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第86話 夜をこめて(最終話②)

 自由になった桜井の手が腰にまわった、そしてゆるりと確かめるように手のひらを滑らせて肌に円を描く。ぞぞっと震えがきて、身体を少し捩った。その瞬間に桜井の手がぐっと腰を掴んだ。  「羽山さん、すみません」  意固地になっていた心と体を引き剥がすように、桜井が身体をぐいと引き寄せてた。ずるりと身体の中から桜井が出ていく感覚に「うっ」と声が出る。  「すみません、後でちゃんと。一度、落ち着かせてください」  横にした身体を後ろから抱きしめ、両脚の間に桜井は今しがた中から引きずり出したモノを挟み込んできた。「すみません」と、謝りながらも止める気は無いようだった。後ろからずりずりと蟻の門渡りあたりを擦られる。  「やめろ」と言葉にしてみても体が抗っていないのは桜井には伝わっているだろう。ぶるぶると小刻みに震えがくる、限界を超えるのはすぐだった。あっという間に連れて行かれて絶頂を迎えてしまう。  「お前は…」  「すみません、あのままでは、羽山さんに酷くしてしまいそうで」  今日はいつもと何かが違う、変だと分かっている。その原因が目の前の若い男、自分が置いてきたはずの男。その男は自分がまるで、こちらを傷つけたように謝っている。  横たえられた体を覆うように桜井が移動する。両手を髪の中に埋めるように差し込み、頭の形から首の流れまで確かめるように触っていく。  ああ、この男の手は暖かい。その温もりに体の中心で頭からつま先までぴんと張っていたピアノ線のような緊張がほぐされていく。緊張の糸がつんと切れて、指先からも力が抜けていった。  「さくらい……」  「少しだけ確かめさせてください。本当に私は羽山さんをこの手の中に抱いているのですよね。実感がなくて、あまりにも長かったので」  「なっ……」  「そうでした、今日は主導権は羽山さんでしたね。何をして欲しいですか?どうして欲しいですか?何でも言ってください」  さっきの仕返しかと思ったが、桜井の目は優しさに満ちていて焦らしている気など毛頭もないようだった。  「お前の好きにしろよ……」  大きなうねりの様な欲求は、解放された欲とともに消えていた。  「はい」と答えた桜井はゆっくりと身体を重ねてきた。「ああ、この重さだ」と実感する。何度も何度も繰り返される口づけに一度吐き出し収まったはずの熱がまた上がってくる。  「桜井、もう……」  肩を押し戻そうとした時にぐいと強く手を掴まれた、両手を今しがたまで桜井を縛っていたネクタイで纒られた。  「え?」  「少し今日は大人しくしていてくださいね。朝まで大切に大切にしますから」  触られるところ全てに火が灯りぐらぐらと揺れる。バランスの悪いブロックを積み上げたように揺れる。口の中を桜井に蹂躙される。上あごの奥まで舌先を入れられる、侵食(おか)される。呼吸も苦しくなり涙が滲む。そして自分の内側が奥まで埋めて欲しくてひくひくと蠢いているのが分かる。  「もう、桜井……」  「羽山さん、その顔は反則ですよ」  その瞬間に一番埋めて欲しかった隙間に桜井が押し入ってきたのが分かった、あれだけ頑なに桜井を拒んでいた身体は飲み込むように桜井のモノを受け入れていた。  「う、まずい、あっ、羽山さん、お手柔らかに願います」  桜井が笑った気がした。その顔をみて何かがすとんと落ちた気がした。その後、意識がうっすらと消えそうになる。  『ああ、左足が宙に浮いている。揺れている、自分の身体の位置や感覚がない。手はどこだろう。そうか頭の上に二つ並んで縛られているのか。もう全て感覚が曖昧で溶けそうだ』  「んああああっ」   これは誰の声だろう、ぼやけた意識の中でそう思った。自分の声がどこから出ているのかさえ分からなかった。  ……ん。  いつの間に落ちてしまったのだろう。重たい瞼を開くと、桜井の寝顔があった。一体何がおきたのかよくわからないと思うほど昨日からの記憶が曖昧だ。  体を起こすと「いった」と声がでた。身体中が痛い。無理に起きる必要はない、もうひと眠りするかと時計を見る。早朝だと思っていたのに既に午前九時をまわっていた。  「え?こんな時間?桜井!おまえ、起きろ」  横で寝ぼけている男を揺り動かす。  「……あ、羽山さんだ。本当に羽山さんだ」  寝ぼけた顔で腰を掴むとベッドにずっと引き戻される。  「馬鹿、チェックアウトするぞ。電車の時間に間に合わなくなる」  首筋に顔をうずめて人の身体をすんと嗅いでいる馬鹿を押し退ける、携帯がぶるぶると震えているのだ。  『羽山?あ、御園だけど。明日の有給申請してあるし、そこのホテル二泊で予約してあるからな。いいところ邪魔できたとしたら嬉しいんだけど』  くくっと御園は笑うと電話を切った。ああ、こいつにも甘やかされていると思う。誰にもすがらない、独りでも大丈夫だと思っていたのは単なる思い上がりだ。誰かに支えられてようやく立つことが出来ている。  もうこの年齢だ、もう下っていくのみと思っていた人生はまだまだ上り路半ばだと思い知らされた。自分を覆っていたつまならいプライドも見栄も桜の花びらの様にはらはらと落ちて散っていった。  そこに残されたのは新緑の若芽だけだった。 【完】

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