「なめっ……て、ここで!? ど、どうしたんだよ今日……っ」
「それもあとでゆっくり聞いて」
空にこちらを向いてもらい、ちゅ、と唇にキスをして、累はキッチンの床に跪いた。頬を赤く染めて息を弾ませている空の身体をゆっくりと眺めるうち、累の唇には甘い笑みが浮かび始める。
「シャツ、自分で持ってて」
「う……うん……って、こ、こんなの恥ずかしい……」
「フェラしにくいから。ね?」
「うう……」
累が部屋着にしているこの白いTシャツは、ほっそりとしなやかな空の身体によく似合っているけれど、丈が少し長めだ。口淫されるために、シャツを自分で捲り上げねばならないという行動は、空にとってはひどく恥ずかしいものだろう。
だが空は、羞恥心をくすぐられながらも累の言葉に素直に従い、シャツの裾を持ってゆっくりとたくし上げてゆく。その表情にはグッとそそられるものがあり、累はさらに笑みを深くした。
ちゅ、と空の鈴口にキスをする。空は「ぁ」と小さく声をあげ、顔を真っ赤にした。
あえて上目遣いに空を見上げ、羞恥心をさらに煽るように舌を伸ばして舐め上げると、空は涙目になって「っ……こ、こっち見なくていーって!!」と怒った。
「ごめん。空の恥ずかしそうな顔、めちゃくちゃエロくて可愛いから」
「んっ……もうっ、どうしたんだよ……こんなとこで急にこんなっ……、」
ぱく、と空の屹立を口内に迎え入れ、敏感な先端を丁寧に舌で愛撫する。すると空はかくんと膝が砕けたようにふらついたが、シンクにもたれて耐えている。
「あ……ぁぁ……、……っ」
そして挿入を深めながら竿に舌を這わせると、空は顎を仰いて気持ちよさそうな声を漏らした。小ぶりな双丘に両手を添え、ゆっくりと揉みしだきながらピストンすると、口の中でみるみる空のそれが硬さを増してゆくのがわかる。
「ん……るい……。きもちいい……」
理性が溶けはじめてきているのか、声に甘えが滲むのを感じると、累はまた上目遣いに空を見上げた。
シャツを両手で持ち、トロンと快楽にとろけた表情を浮かべている空の姿はたまらなくいやらしく、累もだんだん我慢ができなくなってきた。
「……ぁっ」
突然累がフェラチオをやめたので、空がちょっと拍子抜けをしたような顔をしている。口内で張り詰め、おそらくは絶頂が近かった。もうちょっとでイケそうだったのに……という顔だ。
そういう顔も可愛くて、累は舌なめずりをしながら立ち上がった。
「空はナカでイくほうが好きだよね」
「そっ……そ、そんなことないし」
「じゃあ、これはどうして?」
空の尻の感触を楽しんでいたときに気づいた。後孔のあたりがしっとりと濡れていることに。
正面から抱きしめながら窄まりに指を這わせてみると、空はちょっとバツが悪そうな顔をしつつ「んっ」とため息を漏らした。
「もう慣らしてあるのは、どうして?」
「うっ……」
「ねぇ空。自分でしたんでしょ? なんで?」
「ううう……っ……、そ、そんな涼しい顔でわかりきったこと聞いてくんなよっ!! 恥ずかしすぎて死ぬ……」
顔を背けようとする空の目をあえてじっくり覗き込みながら追求していゆくと、空はとうとう真っ赤になって怒ってしまった。
だが、累はニコニコが止まらない。すると空に、「なに笑ってんだよっ!」とまた怒られた。
「だって、普段そんなことしないのに。なんでかなぁと思って」
「ううう……だって」
どちらかというと恥じらいがちな空が、まさか自分で後ろを慣らし、あまつさえ潤滑剤を窄まりの中に仕込んでいるというのだから驚いてしまう。そして同時に、自分のためにそういうことをしているという事実に、累は感動していた。
じっと見つめ続ける累の視線に負けたのか、空は恥ずかしそうに俯いて、蚊の鳴くような声でこう言った。
「最近の累、またちょっと元気なかったから……今日はちょっと頑張ってみようかなと思いまして……」
「そ、そら……ほんとに?」
「だ、だからもうすぐ挿れたっていいし………………って、そんなジロジロ俺の顔見ないでよ! 言ってて恥ずかしくなってきただろっ!」
「ご、ごめん。だって、嬉しすぎるし、可愛すぎて」
「うう……」
心底恥ずかしそうに俯いてしまった空のうなじにもう一度唇を寄せ、累は微笑みを含んだ声音でこう囁いた。
「僕は空に愛されてるな」
「そ、そりゃ……そうだよ……」
「嬉しい、すごく。お礼に空の好きなところ、たくさん中から突いてあげるね」
「ぁ……るい……」
する……と裸の尻たぶを柔らかく撫で降ろし、腿の裏を指先で淡く撫で上げる。空の肌はすべらかで気持ちが良く、いくらでも撫でていたい。
「ぁ、あっ、くすぐったいって……っ、ぁ……んっ」
「ナマで挿れていい……? もう我慢できない」
「ん、うんっ、いいよぉ……っ」
ディープキスをしながらジーパンの前を寛げてゆく累の手つきにも、いつになく余裕がない。
やわらかな双丘に深く身を沈めながら、累はきつく空を抱きしめる。
夕飯などそっちのけで、ふたりは甘い行為に浸るのだった。
+
「えっ、じゃあ、スランプは抜け出せたってこと?」
キッチンセックスのあと、ふたりでシャワーを浴び、累のベッドの上でごろごろしていた空が、がばりと上半身を起こした。
腕枕をしていた空の重みがふと消えてしまったのがなんとなく寂しくて、累もつられて身体を起こす。
ふたりでまったりと事後の気だるさに身を任せている間に、サーシャとのアンサンブルの話を空に話して聞かせたのだ。
「それって、そういうこと!?」
「そんな感じはした。……まだお客さんたちの前で弾いたわけじゃないから、完璧に抜けたかどうかはわからないけど」
「でも、でも……累、のびのび気持よく弾けたってことなんでしょ? ここんとこそういうのなかったじゃん!」
「うん。……気持ちよかった」
ボクサーパンツと累の貸したタンクトップだけを身につけた空の目が、みるみるキラキラと輝き始める。
累の身に起きたことを、まるで自分のことのように喜んでくれる空を、ことさらに愛おしく感じる。累は微笑み、ちゅ、と空の額にキスをした。
「よかった……よかったねぇ、累!」
「ありがとう。あと……ごめんね」
「え? なにが?」
「空に甘えて、ふさぎこんだり、ひどいセックスしちゃったりしただろ」
「ああ……いや、もういいってそんな昔のこと」
「三か月くらいしか経ってないから、『昔』とまではいかないような気がするけど……」
累が眉をひそめながらそう言うと、空は「細かいことはもういいって」と笑った。あの時のことをずっと気に病んでいた累だ。空のおおらかなところに救われる想いがする。
累は空を抱きしめ、もう一度ベッドに引っ張り倒す。累の腹の上にまたがる格好になった空の笑顔は、いつにも増して明るく、そして優しい。
「あの時のことがあったからこそ、累のことをもっと理解できた気がするんだ、俺」
「……そうだね。僕も、無意識にカッコつけてたんだってわかって、今は前より楽になったかもなぁ」
「カッコつけ、か。あははっ、累はなにもしてなくてもかっこいいけどね」
「そ……そうかな」
「そうだよ。文系はちょっとアレだったけど、体育なんかもサラッとなんでもできちゃってさ、高校んときから……いや、保育園のときから累はかっこいいよ」
「そ、そら……」
急に空がベタ褒めしてくれるものだから、感激のあまり目頭が熱くなる。累が潤んでいるのを見つけるや、空は累の顔の横に片手をついて、じっと瞳を覗き込んできた。
「累は目が潤むと、青い瞳がキラキラ輝いて見えるんだよね。すごくきれいだよ」
「……今日はずいぶんたくさん褒めてくれるんだね」
「そうかなぁ? いつも褒めてるじゃん」
ベッドで空に組み敷かれるような姿勢になっているのもまた新鮮だ。累は空を見上げながら、空の太ももをそっと撫でた。
程よく空調の効いた涼しい部屋は心地良く、空の肌はサラサラしていて気持ちがいい。無意識にすりすりと空の太ももに這わせていた手に、空の手が重なった。
「……もう、なんですぐそうやってエッチな触り方するかな」
「え? エッチだった?」
完全に無意識だった。だが、頬を赤らめて怒ったような顔をしている空の表情は絶妙にそそるものがあり……空の太ももに置いていた手に、あっという間に熱がこもる。
両手で空の小さな尻を包み込み、ぐ、と指に力を込めてもみしだく。すると空は色っぽく吐息を漏らして、累の上で尻をもぞつかせた。
「累……もう、さっきしたばっかなのに……」
「ねぇ、もう一回する? 僕はしたいな」
「はっ!? さっきあれだけやったのに!? ……累って、涼しい顔してほんと……」
空は何か言いかけたけれど、照れくさそうな顔をして口をつぐんだ。累が首を傾げると、空はゆるゆると首を振り、「なんでもない」と言う。
「ご、ごめん……ちょっとしつこかったよね。身体、しんどかった?」
「えっ。い、いや、そういう意味じゃなくて……」
久々に満足のいく演奏ができたことでふわふわと高揚した気分だったし、空が自分に抱かれるために準備万端でいてくれたことにも興奮して、さっきはかなりしつこく空を求めてしまったのだ。自覚はある。
何度目かの中イキで身体に力が入らなくなってしまった空は、キッチンのシンクに崩れるように手をついていた。
そこでやめられたらよかったのだが、煌々とライトの灯ったキッチンでいやらしい格好をさせられているというのに、「るい、きもちいい、きもちいいよぉ」と涙目で乱れる空の色香はたまらなかった。
細い腰を掴み、叩きつけるように腰をぶつけるたび、空の中は累の精液を搾り尽くそうとするようにきつくうねって、絡みつく。欲してくれているのかと思うと嬉しいし、空の中が気持ち良すぎて、腰が止まらなかった。
全身で愛撫を悦び、「ナカで出して」と喘ぎながら懇願されてしまうともうダメだった。空の負担を考えれば、中出しなどもってのほかだとわかっているのに、二度、三度と空の体内に吐精した。
深く嵌められたままぐったりした空の上半身を引き起こし、キスをしながら深く穿つと、空の内壁はさらにとろけて、うねって、累に素晴らしい快楽を与えてくれて——
抱けば抱くほど、肉体が互いに馴染んでいくのを感じるし、がっつき気味だった高校生の頃よりも、空を満足させることができているような気がしている。
いつだって空は気持ちよさそうに乱れてくれるし、累もより長い時間、空の身体を味わうことができるようになった。
なので、セックスの時間が長時間に及びがちだ。それは空にとって負担なのだろうかと、累はしゅんとなってしまったのだが……。
「ごめん。確かにちょっと、最近ガマンがなってないなって思ってはいたんだけど……」
「ち、ちがうって! そんな泣きそうな顔しないでよ」
「じゃあ何? イヤなことがあるなら言って? 直すから」
「そ、そうじゃないよ。俺だってめちゃくちゃ気持ちいいもん、累とするの……」
「ほんと? じゃあさっきなんて言いかけたの?」
縋るように空を見上げる。すると空は、ぎゅ、と唇を引き結んで難しい顔をしたあと、小さな声でこう言った。
「ぜ……絶倫って言おうとしてやめたの!」
「ぜつりん? ぜつりん……どういう意味だっけ」
「くっ……それを俺に説明しろと……」
「え、まさか何かネガティブな意味……?」
「ち、ちがうよ!」
どうしてそんなにも真っ赤な顔をしているのだろう……と、累が小首を傾げると、空は唇を震わせながら、「ざっくりいうと、せ、性欲が強いっていうか、すぐに萎えちゃわなくて……エッチがすごいって、意味」と小声で言った。
「性欲が強い……? 僕が?」
「ほ、ほかのひとはどうかわかんないけど! ご両親が留守にするようになってから、エッチの回数も増えたじゃん……?」
「うん……確かに」
「こ、こないだの休みだって。なんだかんだ一日中やってたし……」
「そう……だね。してる時の空、すごくエロくて可愛いし、した後で疲れてる空もなんだかすごくエッチな雰囲気で可愛くて、またムラッときちゃうんだよね」
「そういうとこだっつーの」
そう言って、空はひょいと累の上から降りてしまった。重みが消えてすごく寂しいが、ぴったりと寄り添ってうつ伏せになった空の温もりにホッとする。
「それはつまり……怒ってるわけじゃないってこと?」
「怒ってないよ。ただ……累としてると気持ちよすぎて、なんかバカになっちゃってるみたいな気がして……」
「そんなことないよ! ヘロヘロになってろれつが回らなくなってる空もすごくエロい。めちゃくちゃ興奮する」
「……だからそういうとこだって。よく俺相手にそこまで盛り上がれるね」
呆れ顔を一瞬見せたあと、空はくすぐったそうに肩を揺すって笑った。累も空のすべらかな頬を撫でながら、つられて笑う。
「空のことが愛おしすぎて、触れずにはいられないんだ」
「い……愛おし……?」
「夏の初め頃、空には悲しい想いをさせたけど、それでも僕を見捨てずにいてくれただろ?」
「見捨てるわけないじゃん……」
「小さい頃からずっと好きだった空が僕を好きになってくれて、僕は本当に幸せなんだ。その上、キスや身体まで許してくれて、セックスで喜んでくれるのが嬉しくて……触れずにはいられないんだよ」
「累……」
空の瞳が、うるりと揺れる。累はそっと腕を伸ばして空の後頭部を撫で、そのまま自分のほうへ引き寄せた。
重なる唇のあたたかさに、心がとろけて満たされてゆく。唇が離れると同時に目を開くと、微笑む空の瞳が間近にあった。
「俺は累に愛されてるなぁ」
「うん、四歳のころからね」
「四歳……かれこれ十六年か……すごいなぁ」
「そうでもないよ。これから先もずっと、僕の気持ちは変わらない」
「る、累……」
当たり前のことを言っただけだというのに、空の顔は茹で上がったように真っ赤になっている。
枕に突っ伏す空は、耳まで真っ赤だ。累もうつ伏せになると、空の耳にキスをした。
「……そういう台詞も、サラッと言っちゃうんだもんなぁ」
「もっと言ってもいいの?」
「い、いや、照れくさすぎて倒れちゃうから、また今度で」
くぐもった声が枕から聞こえてくる。空の後頭部から湯気が立ち上っているように見えて、累は思わず笑った。
こんなにも軽やかな気分で笑えるのはいつぶりだろう。重いものが絡みついていた心は解き放たれ、リラックスした気持ちで、ゆったりと空と寛ぐことができている。
サーシャの力強いピアノに引っ張られ、導かれ、心が弾んで昂った。あのアンサンブルの直後、音の余韻が光をまとい、キラキラと輝いているように見えた。
そのあまりの美しさに見惚れ、累は陶然と立ち尽くすことしかできなかった。目を閉じれば、今もはっきりとあのきらめきがイメージできる。
ある種のゾーンに入っていたのかもしれない、ヴァイオリンを始めて十五年が経つが、あんな体験は初めてだった。
これまでずっと、累の心を薄く曇らせていた靄のようなものが、今はきれいさっぱりかき消えている。常に、累の心をじっとりと重くしていた焦りも。
スランプを知り、抗いようのない深い苦しみを初めて知った。
もっと不評を買うかと思っていたが、そうして苦しみもがいている間、誰も累を貶めるようなことは言わなかった。
家族も、夏目も、大学の同期たちも、依頼を通じで出会った演奏家たちも。
身近で常に累を支えてくれた空。空とのわだかまりを解くきっかけを与えてくれた賢二郎。
そして、不調に慣れてしまったがゆえに、萎縮していた累を解き放ってくれたサーシャ。
——僕は恵まれてる。……本当に、感謝してもしきれないな……。
あと一週間で音楽祭本番だ。
あれほど不安に感じていた本番を、今は心から楽しみに思えている。
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