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〈1〉

「へぇ、彩人さんの店で?」 「そうなんだよ。誰かいいひといないかなあ?」  クリスマスイブを一週間後に控えたある日。空は累にとある相談を持ちかけた。    +  彩人が経営を任されている本店ではここ数年、クリスマスイブの日にお得意さんたちを招いたパーティを行っている。その席にプロのピアニストを招き、しっとりとした生演奏を聴きながらイブの夜を過ごすというものだ。もともとワイワイ大騒ぎをするような店ではないため、それはとても好評であるらしい。  だが、招く予定だったプロのピアニストが、食中毒で入院してしまったというのである。 「入院かぁ〜。一週間後に復帰ってのは無理だよねぇ」 「そうなんだよ。今から他のピアニストもあたってみるつもりだけど、この時期、けっこう皆スケジュールが詰まってるらしくて、いい返事もらえなくてさ」  朝食の席で、珍しく彩人が困り顔でため息をついている。まるで年齢を感じさせない兄の美肌を眺めながら、空はもぐもぐと食パンを頬張った。  すると、キッチンからコーヒーをふたつ持って、壱成がダイニングへ戻ってきた。 「念のため、もう一人スケジュール押さえてる人がいるって言ってなかったっけ?」 「ああ……実は、その人もノロウイルスにやられたらしくて」 「マジかよ」  彩人の隣に腰掛けた壱成が、絶望的な顔でため息をついた。そんな壱成の顔を見て、彩人が「この世の終わりみてーな顔すんなって」と笑った。 「でも困るだろ。一週間なんてあっという間だし、今から他の人見つかるのか?」 「んー、どうだろうなぁ」 「想像するだけで胃が痛い……」 「ははっ、壱成がそんな悩まなくても大丈夫だって。なんとかなるよ」 「ったくお前は気楽だなあ」  苦笑してため息をつく壱成の肩に手を置き、彩人は明るく笑って見せる。壱成を安心させたい気持ちもあるのだろうが、昔から彩人が「なんとかなる」と言うと割と本当になんとかなるので不思議である。  あいかわらず仲のいい兄たちだ。もう十五年ほど一緒に暮らしているというのに、喧嘩はおろか、ぐちを言っているところさえ空は一度も見たことがない。  時折、こうして空そっちのけでいい雰囲気を醸しはじめるところには呆れもするが、慣れっこだ。空はカフェオレの入ったマグカップを両手で持ち、兄にこう尋ねてみた。 「累に、その日行けそうな知り合いがいないか聞いてみてもらおっか?」 「えっ、マジで? 累くん、ピアニストにも知り合いいんのかな」 「んー。仲がいい人がいるとは聞いたことないけど、友達に聞けば誰か見つかるんじゃないかなあ」  自分から提案しておいて……累からあまり友人に関する話を聞いたことがないな——……と空は思った。授業とレッスンと依頼でひたすら忙しそうな累だが、大学で一緒に昼ごはんを食べる友人はいるのだろうか。若干心配になる。 「累くん、大学でちゃんと友達できたかな」  まるで心を読んだように壱成が心配そうな顔でそんなことを言うものだから、空は苦笑した。 「今、俺もそう思ってた」 「大学の話、累くんから聞かないの?」 「んー。聞くっちゃ聞くけど、友達がどうのこうのとかは、あんまり聞かないかな」 「そうなんだ……。根は優しくていい子だけど天才少年っていうイメージが強いし、とっつきにくさはあるかもしれないしなぁ」  実の母親・ニコラよりも累の交友関係を心配していそうな壱成だ。空は笑って、「大丈夫だと思うけど、今度聞いてみるよ」と言った。 「しっかし、天下の高城音大の学生さんが来てくれるなら、俺もそうとうありがたい」 と、ふたりのやりとりを眺めていた彩人が、改めてのようにそう言った。 「累くんには申し訳ないけど、聞いてみてもらっていいか? こっちはこっちで探すけど、念のため」 「うん、いいよ」 「悪い、助かる!」  ぎゅ、とテーブルの上に置いていた手を彩人に力強く握り締められる。  空はこくりと頷いて、「あんまり期待はしないでね」と言っておいた。      +  といった話が朝食の席で行われたことを累に話すと、累はやや傷ついたような顔でため息をついた。てっきり、紹介できるピアニストはいないと言われてしまうのかと思ったが……。 「大丈夫だよ、友達はいる。ヴァイオリン科では普通にみんなと話すし、昼も一緒に食べてるし」 「あ、そっち……」 「僕はそんなに友達がいないイメージがあるのか……そりゃ、小さい頃は空にばかりつきまとっていたから、そういう印象がつくのは仕方がないかもしれないけど……」 「いやいや、そんな悲しそうな顔しないでよ。ちょっと気になっただけだって。ね? ね?」  へこみながら夕飯後の食器洗いをしている累をなだめつつ、空はキッチンのカウンターに肘をついた。 「じゃあ、ひょっとしてピアニストの人に心当たりあったりする?」 「ピアノ科に頼めそうな人はいるけど、みんなこの時期はバイトが忙しいって言ってたような気が……」 「そうなの?」 「クリスマスシーズンって、演奏バイトの募集がけっこう出るんだよね」 「あ、なるほど」  なるほど、彩人の店のように、楽器の生演奏でクリスマスムードを盛り上げようということなのだろう。兄の力にはなれないかもしれないなぁ……と思いかけたところで、ピンと来た。 「サーシャさんは? 元ピアニストなんだよね」 「ああ……うーん。サーシャか」  食器の泡を流すための流水を止め、累は迷いの表情を浮かべつつ天井を見上げた。そして、小さく首を振る。 「サーシャはちょっと無理かもなぁ」 「そっか。まぁ、そうだよね。指揮者だし、大学の仕事も忙しそうだし」 「んー、クリスマスは賢二郎と過ごすんだってウキウキしてたから、忙しくはないかもだけど」  少しためらいがちな累から、サーシャの過去にまつわる話を聞いた。『ピアノを愛していない』——その言葉は、累の口から間接的に聞いたものだが、空の心をひゅうっと冷やす。 「そ、そっか。そんな過去があったんだね……」 「だからちょっと難しいかもね。でもサーシャは教師だし僕より顔が広いから、学生を紹介してもらえないかどうか聞いてみるよ」 「うん、ありがとう。助かる!」  安堵した空が笑うと、累が微笑む。そして、ふと思いついたようにこう言った。 「そういえば、もうすぐ冬休みだな。なるべく早くみんなに声かけないとな」 「ありがとう、累。……そっか、冬休み」  冬休みにクリスマス。五年前のクリスマスの日は、累の凱旋公演が催された日だった。もう五年も経ったのかと思うとびっくりしてしまう。  巨大かつ華やかな舞台でソリストを演じ上げた十五歳の累は、すごくかっこよくて、とても誇らしかったのを覚えている。  そしてその次の日、ふたりは初めて身体を繋げて——……。  当時のことをぽわぽわと思い出してぼんやりしてしまったらしい。チュッと累のキスが額に触れて、空ははっと我に返った。 「どうかした? すごくかわいい顔してる」 「えっ……? い、いや、なんでもないよ」 「ふーん?」  空のすぐそばにやってきた累は小首を傾げ、なにやらもの言いたげな笑みを浮かべている。……これはとっくに空の心を読んでいる顔だ。ちょっとエッチなことを考えているときほど、すぐに見抜かれてしまうものだから困ってしまう。自分はそんなにスケベな顔をしているのだろうかと……。  とはいえ、スランプを乗り越えた最近の累にはゆったりとした余裕があり、こうして微笑んでいるだけですこぶる色っぽい。  ドキドキするが、空がドキドキするとわかっていてやっている顔だということも分かっている。ときめかされてばかりでは気が済まないため、空は累に軽いデコピンを食らわせてやった。

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