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第1話

 その夜は、何時になく静かだった。日頃は冷めきらぬ地の内より沸き出るごとくに虫の音の鳴り止まぬ庭が、あり得ぬほどに、しん.....'と静まっていた。  詠心は、ふと両の眼を開き、庭先に視線を投げた。気配があった。  しん.....と静まったその空間に誰かがいる.....その気配だけがあった。  隣で寝息をたてる輝信を起こさぬように、そろりと床を抜け出し、庭に続く障子を細く開けた。  月明かりに照らされた夏椿の幹の影に半ば隠れるように、その姿はあった。 「もし.....どちらさまですか?」  詠心は部屋の中の主を起こさぬよう、出来るだけ声をおさえ、ひそ.....と語りかけた。 ー名乗るほどのものではない.....ー  紅い唇が微かに微笑み、透き通る風のような声音が耳に触れた。艶やかな黒髪に白い肌....この世のものとは思えないような美貌...と思ったところで、詠心は気づいた。 ーような...ではない。この世の存在ではないのだ、この人は.....ー  だが、不思議と恐ろしさも忌まわしさも感じない。淡然とそこに佇むすらりとした背中の傍らに、ふと寄り添うもうひとつの影が見えた。 ー白勢....頼隆さま?!ー  思わず詠心の唇から漏れた呟きに、紅い唇が小さく笑って、そして......消えた。 「どうした、こんな夜半に?風邪をひくぞ。お前は身体が弱いんだから、気をつけねば...」  聞き慣れた深みのある低い声。ほっとして振り向く詠心の細い背に大きな手がふわりと小袖を掛け、抱きしめた。 「いいえ何も......。月が見たくなったので......」  詠心は言って、その節だった男の手に頬を寄せた。温かく頼もしい、詠心そのものを包み込むかのような熱っぽさに深い安堵を取り戻しながら、詠心の心の奥がちくりと痛んだ。 ー何故、今ごろ......ー  今一度、視線を走らせた先にあったのは、月明かりに浮き上がる夏椿のひとひらの白い花......だけだった。

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