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第漆話
出逢いは最悪だった。
土砂降りの雨の中、敗走兵だった孝則は山中を転げるように走っていた。金で雇われただけの立場だったから、主人に忠誠を尽くすという考えは一切ない。負けを感じた瞬間、味方の軍の状況など確認もせず戦場から抜け出してきた。
幼い内に両親を亡くし、身寄りのない身ではその日生きて行くだけで精一杯で、まっとうな仕事に就く事は不可能だったから、孝則は常に情勢を見極め勝てる戦をする将の元で日雇いの兵士として生き抜く術を、自然と手に入れている。
そこに行き着くまでには、人殺しこそしなかったものの汚い事は散々やってきた。もっと馬鹿だったら、何も理解せずにただ暴れられたらきっと楽だった。けれど残念な事に、孝則は自分のしてきた事が生きる為だったとしても決して許される範囲の事ではない事がわかってしまっていた。
そうやって生きてきたのだから、今更この身如きどうなっても構わないと思っていた。だからこそ、思想も野望もなくただ戦場に飛び出していけたのだ。
腕にはそこそこの自信があったし、頭も悪くない方だと自負している。簡単にやられる事もなかったし、時には強将の首を取る事さえあった。
どの国に行っても、疎まれるどころか歓迎される扱いは、今までの生き方と比べるまでもなく良いものだと思えた。ただ、どんなに名を挙げようと直接召抱えようとする者はいなかったと言う点を除いては。
孝則の過去がどんなものだったか知る者はいなくても、どんなものだったか想像する事は出来たのだろう。力任せの戦い方ではなく、状況判断に長けた戦い方をする孝則には、何処かの間者ではないかという疑いは常について回り、そんな男を武功だけで簡単に取り込むほど危険な事は無いと、誰もがわかっていたからだ。
最初はいつか自分を雇ってくれる領主が現れるのではないかと期待もしていたが、そんなものはすぐに夢物語だと気付いた。気付いてからは特に、孝則は同じ国に長くいる事を避けるようになり、ますます孤独感は募る。
その分、勝ち負けの情勢を読む力は格段に上げていたはずだったのだが……。
「どこで読み間違えたんだ?」
利き手の右腕に切傷を受けており、流れ出る血の色はすでにどす黒くなっている。上手く力の入らない手を力なくぶらりと下げながら、それでも山中を逃げ惑っている自分に笑えて来た。
「死ぬ事なんて、何でもないと思ってたんだがな」
誰に言うでもなく、それでも声を出していないと不安になった。このままここで死ぬのかもしれないと考えた途端、それは嫌だと本能が拒否する。なんて勝手な奴だと自分でも思うが、逃げる足は止まらない。
どの位走っただろうか。戦いの音はもう遙か遠くに微かに聞こえる程度まで小さくなり、戦場からは完全に離脱した事を示していたが、必死に生きようとする足はいつまで経っても動き続ける。
けれど腕からの出血は時間を追うごとに増える一方で、止血が必要だと判断する力が奪われている事に気付く前に、身体がついて行かなくなった。
冷静に考えれば、ある程度逃げたところで処置をしなければいけなかったのだ。今まで負けた事がないと言う事の恐ろしさを、今更ながら実感しながら孝則はその場に崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か?」
「……う」
「まだ意識はあるか。よし、もう少し生きてろ」
落ちゆく意識の端で、若い男の声が聞こえた気がした。もしかしたら敵方の武者かもしれない。だけど孝則の身体はもう自分の意思で動かせる状態をとっくに通り過ぎていた。
生きていても死んだとしても、どうせ行き着く先は地獄しかない。もうどうにでもなれと自暴自棄になりながら、孝則は意識を手放した。
目を覚ました場所は、罪人を捕える牢屋でもましてや地獄などでもなかった。
一番に飛び込んできた目の前に広がる高い天井は温もりのある木製で、転がる背中を支えるのは冷たい石畳などではなく柔らかい布団だ。布団の下は上等な畳が敷かれており、孝則の身分では一生お目にかかれないはずの環境だった。
鉛の様に重く節々が軋む身体を起こす事は叶わず、首だけをきょろきょろと動かして今の自分の状況を確認してみるが、どうやら理解できそうもない。そんな結論に辿り着き、深い溜息と共に再び最初の天井を見上げたところで、廊下と部屋と区切っていたらしい襖がふいに開いた。
「起きたか?」
「…………」
声のした方向に顔だけを向けると、そこには少年から青年の狭間に居る様な若い男性が、盆を手に入って来るところだった。
服装は仕立ての良い袴姿で、戦場でしか武将を見た事のない孝則にとっては見慣れない姿ではあったが、それが決して身分の低い者の服装ではないことはわかった。きっと孝則のような雑兵を雇う側の人間だろうと推測出来る。
立ち振る舞いも綺麗で、そんな世界とは無関係で生きてきた孝則にはまるで天女でも現れた様に感じて、思わず見とれたほどだ。
男が孝則の額に不意に手を乗せ、自分の額との熱の差を比べている姿はこの世のものとは思えず、本当はまだ目が覚めていないのかもしれないと疑わずにはいられなかった。
「うん、熱は下がったみたいだな。水、飲むか」
「……はい」
「ちょっと起こすぞ」
男の腕が孝則の首の後ろに回る。そっと頭だけを持ち上げられ、口元に持って来てくれたらしい湯呑が差し当てられた。孝則がごくんと嚥下した事を確認して、男がまたそっと頭を枕の上に戻してくれる。
「ありがとうございます」
「右腕の怪我は大した事ない。安静にしていればすぐに治るそうだ」
血が流れ過ぎていたから、危なかったけどな。そう付け足して笑った男の顔は、今まで出逢ったどの人間よりも魅力的で、人を惹きつけるというのはこういう者の事を言うのだろうなと漠然と思った。
それだけで警戒を解く訳にはいかなかったが、どうやらこの男に助けられたのは間違いない。途切れる前の記憶に残る最後の声と、一致もする。
「助けて頂いて、ありがとうございました」
「余計なお世話だっただろ」
「…………!」
放っておいて欲しかった、そう思う気持ちがあったのは確かだ。死にたくないともがいてはいたが、早く楽になりたいと願う自分も確かにいたのだから。
それをいきなり悟られて驚きを隠せない。独りで生きて行く処世術として、無表情を保つというのは必須だった。例えどんな辛い事があっても、逆に嬉しい事が合っても、決して顔には出さない。孝則が間者だと疑われる一つの要因であり、孝則をここまで生かしてきた切り札でもあった。
それを会ったばかりの、しかも自分より年下らしき若者に見破られるなんて。
「ま、でも俺はお前を死なせるつもりはないから。諦めて回復してくれ」
にっこり笑ったその笑顔は有無を言わせる隙など与えてくれず、孝則は無言を保つので精一杯だった。
それを肯定と受け取ったのか、いやそれ以外の答えを受け付ける気がないのかもしれない、男はそのまま立ちあがる。
「もう少し寝ていろ。右腕以外は軽い切傷や打身だけだ、もう丸二日眠りっぱなしだったから体力は回復し始めてるだろう。しばらくしたらすぐに動けるようになる」
「あ、あの……」
「何だ」
「お名前を、教えていただけませんか」
「俺は秋良だ。……お前は?」
「孝則、です」
「ではまた後でな、孝則。夕餉前には起きてろよ」
病人への配慮か、それとも本当に孝則の素性について興味がないのか、どちらとも判断はつかなかったが、秋良はそれ以上孝則に何も聞かずそのまま部屋を出て行ってしまった。
思ってもいない事態に、孝則の頭も上手く働かない。見張りを付けられている様子もないし、何より警戒する位だったら助けなければ良かっただけの話だ。どうやら今の所ここは安全な場所らしいと言う事だけは理解して、孝則はそのまま吸い込まれる様に再び目を閉じた。
言葉通り、秋良は夕餉の時間に孝則の前に姿を現した。
とはいえ、孝則にその時刻はわからない。ただ、秋良が入って来る際に開けた襖の向こう側にちらりと夕焼けが見えただけだ。
孝則もこの時には随分身体も軽くなっていて、自力で布団から起き上がることが出来るようになっていた。右腕の傷は痛むが、箸は何とか掴める。まだ上手くは動かせず、綺麗に掴む事は出来なかったが、かき込む様に食べれば問題ない。
出された夕餉は、孝則が今まで食べてきた中で一番豪勢なものだった。何より驚いたのは、白米が出てきた事だ。捕虜……と言っていいのかどうかは分からなかったが、間違いなく客人ではない孝則の為に用意される食事にしては、立派すぎる。
何故か一緒に食べると言い出して、秋良の膳も同じ部屋に運び込まれ、聞かれるがままに孝則は自分の過去を語っていた。
秋良は孝則の言葉を遮るでもなく、同情も卑下もなく、ただ静かに聞いていた。
そして────。
「孝則、俺の下で働くか?」
「……はい?」
「お前なら、良い参謀になる」
「……すみません、意味が」
「ここに腰を落ちつけるのは、嫌か」
「いえ、嫌とかではなくて」
「なら決まりだ。今日からお前は俺の家来だ、勝手に出て行くんじゃないぞ」
「え、ちょ……」
孝則が混乱から立ち直る前に、何故か事は決定してしまった。そしてその直後、ものすごい勢いで部屋に掛け込んで来た家老によって、秋良がこの地の領主だと言う事を問答無用で知らされた。
この地の主たるもの、軽率な行動は……。とか何とか、至極もっともな説教を笑顔で軽くかわして、秋良は結局孝則をその身に引き受けた。
秋良の笑顔が最強の武器である事は、この後嫌という程知らされる事になる。孝則が最初に感じた様に天女の如き優しい顔をして、秋良は絶対に自分が正しいと思った事は曲げない。
家臣たちがことごとく反対する中、孝則が参謀職に就いた時も、戦いの最前線に飛び出して行く時も、そして自分を犠牲にして家臣や領民を逃がす時も、いつも秋良は笑っていた。
素性のしれない孝則に、この日以降いつだって全幅の信頼を置いてくれた。そんな秋良を好きになるのに、そう時間はかからなかった。
親愛から慕情に変わったのはいつだったか。
それを自覚してからも、孝則は気持ちを秋良に打ち明ける事は無かった。孝則にとって秋良は仕えるべき主であったし、大切であるからこそ勝手な想いを知られて困らせる事だけはしたくなかったから。孝則にとって、秋良は手の届かない気高い天女と同じだった。
そんな孝則の気持ちを叩き壊して来たのは、やはり秋良からだった。
秋良が領地の中で一番好きな場所、大きな桜の立つ丘。そこから夕陽で赤く染まる民の住む地を眺めるのが秋良の平時の日課で、それを連れ戻すのが孝則の日課でもあった。
その日も、いつもと変わりなく屋敷の中に居ない秋良を探して孝則は桜の丘に馬を走らせていた。「今日も殿様のお迎えかい?」「ご苦労様でございますな」等と、農作業を終えた領民達から気軽に声を掛けられるのにも慣れた。
秋良は身分の分け隔てなく民達と交流するから、自然と領民達とも仲が良いのだ。領民達が物怖じせず秋良に声を掛ける事に、最初の頃は驚いたけれど、そんな秋良だからこそ何の躊躇もなく孝則を拾えたのだろう。
丘の上に辿り着くと、秋良は桜の木の上に登っていつもの様に領地を眺めていた。
「殿」
「おー。来たか孝則」
「来たかではありません、もうすぐ夕餉のお時間です。お戻りを」
「毎日同じ事言うなって、お前もたまには登って来い」
「殿がお降り下さい」
「孝則、最近家老連中と言動が似てきたぞ」
「誰のせいですか」
「いいから、来いって」
「……今日だけですよ」
秋良の言葉に孝則が最終的に断れるはずもなく、乗って来た馬を秋良の馬の傍に繋いで、孝則も立派な桜に足を掛ける。
頂上付近まで登っていた秋良の近くまで辿り着くと、秋良から手が差し出された。伸ばされた手を遠慮がちに取ると、ぐっと引っ張り上げられる。
「見てみろよ」
「……すごい」
成人男性二人を支えて余りある太い枝に腰掛けていた秋良の隣に辿り着くと、そこの視界は広く開けていて、沈みかけの地上に落ちるかの様な真っ赤で大きな夕陽が、田畑を全面に染め上げていた。
それはまるでこの世のものではない様な幻想的な風景で、孝則は思わず感嘆の声を上げてしまう。
「だろ? この瞬間が一番いいんだ。皆が無事に一日を終えて帰って行くのも見られて、安心するしな」
優しく穏やかな瞳で、一日を終えた民達とその領土を慈しむ秋良の言葉に、孝則は自分の軽率な小言を反省するしかなくなった。
平和な景色があまりに眩しすぎて、孝則は俯く事でそれを逸らし、ぼそりと謝罪を口にする。
「……すみませんでした」
「何だ、突然」
「まさか、貴方がそんな風に考えてこの場所にいらしていたとは思いもよらなくて……。なんて勝手で気ままな行動をする領主なのだろうと、事情も知らず思い込んだりして、お恥ずかしい限りです」
「それはお前の判断のが正しいと思うぞ。俺はかなり勝手で気ままだし」
「少なくともお戻りの時間に関しては、殿のお優しい気持ちの方が大切だと感じました。夕餉の時間の方を少しずらすよう調整します」
「……お前ってさ」
「はい?」
「いや、俺はいい拾いモノをしたもんだなーって」
「……はぁ」
「つまり、これからもよろしくなって事だよ」
「それは、もちろんです。私は貴方のものですから」
「何、その最強の口説き文句」
「え? はぁ、えっと……その」
くすくすと笑いながら告げられた台詞に、孝則は自分の気持ちが漏れ出てしまったのかと焦った。その焦った様子が可笑しかったのか、秋良の笑い声が高まる。
そしてその笑い声が突然途切れたかと思うと、孝則の視界が秋良だけで埋まった。
夕焼けの赤に彩られて、なんて綺麗な人なのだろうと半ば呆然とした感想を抱いている間に、孝則の唇に温かい感触がふわりと触れた。驚いて目を見張る孝則に、にっこりと笑いかけた秋良の表情があまりに優しくて、孝則は無意識のうちにその身体をきつく抱きしめていた。孝則のその行動に、秋良は驚いた様子もなく、やがてその背中に手を回して抱きしめ返してくれる。
秋良には孝則の気持ちが言葉にしなくても伝わっていたのだと言う事は、後々になってからわかった事で、本当は孝則から打ち明けてくれる事を待っていたのだと責められたのも、その後の事だった。
そしてその日から、夕暮れ時の桜の木の上は二人の愛を育む時間に姿を変え、誰もが寝静まった長い夜が待ち遠しくなる関係になるまでに、そう時間はかからなかった。
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