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〈7〉

   賢二郎とめいいっぱい音楽祭を楽しんだあとは、いよいよ累のステージだ。  開演時間迫ったホール内には、たくさんの聴衆で溢れかえっている。  基本的に、音楽祭の公演は全て無料で鑑賞できる。だが、開場前から、ミレニアムホール前に予想以上にたくさんの人々が詰めかけたため、急遽大学側が入場制限を設けたのだった。  ブーイングも出たようだが、屋外ステージにスクリーンを設置し、コンサートをリアルタイムで配信するという方法で対策を打ったようだ。  空と賢二郎はずいぶん前からロビーで待機していたためホール内で鑑賞することができるが、遅れてやってきた彩人と壱成は屋外での鑑賞となった。彩人とメッセージをやりとりしている空の隣で、賢二郎も落ち着かない様子である。握り合わせた手を組み直したり、脚を何度も組み替えたりと、明らかにソワソワしている。 「だ、大丈夫ですか?」 「え? だ、大丈夫って何が?」 「なんか、そわそわしてるような……」 「逆に君はようそんな落ち着いてられんなぁ。スランプ抜けたいうても、こんな大ステージやし、お客さんもめっちゃ多いし、緊張して不安になってへんかなとか思わへん?」  明らかに、空以上に累を心配している賢二郎だ。心配性なお母さんを見ているような気持ちを感じつつ、空はちょっと苦笑した。 「ここ最近の累を見てたら、もうきっと大丈夫なんだろうなって」 「そ……そうなん?」 「石ケ森さんとサーシャさんのおかげですよ。今回のことは、俺たちだけじゃどうにもできなかったと思うんです」 「……空くん」 「って、俺がお礼を言うのはへんかもしれないけど……本当に、ありがとうございました」  ぺこ、と頭を下げる空の手を、賢二郎がやおらぎゅっと握りしめてきた。びっくりして顔を上げると、賢二郎は目をうるうるさせながら空を見つめているので、もう一度びっくりした。 「ほんっっっっま、ええ子やなぁ……空くんは……」 「あ……あ、ありがとうございます」 「せやな。君が見てる前で、あの天才クンが下手な演奏するわけないわな」 「へへ……はい、きっと」 「ひしひしと伝わってくる信頼感が尊いわぁ~……。累クンが離せへんわけや」 「いやぁ……あはは」  賢二郎は腕組みをしつつ深々と頷き、ようやく前方に向き直った。どうやら落ち着いたらしい。  ホール内にはすでに空席が一つもないようすだ。期待と興奮の入り混じったひそひそ声がホールの中にさざめいていた。無人のステージに観客の意識が集中し始めている様子も伝わってくる。  ふと、となりでパンフレットをパラパラとめくる賢二郎の「もっと早う帰国しとったら、僕もオーディション受けたのにな」というつぶやきが聞こえてきた。 「ソリストのほうですか?」 「いや……どっちかいうたらオケやな」 「えぇ? 石ケ森さんなら、ソリストを狙うんだとばかり……」 「まぁ……よそでオーディション受けるならソリスト狙うやろけど。せっかくなら三人で演りたいやん?」 「わぁ、それすごい! いつか聴いてみたいなぁ、めちゃくちゃ贅沢なコンサートになりますね!」  想像するだけで、あまりにも見どころいっぱいなステージだ。空が純粋な気持ちで目を輝かせるのを見て、賢二郎は唇をむずむずと妙な動きでもぞつかせ、片手で頭を抱えて「はぁ……ほんまにもう」とか細くうめいている。 「贅沢、か。……ふふふ……空くんホンマ……きみ、ホンマええ子やなぁ……。お兄さんの教育がええんやろうなぁ……ほんま可愛らしいわ」 「はぁ、ありがとうございます。いつか紹介しますね」 「えっ、いや、ええてそんなん。きみの家族からしたら誰やねんて感じやろ」 「そんなことないですよ。壱成……俺のもう一人の兄には、石ケ森さんのことでよく話聞いてもらってたし……」 「そうなん? てか、もう一人お兄さんいてはんの?」 「はい、兄は同性婚をしてるので。俺が四歳の頃から一緒に暮らしてるんです」 「へぇ、そうなんや。なるほど、きみらの恋愛にも理解があらはるわけや」  賢二郎はさほど驚く様子もなく、さもありなんといったように頷いた。 「きみらも大学出たらすぐ結婚してそうやな。累クンが待てへんやろし」 「えっ……。ど、どうだろう……」 「そういう話してへんの? もうとっくにプロポーズとかしてそうやけどな」 「プロポーズは、まぁ……何度か」 「何度か」 「あっ、でも大学入ってからはお互い忙しかったし、そういう話題は最近出てこないですよ」 「へぇ、そうなん?」  賢二郎に『結婚』の話題を振られ、空も久しぶりに思い出していた。  十五歳の頃、ドイツから帰国したその日にされたプロポーズのことや、凱旋公演のあとに受けたプロポーズのことも。  あの頃はまだ、『結婚』という言葉に現実感のかけらも感じることはなかったけれど、今はなんとなく、そういう未来が手の届くところにあるような気がしている。    きっと、ふたりで過ごす日常は毎日がとても楽しいだろう。この先、喧嘩をすることだってあるかもしれないけれど、そんな日々さえもなんだか楽しみに思えてしまう。    累がもし今回と同じように苦しむことがあったとしたら、真っ先に手を差し伸べて、苦労を共に背負いたい。  使い古された表現かもしれないが、喜びは二倍に、悲しみは半分に——累とならば、きっとそういう未来を作り上げていける。  苦しい時期を経て、今は素直にそう思えるのだった。 「ま、式には呼んでや。クラシックな結婚行進曲でも流行りのウェディングソングでも、なんでも弾いたるわ」 「あっ……ありがとうございます。って、石ケ森さんたちのほうが先だったりして」 「いや、まだ考えたことないわ。サーシャんちは色々複雑やから、そういうんはどやろなぁ」 「そうなんですか?」 「まぁ、のんびり考えるわ。その前にもっと恋人らしいこともできなあかんと思うし……」 「あっ、そういえばその後どうなりました?」  居酒屋で賢二郎がこぼしていた悩みが、流星のように空の記憶に蘇る。賢二郎は露骨に渋い顔をして、「今その話するん?」と小声で文句を言った。 「実は気になってたんですよね……どうしてるかなぁって」 「どうもこうも……別にこれといって進展はないけど……まぁ、ちゃんと気持ちは伝えてみた」 「そ、そうなんですね……!! で、で、サーシャさんのご様子は……」 「もー、ほんまこんなとこでやめてやその話。また今度機会があれば……」  ふとその時、客席の照明がゆっくりと暗転しはじめた。開演時間が訪れたのだ。  賢二郎はこれ幸いといったようすで背筋を伸ばし、椅子に座り直している。  空も軽く息を整えて、明るさを増してゆくステージに視線を移した。  黒いタキシードとイブニングドレス姿の学生選抜オーケストラのメンバーが、しずしずとステージ上に姿を現し始めた。ホール内に拍手が溢れる。  すると隣で賢二郎が拍手をしながら、「あれ? 能代おるやん。いつの間に……!?」と独り言を言っているのが聞こえてくる。どうやら知り合いが学生選抜オケに入っていたらしい。   続いて、ビシッとタキシードに身を包んだサーシャと累が、舞台袖から連れ立って現れた。  拍手がより一層大きくなり、感嘆のため息のようなさざめきがホール内を駆け巡る。    ふたりとも容姿端麗で、しかも盛装だ。あまりにも眼福としか言いようがない。  両手を広げ、にこやかに観客の拍手に応えるサーシャの表情は余裕たっぷりだ。観客からの期待という圧力に気負う様子もなく、昼間中庭で会ったときと変わらない笑顔である。  そして累の表情も、落ち着いている。  サーシャが片手を掲げてソリストを紹介するようなそぶりを見せると、累は白い歯をのぞかせて、いつにも増して華やいだ笑顔を見せた。するとどこからともなく「きゃぁ~~!」という抑えた悲鳴が聞こえてくる。 「……ええ顔してはるわ。大丈夫そうやな」  空のほうへ身体を傾け、そっと賢二郎がそう囁く。  ステージ上の累を見つめながら、その言葉に大きく頷き返すと、ふと、累の視線がこちらへ向いた。  一階席の中央付近。客席は暗転していて暗がりの中だ。スポットライトの向こう側にいる累に自分の姿が見えるはずがない——これまではそう思っていた。  だが、累は確かに空のことを見つめている。空がどこにいても、必ず累は見つけ出せてしまうのだ。  綺麗な笑顔を空に向けたあと、累はヴァイオリンを顎に挟み、静かに構えた。  そして指揮台の上にいるサーシャを見上げ、こくりと頷く。  しんと水を打ったように静まり返っていたホールの空気が、やわらかな旋律とともに色を変えはじめた。    

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