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〈6〉
そして、音楽祭当日。
空は緊張の面持ちで高城音楽大学の正門前に立っていた。
ここへくるのは三度目だ。
一度目は、高校生の頃だった。音楽祭にゲストとして呼ばれた累の弦楽四重奏を聴くために、壱成と連れ立ってここへきた。
二度目は凱旋公演の数日前。累との喧嘩(空が一方的に怒っていただけともいえる)の直後だ。累に謝りたくてここを訪れた。
初めてここへきた日、累と賢二郎の息のあった演奏を目の当たりにして、ひどく動揺した。
さらに二度目にここへ来たときは、当の賢二郎と直接顔を合わせることになってしまった。あの冷えた指先がさらに凍りついてゆきそうな緊張感と息苦しさは忘れられない。恋に不慣れだった空にとって、『嫉妬』という感情を喚起させる賢二郎の存在はあまりにも大きく、心を不穏に波立たせるものだった。
だけど、今日は……。
「空くん、こっちこっち」
「あっ、こ、こんにちは……!」
正門前に立ち、ひょいと片手を上げる賢二郎のもとへ、空はたたっと駆け寄った。
ラフな黒いオーバーサイズTシャツに細身のデニム、そして黒いスニーカーという出立ちをした賢二郎である。ヴァイオリンケースを持っていない賢二郎は、ごく普通のどこにでもいそうな大学生に見えた。
「お……お久しぶりです」
「うん、ちょっとぶり。……なぁ、なんや緊張してへん?」
「ま、まぁ……ちょっと」
「そんな心配せんでも、天才クンならうまいことやらはるやろ。せやし……」
「い、いえ……石ケ森さんと一緒に音楽祭を回ることにです……」
「そっち?」
数日前、賢二郎から突然メッセージが送られてきたのだ。
『音楽祭当日は天才クンも忙しいやろから、よかったら一緒に回らへん? 案内するで』というものだった。
まさか賢二郎から二度目の誘いを受けるとはつゆほども思っていなかったので、何度も目をこすりながらメッセージを確認した空である。そして累にもそれを見せ、京都人特有の含蓄が込められていないかどうか確認もした。
すると累はちょっと眉を下げ、「ゼミのほうでもちょっとした出し物があるから、あんまりゆっくり見て回る時間がなくて……」と申し訳なさそうな顔をした。
そして、「石ケ森さん、空のことけっこう好きだと思う。だからただ一緒に遊びたいだけなんじゃないかな」と微笑むのである。
兄たちも音楽祭には興味津々だったが、あいにく二人とも仕事が入っているため日中は来られない。18時から開演予定の累のステージだけは行く、と言っていたため、昼間はどうしようかなと考えていたところだった。
なので、ドキドキしながら賢二郎の誘いに乗ったというわけである。
いつぞやのサシ飲みを経て、賢二郎への嫉妬渦巻く感情は鳴りを潜めているものの、相手は大人で、しかもヴァイオリニストだ。
共通の話題といえば累のことくらいだし、ほかに何を話せば良いのかもわからなかったのだが……。
「へぇ、お兄さんホストやってはるんや」
「そうなんです。今は経営者側にいるみたいなんですけど、フロアにもずっと出てるみたいで」
「さぞかし男前なんやろなぁ。顔似てる?」
「うーん……あんまり似てないかも。兄ちゃん……兄は俺よりずっと背も高くて、筋肉もあるし……」
「ははっ、そんなかしこまらんでも。兄ちゃんでええやん」
蓋を開けてみると、賢二郎主導でポンポン会話が弾んでいる。そういえば、賢二郎は南禅寺のステージでも司会者と軽妙なトークを繰り広げていたなと空は思った。クールそうな外見をしているが、意外と話し好きなのかもしれない。
中庭のど真ん中には屋外ステージが建設され、女性だらけのジャズバンドが演奏中だ。セーラー服に紺色ハイソックスという清楚な女子高生のような格好をしているけれど、曲調はハードでノリが良く、金色の楽器をダイナミックに扱う姿がものすごくかっこいい。
中庭をぐるりと囲むようにいくつか屋台が出ているが、誰も大声を張って客を呼ぶことはしていない。ステージの邪魔にならないようにしているのだろう。
のんびりとキャンパス内を歩くのは学生ばかりではなく、家族連れや老夫婦の姿もあり、なんだかほっこりする眺めだ。高城音大の音楽祭は地域に開放されていて、誰でも気軽に音楽に触れることができるようになっているという。
空の通う大学の学園祭は、運動系サークルの屋台の呼び込みだったり、流行りの音楽が大音量で流れていたり風船が飛んでいたりと、かなり賑やかだし人も多い。雰囲気がだいぶ違うので新鮮だった。
空もはじめは活動の楽そうなバスケサークルに入っていたけれど、ノリがあまりに軽すぎてついていけず、結局、サークルよりもずっと硬派なバスケ部のほうに入部した。練習はややハードだが他大学との交流も盛んだし、男女ともどもしっかりものの学生が多く所属しているため、とても楽しく過ごせている。
賢二郎いわく、音大にもサークルは存在するが、それらはすべからく音楽系だという。空はそれにも驚いてしまった。音楽ばかりやっていたら、息抜きに違うことをしたくなるのではないかと想像するが、音大生は意識が違うらしい。今ステージで演奏しているジャズバンドも、そういったサークルのひとつだ。
最前列では熱狂的なファンらしき人々がさかんに声援を送っているが、空と賢二郎は最後部でのんびりたこ焼きと焼きそばという軽い昼食を食べながらの音楽鑑賞である。ちなみに観客席は芝生の上で、椅子やベンチなどは設置されていない。
秋を感じさせる青空が綺麗に広がり、気温もまだそこまで上がっていない。のびのびとした空間で音楽を聴きながら軽食を食べるのは、とても気持ちがよかった。
「かっこいいなぁ。音楽できる人って本当にすごいですよね」
「空くんは保育士志望なんやろ? ピアノは弾けなあかんのちゃうん?」
「あ、はい……そうなんですよね。累が教えてくれるっていうんですけど」
「へー、あの子ピアノも弾けんねや」
「はい。あ、高校んときとか、代打で卒業式で弾いたりとかしてて……」
と、高校時代のエピソードを話して聞かせると、賢二郎は焼きそばをもぐもぐしながら、「ほー。高校でもさぞかしモテモテやったやろな」と言った。
「そうですね、ファンクラブとかもあるみたいだったし」
「累クン取られたらどないしょ、とか思わへんかったん?」
「いや……それはあんまり思ったことないかも……」
「そらすごい。さすがやな」
「ていうか……一番ずっと気がかりだったのは、石ケ森さんでしたけど……」
サラリとそんなことを言ってしまってからハッとする。賢二郎があまりにも話しやすいので、何やら言わなくて良いことまで言ってしまった。
口をつぐみ、ちらっと賢二郎のほうを窺うように見てみる。すると賢二郎は、ちょっとびっくりしたような顔から一転「あははっ」と声を立てて笑い出した。
「僕のこと、そんなに気にしてくれたはったん?」
「……ええと……まぁ、はい……」
「ここで前会うたときも、邪魔せぇへんて言うたのに」
「言ってたけど。けど……俺からしたら、石ケ森さんは累と同じヴァイオリニストで、上手くて、かっこよくて、大人で……って。なんかもう、俺なんかひとつもこの人に敵わないじゃんって、何回も思ったし」
そうか、自分はそんなことを感じていたのかと、こぼれ落ちた言葉を聞いて初めて気づいた。
しかも、いちど溢れ出した言葉は止まらない。堰を切ったように、自覚さえできていなかった当時の感情が、ぽろぽろと口から飛び出してゆく。
「累の気持ちを疑うわけじゃなかったけど、もし……俺から累が離れていくとしたら、石ケ森さんみたいな人のところへいっちゃうんだろうなって。ずっと同じ楽器やってて、音でお互いの気持ちわかっちゃうとか、なんかそれってすごいことじゃないですか。俺なんかとは次元が違う気がして、それで不安になってたから……」
「そう……そうなんや。そっか……空くん……なんちゅうか、きみ……」
空っぽになったたこ焼きのパックをじっと見つめながらとつとつと語っていると……突然、横から伸びてきた腕で抱きしめられる。
空は仰天した。なぜ賢二郎は自分を抱きしめているのかと……。
「えっ。えっ!? あの、石ケ森さん……!?」
「可愛いなぁ、君。ほんっま、かわいらしいわ」
「はい? い、今の話のどこが可愛い……」
「ああ〜〜……もう、ほんっまいじらしいっちゅうかなんちゅーか……健気やなぁ、可愛すぎるわ〜〜」
背格好がほぼ同じ賢二郎に抱きつかれ、くりくりと頭を撫で回されて、どういう反応をすればいいのかわからない。ただただされるがままになっていると、賢二郎はほんのり赤く潤んだ瞳をキラキラさせながら空を見つめ、驚くほど優しい笑みを見せる。……色っぽいのでドキドキしてしまった。
そんな二人の目の前に、誰かがひょいとしゃがみ込む。今度は一体誰だろうとそちらを見ると……なにやら見覚えのある顔がすぐそこにあり、空は目を丸くした。
やや癖のあるプラチナブロンドに、累のものよりも淡い水色を湛えた瞳の色が印象的なこの男は……。
「賢二郎……なにやってるのこんなところで」
「おう、サーシャやん。久しぶりやな」
「あっ……ほ、本物……」
写真でしか見たことのなかった噂のサーシャが、なんともいえない苦笑を浮かべて目の間にしゃがんでいる。空はさりげなく、賢二郎の腕を外した。
「はっ、初めまして! 俺、えーと……」
累と賢二郎づてにサーシャの話を聞いているため、あまり初対面という感じがしない。だがどう自己紹介すればいいのかよくわからなくて、空は開きかけた口もそのままに一瞬詰まった。
するとサーシャは空の目をじっと見つめて微笑み、スッと手を差し出した。
「空くん、だろ? 賢二郎から話は聞いてる。ルイのパートナーなんだってね」
「あ、はい、そうです。いつも累がお世話になっています」
「ふふ、そうだね、おせわしています。ルイ、すごく良い顔になってきたね」
「ええ本当に。サーシャさんとのアンサンブルで、なんだか色々吹っ切れたって言ってました」
「は? アンサンブルってなんやねん」
どうやら賢二郎は知らなかったようだ。ダークグレーのワイシャツに黒いスラックスという渋めの格好をしているサーシャの襟首を掴み、「なんやそれ聞いてへんで!」とガクガクと揺さぶっている。(揺さぶられているサーシャは少し嬉しそうだ)
「な、なんかもうひといき、自信なさそうだったから……っ、懐かしい曲をノリに任せて弾けたら楽しいかなって……はずみがつくかなとおもって、ちょっと……って、苦しいよ賢二郎……」
「サーシャと累クンのコラボとかそんなんめっちゃ聴きたかったやんか!! 動画ないんか動画!?」
「わ……わかんない……。早めに戻ってたオケの子が、撮ってたかも……だけど……」
「はぁ!? あんのかい!! ほな提出させるとかなんとかして僕に……」
なにやら派手に取り乱している賢二郎が新鮮で、ぽかんとしながら二人のやりとりを見守っていると……賢二郎がハッとその視線に気づいたらしい。
パッとサーシャから手を離し、「……きっと、空くんも聴きたいやろし」と物静かな声で付け加えた。
「それは俺も聴きたいです。サーシャさんのピアノ、累すごく褒めてたので」
「そう……そうか。げほっ、じゃあオケの子たちに聞いとくね」
「わぁ、ありがとうございます!」
締め上げられていた喉をさすりながら、サーシャは涙目で微笑み、すっと立ち上がった。髪や目の色が淡く、肌も白いので儚げにも見えるサーシャだが、濃色の衣服も手伝って、立ち姿にはどことなく貫禄が漂って見える。シャープな身体つきはモデルのようだ。
「俺は指揮科の子たちのイベントを覗きに行くんだ。きみたちもくる?」
「せやなぁ、もうちょいのんびり話してたい気もするけど……」
ふと、賢二郎が言葉を切る。ジャズのステージが終わり、中庭に静けさが戻りかけた矢先、今度は観客席となっている芝生のど真ん中に、黒い学生服を身につけた人々が椅子や譜面台を並べ始めたのだ。
「お、今度はゲリラライブか」
と、賢二郎が目を輝かせる。譜面台と椅子のセッティングが終わると、中央ステージの裏から、何やら白い服を着た学生たちがぞろぞろと姿を現しはじめた。気を引かれた空は、賢二郎たちとともに近づいてゆく。
アイドルが着ていそうな白い軍服調の衣装に身を包んだ男子学生たちだ。コントラバスが一人、チェロが二人、そしてヴィオラが三人、そしてヴァイオリンが三人いて……。
芝生のあたりでくつろいでいた学生や親子連れの中から、「きゃあ〜〜!」と興奮の滲む黄色い声が上がり始めた。
「えっ!? る、累……!?」
最後に登場したヴァイオリニストたちの中に、累の姿があるではないか。
金色の飾緒がきらめく白い軍服姿の累である。周りの学生たちはコスプレ感が否めないが、まわりよりもひときわ背の高い累は、どこぞの王子様かと見紛うほどの完成度だ。
深く被った軍帽も様になっているし、脚が長いので、白いロングブーツがカッコよく映えている。
空の目には、累のまわりにだけスポットライトが当たっているように見え……あまりのまばゆさに、何度も目を瞬いた。
「ぐ、軍服……。周りの学生はネタのつもりやったんやろけど、一人だけ似合いすぎて浮きまくってんな」
そう言って苦笑しつつも、賢二郎はス……っとスマホを構えた。それを見たサーシャはてっきり怒り出すのかと思ったけれど、同じようにスッ……とスマホを構え、「ほんとだね、あそこだけスポットライト当たってる感がすごいな」と楽しそうな笑顔である。
「後で画像送ったるし、空くんはじっくり彼氏の勇姿堪能しときや」
「えっ、あ、ありがとうございます……」
累は硬い表情(観客にはただのすまし顔に見えるだろう)でヴァイオリンを構え、皆とチューニングを始めた。そしてふと累が視線を持ち上げた瞬間、ばっちり目が合った。
「あっ……空! ……み、みんな来てたんだ」
「う、うん……」
観客と演者の距離が近いので、累が普通に話しかけてきた。周囲が騒然とし始めている中、空はどぎまぎしながらこくんと頷く。
「累、めちゃくちゃ似合ってる。す、すごいね、アイドルみたいで」
「……やめてくれよ。この格好、すごく恥ずかしいんだ」
と、累が頬を赤らめているうち、リーダー格らしいコントラバスの学生が低音でリズムをとり始めた。
勇ましく華やかな音楽が奏で始められる中、累はいつになく居心地悪そうに頬を赤く染めながら、滑らかに音色を奏で始めた。
演奏が始まると、ますます聴衆が周囲に詰めかけ「え、何あの人めちゃくちゃかっこいいんですけど!」「高比良累くんだよね!? 本物超カッコいい〜!!」「軍服似合いすぎてつら……」「踏まれたい……罵られたい……」などと昂った囁き声がそこここから聞こえてくる。
聴衆の熱気に戸惑いながらも、同期の仲間たちと学生らしく過ごしている累の姿を見ることができて、空はホッとしていた。
初秋の晴れ渡った高い空に、陽気な音楽が心地よく溶けてゆく。
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