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エピローグ (6/6)
二人分の乱れた呼吸と耳の奥で轟く心臓の音でしばらく何も聞こえなかった。時折まだ痙攣を起こす身体には少しも力が入らず、エルベルトにされるがままに横にされ、まだ深く繋がったまま後ろから抱えられる。
「大丈夫か?」
先に呼吸を落ち着かせたエルベルトが優しい手付きでルカの濡れた目元を拭って尋ねる。
まだ満足に話せる気がせず、ルカはただ頷き、大きな手に自分のを添えて、手のひらに軽く唇を押し当てた。
身体は疲れ果てているのに、心はどこまでも軽い。凪いでいく快楽の余韻に浸り、エルベルトの温もりに包まれ、満ちあふれた幸福感が身体中に広がる。
まだ熱を持っているうなじをエルベルトがそっと舐めると少しひりつく痛みを感じ、この男の番になれた喜びに自然と唇が綻んだ。
鼓動も落ち着いてくると、開け放ったままのベランダから波の音が聞こえてくる。共に運ばれてくるそよ風が汗ばんだ身体を撫で、その心地よさに深く息を吐いた。
「海の匂いがどんなものか、聞いたことあるか?」
「海の、匂い?」
おもむろにそんなことを口にしたエルベルトを怪訝に思い、首を動かして振り返った。窓の外を眺めていた視線がルカに向けられる。
「磯や潮と言った、少し塩辛い、汗にも似た匂いだ」
「……なんで、それを? 言われても、俺には……」
辛うじて感じることができるのはエルベルトの匂いと味だけだ。それも、ただほのかな甘みとして。
「昔聞いた話なんだが、指先の感覚を失くした職人がいたそうだ。だがその男は色んなものに触れ続け、その感触を想像して思い出そうとした。諦めずにそうしているうちに、少しだけ感覚が分かるようになって、長い間かけて回復したらしい」
ルカは目を大きくして話に聞き入った。
「それって……」
失くした感覚を取り戻せる可能性があるということか。
興奮が治まり、エルベルトは自身を引き抜くと、向き合うようにルカの身体を抱き直した。
「ああ。お前も、ものの匂いや味を意識していれば、いつかまた分かるようになるかもしれない」
ルカに嗅覚がないと疑いながらも、茶にこだわり、季節の食べ物を出し、度々その味を言葉にしていた。それはこのためだったのか。
込み上げてくる熱いものが胸をいっぱいにする。
それは、あまりに久しく感じる希望だった。
いつか、エルベルトと飲む茶が美味いと思える日がくるかもしれない。眺めることしかできなかった景色が香りに彩られ、もう一度、匂いの溢れ返る世界の中に戻ることができるかもしれない。
ずっと諦めていたことだった。
それをエルベルトは希望の光で照らしてくれた。
この男は、気付いているのだろうか。
ルカにとっての太陽はだた一人。
愛する男の背中に腕を回し、その首筋に顔を寄せて大きく息を吸った。
「なぁ、エルベルト。太陽の匂いってどんなんだと思う?」
「太陽?」
不思議そうに見てくる男にルカはなんの翳 りもない、晴れ晴れとした笑みを向けた。
もし太陽に匂いがあるとすれば、それはきっとほんの少しだけ甘くて、優しく包み込んでくれる――世界でルカにしか分からない、エルベルトの匂いと同じはずだ。
完
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