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第44話
黒瀬の車は恵比寿まで行くと、そこで下された。後部座席の悠はまだ気持ち良さそうに寝息を立てて寝ていた。
「また連絡するよ」
黒瀬はウィンドウから顔を覗かせると、優しく微笑んだ。
「うん、待ってる。今日はありがとう。」
そう言って、ドアを閉めると車はあっという間に走っていき、街の喧騒に小さく消えていった。程好く疲れた身体は気持ち良く、まだ海の潮の匂いが染み付いてそうだった。
黒木との待ち合わせ場所はスペイン料理で植物が色鮮やかに飾られ、とても雰囲気の良い店だった。黒木は早く仕事が終わったのか、先に席に座って待っていた。とりあえずお互いの近況や仕事の状況を話し合いながらボトルワインを注文し、パエリアをつまんで食べてた。
「ボストンは行かれました?先輩、首を長く待っていたと思いますよ。」
黒木の悪気がない笑顔に苦い記憶が蘇り、ずきんと胸が痛んだ。
なんと伝えたら良いか迷う。
「…………………元気そうだったよ。」
歯切れ悪く伝え、白ワインを飲み込む。
ガヤガヤと繁盛してる狭い店内で最後の蒼を思い出すだけで辛くなった。
首を振って、別れたくないと薄緑色の瞳を潤ませる最後の顔は印象的で目に焼き付いているようだった。
あの時、蒼を許せば良かったのだろうか……。
黒瀬の時の様に何も気にしないと我慢して微笑みかけ、全て水に流せば、また付き合い直せたんじゃないかと何度も振り返る。
「同期の朝倉先生もボストンに行って、先輩と会ってるみたいだし、ちゃんと先輩に釘刺さないと駄目ですよ。あの二人は馬が合うのか、普段から仲が良いから。」
黒木は困った様に、皿にパエリアを盛り美味しそうに食べた。
その様子はまだ蒼と自分が終わったことは知らなそうだった。
「……別にもう良いんだ。」
対照的に、自分は力なく笑うしか無かった。
蒼はもう手の届かない所にいる、そもそも最初から身分相応で自分とは違うとよく分かっていた。
初めて会った時から一目で恋に落ちていたかもしれない。再会して、どこまでも優しい蒼に溺れるのが怖く、黒瀬の時になる自分が怖く、全てを受け入れるのを拒んでいたのが馬鹿だった。
余計な事を考えずに蒼を受け止めてれば良かった。
騙されて捨てられてもいいから、蒼をもっと愛してあげれば良かったのかもしれない。
本当に自分は馬鹿だった。
「皐月さん?」
黒木は困ったような顔で首を傾げ、何か思いついたように携帯を取り出し、何処かへ電話をかけた。
「………黒木くん?」
ぼうっとその様子を眺めながら、白ワインをまた飲んだ。嫌な予感がした。
まだ今日はお互いボトルの半分しか飲んでいない。そんなに酔っていない。誰か呼ぶのだろうか………。
「…………………………………あ、先輩?起きてます?」
全身から血の気が引きそうになった。
まさかと思うが、電話の先にいる相手の顔がやすやすと想像できた。
鼓動が急に高まり、心臓が跳ね打ち付けるようにどくどくと聞こえる。
蒼の着信とメールは全て無視していた。
「はい、皐月さん」
ニコニコと黒木の携帯を耳に押しつけられて、あからさまに拒否する事も出来ずに耳を傾けた。
『………………………皐月?』
その聞き覚えのある声は何週間ぶりだったのろう。
低く甘い懐かしい声を聞くと、急に胸が締め付けられた。
ガヤガヤと煩い店内とは対照的に向こうは静かだ。
「あ……。」
「…………皐月さん、ちょっとお手洗いに行きますね」
肘をつんつんと黒木は気を利かせたのか、その場を離れた。
余計な事に対してすごく気が利くなと少し恨みそうになった。
『黒木くんと飲んでる?』
「うん…」
『羨ましいな。…………こっちは朝だよ』
甘く蕩けそうな吐息が聞こえそうだった。
言葉を紡ぐように、優しく、そして、たどたどしく蒼が話しかけてくる。
「そっか……。」
『………元気?』
「うん、元気だよ。」
『風邪引いてない?』
「…引いてないよ」
自分は蒼の言葉に短く返す。
蒼の言葉が止まり、グラスがぶつかる音や騒々しい店内の会話が耳に響く。
「……………………………。」
何も言えず、言葉が浮かばないまま携帯を耳に押し当てて目の前の食べかけのパエリアを眺めていた。
『…………………皐月、逢いたい。』
掻き消されるようにその言葉が頭に響き、泣きそうになった。
会えるわけでもないのに、なぜそんな事を言うんだろう。
全て終わったはずなのに、ずるい。
「……蒼、恋人を作りなよ」
諦めたように笑い、丁度戻ってきた黒木に携帯を返すと、急いで財布から万札を取り出してパエリアの大きな鍋の横にそっと置いた。
「黒木くん、ごめん。…………これで会計お願い」
「…え?あ…皐月さん…ちょっと!?」
張り付いた笑顔が乾いたまま、驚く黒木を置いて逃げるように店を出た。
外はまだ蒸していて、暑く冷えた肌はすぐに汗ばんだ。
楽しそうに話すカップルを避けながら、駅へ足を進める。
逢いたい。
その言葉に押し込めた気持ちが沸き出そうだった。
もうボストンには行けない。
チケットも全て使い果たした。
どうして別れたのか、理由すら忘れそうになった
そしてもう逢いに行けないと分かると、どんどんと逢いたい気持ちが膨らむのだ。
あの優しく甘い声が耳に触れ、堰き止めた気持ちが溢れる。
蒼の事が好きだ。
多分、ずっと好きだ。
蒼、ごめん。
ごめん、酷い事言って傷つけた
そう、電話で伝えれば良かったと今更ながら後悔した。
頬に涙が伝って、点滅する信号機が赤く滲んで見えた。
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