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〈3〉

 そしてクリスマスイブ当日。  空は賢二郎とともに、兄の経営するホストクラブ『sanctum』を訪れていた。  累がセットであればサーシャがピアノ演奏を引き受けると言っている——という旨のメールが累から届き、空はすぐに兄に確認を取ってみた。すると彩人はすぐに二つ返事でOKを出したのだった。  実は、彩人は累にも正式に依頼を出してみようかと考えていたこともあったらしい。だが、今をときめくヴァイオリニストでとても多忙な累を、クリスマスイブまで働かせるのはいかがなものかと思いとどまったという。空と累の時間を邪魔したくない、という気持ちもあったとかなかったとか。  その後、直接累とサーシャに彩人から連絡をして、空の預かり知らぬところで物事は順調に運び——……そして、今日のクリスマスイブを迎えている。 「うわ……綺麗な店やなぁ。高級レストランみたいや」  そして、今日は空と賢二郎も『sanctum』に招かれることとなった。空に夜の仕事に関心を抱かせたくない兄の意志もあって、こうして彩人の職場訪れるのは初めてだ。  まず目に飛び込んできたのは、店内の前方に鎮座した飴色のグランドピアノだった。グランドピアノといえばかなりの大きさだが、優しい色味もあって全く圧迫感を感じさせない。空が想像していたよりもずっと店内は広々としている上、大騒ぎをしている客はひと組もいない。賢二郎の言う通り、高級レストランのような雰囲気だなと空は思った。 「お客さんらめっちゃ金持ちそうやな……。え、僕らほんまにお金いらんの? 大丈夫?」  そう言って、やや不安げな目つきで空を見つめる賢二郎は、かっちりとしたジャケット姿である。『サーシャに誘われたし僕も行くわ』と連絡が来たため、今日は最寄駅で待ち合わせて店までやってきたのだった。 「大丈夫ですよ。一応兄の店なので」 「そ、そか。しっかしすごいなぁ……こういう店が何店舗もあんねやろ? ノリだけじゃやっていかれへんやろし、スタッフの教育も大変やろなぁ」 「はい、そうみたいで……。最近はどっちの兄も『最近の若者わかんねー』って言ってます」 「へぇ、そうなんや」  執事然とした黒服スタッフに導かれて着席した席は、グランドピアノのすぐ間近だった。彩人から『一番いい席じゃなくてごめんな』と前もって謝られてしまったが、クラブの常連客を優先するのは当然だと思うし、演奏者であるサーシャと累をすぐそばで見守ることができるため、空たちにとっては良席だ。  それに、人前で演者としてピアノを弾くサーシャの姿を、賢二郎は誰よりも間近で見たいはずだ。現に今、賢二郎はそわそわと落ち着かない様子でおしぼりを手元でねじっている。空は苦笑して、ドリンクのリストをそっと賢二郎に見せつつ、話しかけてみた。 「石ケ森さん、今日すっごくかっこいいですね。舞台に立つ人みたい」 「え? ほんま? ホストクラブとか初めてやし、そうとう綺麗な店やってサーシャから聞いとったから、一応な」 「雰囲気すごく合ってますよ。ヴァイオリン持ってたらそのままステージ上がれますね」  そう言ってにっこり笑うと、賢二郎はじ……と物言いたげに空を見つめる。なにかおかしいところがあるのだろうか。  空も今日ばかりはきれいめを意識した服装にしてきたものの、服に着られている感が自分でも否めない。淡い色のタートルネックの上に細身のジャケットを羽織り、慣れたジーパンではなくスラックスを穿いている。靴も当然革靴なのも落ち着かないのだが……。 「んー。なんや空くんに接客されとる気分やなぁ」 「えっ!? そ、そうですか?」 「そのカッコやったら、普通にこの店で働いてても違和感ないで。バイトせぇへんの?」 「兄に禁止されてるので……」 「そうなんや、もったいない。こんな可愛い子にお酒勧められたら、そら飲まへんわけにいかへんな」 「いや、別に勧めてはないです。あんま酔っ払われると困るし……」  空が引っ込めかけたリストを手に取って、賢二郎は「うわー値段書いてへんやん。こっわ……」とのけぞっている。 「酔っ払いすぎたらダメですよ? 累からもあんまり飲ませるなって言われてるんで」 「はぁ〜? なんで累クンにそんなんいわれなあかんねん。せっかくただでこんなええ酒飲めるってのに」 「タダですけど、すぐ寝ちゃうじゃないですか石ケ森さん」 「寝ぇへん寝ぇへん。大丈夫大丈夫」  緊張を酒の力でなんとかしようとしている様子がありありと見て取れる。どうやって賢二郎から酒を取り上げればいいのだろうかと途方に暮れているところへ、普段よりパリッとしたスーツ姿の壱成が現れた。 「空くん、もう来てたんだ。……あっ、そちらは」 「壱成〜! ナイスタイミング!」  すっと隣に座った壱成が、賢二郎をまじまじと見つめている。空が賢二郎に対してさまざまな感情を抱いていたことを誰よりもよく知るため、興味がないわけがないようすだ。  そして賢二郎も、突然現れた壱成に驚いている。空は慌てて二人の視線の間に割って入った。 「石ケ森さん! こちら、俺のもう一人の兄の壱成です。で、壱成、こちらが例の石ケ森賢二郎さん」 「ああ、やっぱり! はじめまして、空くんがいつもお世話になっております」 「あっ、いえいえ。こちらこそ」  いつものくせなのか、壱成は流れるような動きで内ポケットから名刺を取り出し、賢二郎に差し出した。そして賢二郎も同じようにすちゃっと名刺入れから名刺を取り出し、なにやらスムーズに名刺交換をしているので驚いてしまう。 「ずっとお会いしたいと思ってたんですよ。さすがですね、やっぱりオーラが違います」 「そうですか? ヴァイオリン弾けるだけのただの若者ですよ」 「そんなご謙遜を。留学先で大きな賞を取られたんですよね。空くんから聞いています、おめでとうございます」 「ありがとうございます」  社会人らしい会話に挟まれつつ、空はゆっくりとふたりの顔を見比べた。素顔をよく知る相手が普段よりもコミュ力高めの会話を交わしている姿が物珍しくてたまらない。いったいここで自分はどんな口調で喋ればいいのかわからなくなってしまう。 「えーと……まぁ、とりあえず。乾杯でもしよ……しましょうか」  というわけで、賢二郎に飲ませまいとしていた酒の力を借りることになった。     + 「そうそうあの京都の公演〜! あれすっごいよかったよね、感動した! 留学するちょっと前だよね?」 「えー見てくれはったんですか? 今年も久々にやるんで、お兄さんたちもぜひ京都へお越しやす」 「おお、本物の京都弁! 雅だな〜」  ——酒の力に頼りすぎたかもしれない……。  ほろ酔いで上機嫌な二人の間に挟まった空は虚無である。「まあおひとつ」「あ、おおきにすんません」などと盃を交わし始めた壱成と賢二郎は、あっという間にこの調子だ。壱成から接待めいた雰囲気を感じないでもないが、最初の緊張感は薄らいでいるので空としても気が楽である。 「壱成、飲みすぎたらダメだよ。石ケ森さんも!」 「うんうん、わかってるわかってる。いや〜ほんま空くんええ子ですよねぇ。めっちゃ相談乗ってくれるし、かわいいし」 「わっ」  そう言って、賢二郎が空の髪をわしゃわしゃしてくる。抵抗しても無駄そうなのでされるがままになりながらジンジャエールを飲んでいると、隣で壱成がかすかに涙ぐみながらうんうんと深く頷き始めた。 「そうなんだよ、ほんっといい子なんだよ空くんは。もう二十歳だってのにこんなに可愛くてさ〜俺ほんと幸せで」 「うんうん、そうやと思いますわ〜」 「ちっちゃい頃もすっごくかわいくてさ〜。累くんもちっちゃい頃から可愛かったけど、俺けっこう嫌われてたんだよね、あはは〜」 「えっ!? ほんまですか!?」 「そうそう、保育園から空くん連れて帰っちゃう悪者だったからね〜俺。無理もない無理もない、あははっ」 「せやんなぁ……そんな昔からこの子らのこと知ってはるんですよね、壱成さんパッと見ぃ全然若いから、なんやそんなふうに思われへんけど、そうやんなぁ……ちっちゃい頃から知ってんねんもんなぁ……」 「へへへ、ちょっとだけだけど空くんのトイレトレーニングも俺が……」 「うわーーーーーーー!!!!! 壱成!! そういうこと言わなくていいから!!!」  話があらぬ方向へひん曲がり始め、空は大慌てでその話題を遮った。だが案の定、賢二郎は食い気味に「ええっ!? なんそれめっちゃ聞きたい!」と前のめりだ。空はテーブルの上にあったチェイサーをパッと取ってサッと賢二郎に押し付けた。 「はいはいはい! そろそろサーシャさん出番ですよ!! ほら、しゃんとして!」 「出番……あ、ああ、せやった。僕、飲みに来たんちゃうかった……」 「そうですよ! もう、壱成も!」 「あ、ごめんごめん……楽しくてつい」  へらりと笑った壱成もごくごく水を飲み、落ち着こうとしているようだ。幼い頃のトイレ事情なんて恥ずかしすぎる。空は変な汗をそっと拭って、ため息をついた。と、そこへ……。 「いらっしゃいませ。ようこそ『sanctum』へ」  光沢のあるブラックスーツに身を包んだ彩人が、空たちの席へとやってきた。空と壱成にいたずらっぽい笑みを浮かべて見せたあと、彩人は優雅な仕草で賢二郎の前に跪く。 「石ケ森さん、はじめまして。空の兄の早瀬彩人と申します。空がいつもお世話になっております」 「へっ、あっ、いや、僕のほうこそいつもお世話になって……」 「大切なクリスマス休暇にパートナーのサーシャさんをお借りしてしまい、大変申し訳ございませんでした。本当に助かりました。ありがとうございます」  突然現れた彩人にびっくりしている様子の賢二郎に、よそいきの甘い低音ボイスでそう述べたあと、彩人は少し申し訳なさそうに微笑んだ。  ラグジュアリーな店内の仄暗い照明に映えるスーツの光沢、きらりとひそやかにきらめく耳たぶのピアス、袖口からさりげなくのぞいている高級感しかない腕時計、そしてお客に向けるひたむきな視線……初めて目の当たりにするホストモードの兄の姿だ。  感心するやら小っ恥ずかしいやらで妙な居心地の悪さを感じるものの、なんだか胸の奥がくすぐったい。  ひたと賢二郎を見つめて賢二郎の演奏に賛辞を述べたり、サーシャのリハーサルがいかに和やかで楽しかったかということを語る彩人の横顔は、なんだかとても幸せそうだ。真摯な眼差しを見ていれば、お客を大切に思っている彩人の気持ちがよくわかる。  兄がホストという夜職についていることで、つまらないからかいを受けたことがないわけではなかった。だけど、彩人の真剣な仕事ぶりを壱成から伝え聞いたり、空の相手をしつつも学びを欠かさない彩人の姿を間近で見てきていたからこそ、何を言われても平気だった。  ——……兄ちゃん。  この年齢で兄の働く姿を見ることができてよかった。胸がスッとするようなこの感覚は、間違いなく誇らしさだろう。賢二郎との話を終えた彩人が、今度は壱成と空の方へ視線を向ける。そして、ちょっと意外そうな顔で微笑んだ。……どうやら、無意識のうちに笑みが浮かんでいたらしい。 「どした、空。兄ちゃんがカッコ良すぎてびっくりしてるって顔だな」 「はっ、はぁ!? んなわけないじゃん。本当にホストなんだなぁって思っただけだし」 「ははっ、またまた。完全に尊敬の眼差しだったね。なぁ、壱成」 「うんうん……わかるよ空くん。店にいるときの彩人、かっこいいよな」 「壱成まで……」  そう言う壱成はまた涙目である。全く涙もろいんだからなぁ……と思いつつも、ふたりの言う通りなので言い返す言葉がない。空が照れ隠しにジンジャエールを飲み干していると、隣で兄たちが「へへ、なんか久しぶりに壱成にかっこいいって言われた気がする」「う、うるさい。店来るの久しぶりだからだよ!」とイチャイチャしている。賢二郎の目もあるのだ。空はごほごほと咳払いをしておいた。 「……では、もうすぐ生演奏が始まりますので、どうぞごゆっくりお寛ぎください」  気を取り直したように、彩人は胸に手を当てて深々と一礼した。そして、スマートな歩調で店内を回り、お客たちと挨拶を交わしているようだ。空は首を伸ばし、兄が行く先々で華やかな笑顔を振りまく様子を眺めていた。結構男性客も多いようで、「おおアヤトくん、久しいね!」という野太い声も聞こえてくる。 「……空くんのお兄さん……アレやな……めちゃめちゃカッコええな……」  ぽわ〜んとした賢二郎の声が聞こえてくる。表情までぽわぽわしている賢二郎を見て、空は苦笑した。 「ありがとうございます」 「あれはあかん。あかんわ……すごいわ……あかんあかん……めっちゃくちゃモテてモテてモテまくって心配になりません?」  なにがどう『あかん』のか空にはわからないけれど、尋ねられた壱成は普段と変わらぬ穏やかな笑みだ。 「若い頃は多少心配になることもあったけど、全然大丈夫だよ」 「そうなんすね……すごい……さすがや」 「そういう君のパートナーも、すごくかっこいいって空くんから聞いてるよ」 「え? ああ……いや……あはは……」  自分の話題になると、急に口が重たくなる賢二郎である。……そういえば、サーシャとのあれこれはどうなったのだろう。気になって仕方がないけれど、このタイミングで訊くのははばかられる。  ——夏から結構時間経ってるし……どうなのかなあ……でも、こういうことを根掘り葉掘りきくのもダメだし……。  グラスを両手に包み込んでソワソワしていると、フッ……と店内の照明が一段階暗くなった。すると、淡い黄金色の照明に照らされていたグランドピアノが際立って明るく浮かび上がって見える。  しばしの静寂のあと、ヴァイオリンを片手にした累とサーシャが颯爽とした足取りでステージの上に現れた。  舞台上に出てきたふたりはどちらも西洋風の容姿をした美形とあって、店内がにわかにざわめく。前もって演者の写真やプロフィールを明らかにしていなかったためか、累を見て「高比良累くんじゃない!?」という興奮の滲む抑えた声がそこここから聞こえてくる。クラシックを好むお客も多く訪れているようだ。  サーシャはブラックシャツに同色のネクタイを締め、ノージャケットだ。緩やかな癖のあるプラチナブロンドと、ダイヤをあしらっているらしいタイピンが、ライトを受けてキラキラと輝いている。装飾品といえばそれだけなのだが、色素の薄さもあって、サーシャはそこにいるだけでとても存在感があった。  そして累のほうは、襟の高いホワイトシャツに仕立てのいい黒いベストを身につけている。三揃いのスーツのジャケットを脱いでいるといった格好だ。スラリと長い脚に綺麗に沿う形のスラックスに、磨かれた革靴。そして、馴染んだ飴色のヴァイオリン。  累はちらりと空を見て、珍しくにっこり笑って見せた。サーシャと舞台に立つからだろうか、いつになくリラックスした様子である。  まずはあいさつの一曲だ。そろって一礼をし、ピアノ椅子に腰掛けたサーシャと累はチューニングを行う。  そして、軽やかに紡ぎ出されるクリスマスソング。  光の粒が弾けるようなピアノの音色と、なめらかでありながら華やいだメロディを奏でるヴァイオリンの掛け合いが、『sanctum』の空気をキラキラと華やかに彩ってゆく。  コンサートホールでの力強い演奏とは趣が違って、累はあまり大きな音を出していないように聞こえる。だが、いつもと変わらぬ澄んだ音色はやはりとても心地が良くて、気付けばうっとりと累の音色に聞き惚れていた。  サーシャとアイコンタクトを取りながら笑顔でクリスマスメドレーを奏で、客席の方にも視線を巡らせる。累と目が合った合わないで「きゃ〜〜」とかすかな悲鳴がそこここから響いてくるのはお約束だ。いつもより聴衆との距離が近いこともあって、お客の反応がダイレクトに見て取れるのだろう。いつになく、累の笑顔が多い。  そして、サーシャの輝くような音色にも驚かされる。長い指が鍵盤の上を撫でるように走るたび、豊かなメロディが紡ぎ出される。ときに跳躍し、ときに交差する腕の動きはしなやかで、ものすごくかっこいい。  ピアノを愛していないなんて信じられない。だってそれくらい、サーシャの笑顔は朗らかだ。  空はふと、隣にいる賢二郎を窺ってみる。  さっきまでほろ酔いだったようすの賢二郎だが、今は両手を膝の上で固く組み、まっすぐグランドピアノのほうを見据えて微動だにしない。緊張しているのかと思ったけれど、賢二郎の涼やかな瞳は、しっとりと艶を帯びて輝いている。  緊張感と共にわくわくした高揚感が賢二郎の瞳には溢れ——……その横顔は、とても綺麗だった。

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