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〈2〉……累目線
「へえ、空くんのお兄さんのお店で?」
次の日、累はサーシャにアポを取り、教務室へと出向いていった。高城音楽大学では教員ひとりひとりに防音室が与えられるのだが、特別招聘されたサーシャの部屋はその中でも特に広い。
手狭で、ごちゃごちゃとスコアや雑誌や書類が散乱した夏目の部屋とは大違いで(片付けをしない夏目も夏目なのだが)、びっくりしてしまう。
日当たりはよく、整理整頓は行き届き、窓辺にはインテリア性の高い洒落た木製デスクとロッキングチェアなどが置いてある。そこで優雅に紅茶を飲んでいるサーシャの姿が易々と想像できた。
勧められた一人掛けのソファも、使いこまれた革の艶が美しいビンテージものだ。そばに置かれている譜面台も木製で、繊細な木彫が美しい。その譜面台を眺めながら累は頷き、サーシャにことのあらましを説明した。
「なるほどねぇ……上品でいい店だな。日本のホストクラブって、なんかもっと派手なイメージがあったけどね」
と、累のスマホで彩人の店のホームページを見ながら、サーシャはほっそりとした顎を撫でた。
「サーシャは顔が広そうだから、僕より彩人さんの役に立てると思うんだけど、どうかな」
「んー……そうだねぇ。こういうお店に出ても緊張せずに演れるピアノ科の学生かぁ……そうだなぁ」
部屋の中をうろうろしていたサーシャは窓際のロッキングチェアに座り、肘置きに腕を置いてしてゆらゆらと揺れている。するとほどなくして、にんまりといい笑顔を浮かべた。
「そうだ。俺が行こうか?」
「えっ!?」
まさかの申し出に、累はぱちぱちと目を瞬く。その反応が期待通りだったのだろう、サーシャの笑みが満面に広がってゆく。
「そ、そりゃ……サーシャが来てくれるならすごくありがたいことだろうけど……。サーシャは、ピアノが好きじゃないんだろ?」
「好きじゃないわけじゃないさ。ただ、ピアニストとして、義務としてピアノを弾くことに抵抗があっただけだ」
「義務……か」
「そう。……けど、俺にも少し心境の変化があってね」
ゆったりとロッキングチェアに背中を預け、サーシャは中庭の方へ視線をやった。この季節でも、芝生の庭では今日も思い思いに学生たちが楽器を奏でていたり、飲み物を片手におしゃべりをしたりと、自由な光景が広がっている。
それを満足そうに眺めながら、サーシャはこう言った。
「音楽祭の前、ルイとセッションしたことがあったろ? 覚えてる?」
「ええ、もちろん」
あのおかげで、累はスランプから抜け出せたのだ。覚えていないはずがないし、サーシャとのアンサンブルはとても刺激的で楽しかった。プロのピアニストにも決して劣らない素晴らしい演奏に、累もずいぶんと昂らされたものだった。
「あのとき、ルイと弾いていて……俺はすごく楽しかったんだ」
「え……本当?」
「ああ。父の呪縛から逃れたくて、ピアノからはずいぶん遠ざかっていた。もちろん、指揮をする上でピアノに触れることはあったけれど、あんなにも心地よく、弾いていて心が弾む経験は初めてでね」
中庭から累へと視線を移し、冬の陽光を浴びながら微笑むサーシャの表情はとても清々しく晴れやかだった。累はドキドキと高揚し始める胸をそっと押さえる。
「じゃ、じゃあ。またピアニストとしても活動するってこと?」
「チッチッチ、ルイはずいぶんと気が早いね。プロとしてやっていくかどうかは……うーん、あまりそのつもりはないけど、今はただ純粋に、自分で音楽を奏でてみたいと思っているよ」
「サーシャ……」
あの日の素晴らしい演奏が自分との共演で生まれたものだとしたら純粋に嬉しいし、それがきっかけで再びピアノに触れたいと思ってもらえたことも、累にとっては何ものにも変えがたい喜びだ。
「それに、ルイのパートナーの家族が困っているなら、手を貸したいと思ってね」
「うん、うん……! ありがとう、助か、」
「ただし条件がある」
「え。条件?」
ぴし、と人差し指を立てて、サーシャはにっこり微笑んだ。
「俺と一緒にルイも弾くこと」
「僕も?」
「君も、イブは仕事を入れないって言ってたろ。スケジュール的には問題ないはずだ」
「そりゃ、まぁ……。でもヴァイオリニストは必要なのかな」
「まぁまぁ、一曲くらいいいじゃないか。聞いてみてよ。ね?」
「はぁ……確認はしますけど」
ずいぶんと自由気ままなことを言うサーシャである。累は腕組みをして考えた。
クラブなどで求められている演奏は、お客とスタッフの会話を妨げないもの。あくまでもBGMとしての機能を求められることが多い。リサイタルではないのだから、あくまでも主役はホストクラブに訪れたお客なのだ。そこへ、そこそこ音量のあるヴァイオリンが入っていくと、さすがに接客の邪魔ではないだろうか……。
「とりあえず、空に聞いてみます」
「オッケー。日本のホストクラブかぁ、ドキドキするなぁ。ルイは行ったことある?」
「行ったことはないけど、ホストをしてる空のお兄さんはすごくカッコいいよ」
「へぇ〜そうなの。確か同性婚してるんだよね? いいなぁ」
そう言って、サーシャは夢見る乙女のような目つきをして青空を眺めている。家庭はかなり複雑だったようだが、サーシャも結婚には憧れがあるのだろうか。
「石ケ森さんとそうなりたいってこと?」
「んー。これまであまり考えたことなかったけど、賢二郎となら……ってね」
「へぇ、うまくいってるんですね」
「ふふ、おかげさまで」
小さく肩をすくめ、サーシャは頬を薔薇色に染めながら幸せそうに笑っている。このままここにいると盛大に惚気を聞かされそうな気がして、累はゆっくりと立ち上がった。
双方をよく知る相手のノロケ話は、なんだか居心地が悪いのだ。
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