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現在から200年か300年ほど前の時代だったか。 当時の我が国は数多の大規模な震災や天災に見舞われ、それはひどい状態にあった。建物は崩壊し、人々は苦しみ、高度に発達した文明もそれを扱える状況になければ救済措置さえままならない。天災という自然が為すわざわいに、私たちは無力にも等しかった。 もはやどうすることも出来ずただただ苦しんでいた人々は、ある日藁にもすがる思いで廃れていた祠や神社・寺社を整えてみたらしい。するとどうだ、相次いでいた天災がぴたりと止んだ。これにより復興を遂げた我が国は、今までの災いはすべて自分たちが神を蔑ろにし、科学技術に頼りきった生活を送っていたから起こったことではないかと考えた。そうして国民は神への信仰心を取り戻し始めた。 それからというもの、この国が纏う気は清浄なものへと生まれ変わり、土地は神々が住みやすいものへと変貌を遂げる。代を重ねるごとに神を視ることが出来る人間も増え、清らかな気を持つ者は神に好かれ、異種同士で子を成すことも珍しいことではなくなってきた。そして今ではヒトと神、そのハーフが共存していることが当たり前になっている――これはそんな我が国を舞台としたお話。 ──夕焼けもとうに沈んで月明かりが差してくる頃、人間たちが寝静まる夜がやってきた。それはこの学園も例に漏れず、昼間とはうってかわって喧騒は鳴りを潜めている。そんな中、革靴の音を響かせてひとつの影が門の前に降り立った。 「あーあ…すっかり日も暮れちゃったなぁ」 一つに束ねられた髪は闇に溶け込むほど黒く、それに反してぼうっと浮かび上がる深紅の瞳。加えてすらりと伸びた肢体、と文句なしの要素を持ち合わせる彼の顔立ちは、期待を裏切るかのように凡庸だ。優しげな印象を与える、とでも言えば聞こえはいいだろうか。 彼の名はジュリアーニ・李遠(りおん)と言う。 李遠は我が国の特色の象徴とも言える、ヴァンパイアの父親と人間の母親から生まれたハーフの子だ。由緒正しきヴァンパイアの一族であるジュリアーニ家。李遠はそんな実家に拘束され、しばらく学園を休んでいた。原因は後継者争いや家族との確執、などという後ろ暗いものなどではない。 「まったく、父さんも困ったものだよね…親馬鹿も大概にしてもらわなきゃ。学園に戻ってくるのがここまで遅くなるとは思わなかったよ」 そう、ただ単に彼の父親が息子と離れたくないがために李遠を家に留まらせていたのである。 事の発端は「父上が危篤ゆえ、直ちに帰られたし」という一つの電報だった。李遠は急いで実家へと帰ってきたのだが、出迎えたのは床に臥せているもののピンピンしている父親。 話を聞けば、出先で命を狙われた際にうっかり銀に触れてしまったとのこと。重傷どころかかすり傷程度の軽傷に呆れた李遠は、最初は学園にとんぼ返りしようとした。しかし父親が学園から長期外出の許可をもぎ取っていたため、あれよあれよと言う間に父親の相手をさせられることになったのだ。 最初は「お言葉に甘えてたまには家族団らんのひとときを過ごそうかな」と思った李遠も、それが二週間、三週間、もう一月を過ぎようかという頃にまでくると、さすがに学園への申し訳なさと学生としての本分が気になるようになってきた。そうして、駄々をこねる父親をこの時間まで説得して学園へと戻ってきたわけである。 両親の種族によって夜型の体質になる生徒もいることから、学生寮の玄関は常に開錠されている。帰宅の旨を学園へと伝えるのは明日にすることに決めて、李遠は寮への道を歩き始めた。 石畳の一本道をしばらく進んでいたら、視線の先に黒い影を見つけた。あれは何だろうと近寄ってみて李遠は驚く。黒い影は横たわる人間だった。 「どうしてこんなところに…」 慌てて抱き起こしてみたが、数多の種族が入り乱れるこの学園には道端でうっかり寝こけてしまうようなおかしな子はわりと存在する。 「きみ、大丈夫かい?」 顔をのぞくと彼が随分と美しい容貌をしていることが分かった。自分の黒髪とは反対に、闇へと浮かび上がるような白い髪。色素の薄いまつ毛に覆われ、今は閉じられて見えない瞳はどんな色をしているのだろうか。しかし、李遠が彼を美しいと思ったのはなにも容姿だけが理由ではない。 抱き起こした瞬間、いや、それよりももっと前から伝わってきていた。横たわる彼は、おそろしく清廉な気を纏っていた。 どれほどの神に愛されればこれほど澄みきった気を纏うことが出来るのだろうか。いや、むしろこれだけの気をもつ子がよく今まで誰からの唾も付けられなかったものだと感心すらしてしまう。 「これは、あぶないかも…」 ひどく喉が渇いてくる。清浄な気の持ち主は、その体に流れる体液すべてが美味だと聞く。ということは、この子にもさぞや甘美な血が流れていることだろう。 ハーフと言えど李遠もヴァンパイアの血を受け継ぐ者、定期的に血液を欲する時期がやってくる。それでなくとも今日は父親を説得するのに骨が折れて、疲労困憊の身なのである。喉が渇かないわけがなかった。 (初対面の子の血をいただくだなんてどう考えても非常識だよね…でもすごく美味しそう…。喉もカラカラだし……ちょっとだけ、なら、いいかな) 罪悪感より欲が勝ってしまい、李遠は腕に収まる少年の手をとる。首筋から吸わないのはせめてもの償いの表れだ。男にしては滑らかな触り心地に、指先まで美しいのだなとここでも感心してしまう。 「ごめんなさい、ちょっとだけ…いただきます」 大人しそうな李遠の顔立ちに反した鋭利な牙が、開いた口から姿を現した。ぷつりっ、という音と共に少年の指先の肉を裂いて、そこから滴る血を口に含んだ李遠はその味に思わず。 「まっっっっず!?」 …思わず、その血を吐き出した。 「っ?…???」 その身に起きたことが理解できず、李遠の頭が「?」で埋め尽くされる。 (こんなに美しい子の血が不味いわけがない。でもいま口にしたものはものすごく味が薄いし何だかドロッとしててとても飲めたものじゃなかった…) 「ぅ、思い出しただけでも気分が…」 口元に手を当てて顔を青くした李遠はまじまじと腕の中の少年を見つめて、そこでやっと原因に気がついた。 (この子、すごく顔色が悪いじゃないか!) その青白さは今の李遠の比ではない。普段は夜目のきく李遠だが、自身が疲労していたこともあって彼の容態に気づくのが遅れてしまった。 (この子はこんなに弱っているのに、それに追い打ちをかけるように血を抜いてしまっただなんて) だが、反省はいつでもできる。まずはこの子を安静にできる場所まで運ばなければ。 急いで少年を腕に抱え、二人は闇に溶け込んでいった。

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