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第3話

 執事が車寄せに滑り込んできたリムジンのドアを重々しく開ける。  夏物の麻地だが、しっかりと藍色のスーツを着た男が些か緊張した面持ちで車から降りた。加賀谷隆人だ。さすがに企業の社長だけあってそれなりに風格はあるが、ミハイルには負ける。マフィアのボスの威厳は半端じゃない。こちらも麻のオフホワイトのスーツをしっかりと着込んでいる。とは言えネクタイは無しだ。スタンドカラーの鮮やかな青のシャツだからまぁ様にならないわけでもない。 「遠いところをようこそおいでくださいました」 「この度はお招きにあずかりまして...」  ニコライが丁重に頭を下げ、ミハイルが右手を差し出す。その背後からひょこっ......と小鹿のようなつぶらな瞳がこちらを見た。 「遥!」 「小蓮(シャオレン)、久しぶり!」  淡いピンクのカッターシャツにベージュのパンツ、それにやはり薄手のベージュのジャケットを羽織っていた。夏とは言え、日本に比べるとロシアは気温が低い。少し肌寒いのか、少し唇の色が悪いような気がした。その背後から、桜木とかいう例の護衛の青年が少し不機嫌そうな顔で頭を下げた。  俺は気にせずに遥をハグして、細い背中を軽く叩いた。  「元気だったか?」 「もちろん。な、隆人」 「それにしては、ちょっと顔色が優れない気がするが......」  ミハイルもつぃ...と遥に歩み寄って愛らしい面を覗き込んだ。 「遥さまは初めて飛行機に乗られたので、少々乗り物酔いなされたようで.....」  桜木がチラと隆人の様子を伺う素振りで言った。 「初めて?......それで10時間のフライトはきついな。エコノミー症候群大丈夫か?エコノミーじゃないだろうけど....」 「大丈夫。ファーストクラスだから、結構歩き回ったし......。それより離陸するときの音、凄いのな。着陸ん時もGの懸かりかた、スゴい」    少年のように可愛らしげな笑みを浮かべて興奮気味に語る遥に、俺もミハイルもつい頬が緩んでしまった。 「成田空港を朝の10時頃出て、10時間以上も飛行機に乗ってたのに、ロシアはまだ日暮れなんだね」 「時差があるから......」  眩しそうに太陽を見上げる遥がとてもいじらしくて可愛かった。 「時差ボケで眠いだろう?......ハバロフスクからシベリア鉄道で来れば良かったのに」  ついうっかりと漏らした俺に隆人が苦笑いしながら答えた。 「時間がかかりすぎます。それこそ何日もかかってしまいますよ」 「そうだけど......タイガの深い森の中を突っ切って走るんだ。車窓から眺める日の出や日没は最高にイケてるぜ」 「小蓮(シャオレン)は乗ったことあるの?」  遥の瞳がキラリと光った。 「あるさ。ずっと昔だけど、ハバロフスクからモスクワまで乗った」 「すげぇ.....」  感嘆の息を漏らす遥とは違って、傍らでミハイルがマフィアそのものの目付きで俺をジロリと睨んだ。 「誰と乗ったんだ」  ドスの効いた声に俺は溜め息混じりに答えた。 「オヤジとだよ。サンクトペテルブルクに来る時の話だ」  オヤジと一緒に二等車両でユーラシア大陸の東の端から西へと色んな話をしながら旅をした。俺には忘れられない思い出だ。  見上げるとホッとしたようにミハイルの顔が緩んでいた。嫉妬し過ぎだぞ、お前。オヤジが連れてきてくれなかったら、お前とだって会えなかった。 「中に入ろう」  小応接室にお客達を案内し、青々と輝く湖面を傍らにコーヒーを楽しむ。やはり遥は少し眠そうだ。目配せすると、ミハイルが小さく頷いた。 「手荷物は客用寝室に運んである。長旅で疲れたろう。坊やはディナーまで少し休むといい。案内してやりなさい」  ミハイルの言葉に遥が小首を傾げて遠慮がちに上目遣いで俺を見た。 「遥は隆人と一緒の部屋だ。護衛の兄さんの部屋は隣に用意してある」  俺の言葉に遥がホッとした笑顔を見せ、傍らに立っていた桜木が礼儀正しく九十度に頭を下げた。 「お気遣い感謝いたします。遥、案内していただきなさい」 「うん」 隆人の言葉に立ち上がった遥に、俺も立ち上がって、くいっ.....と親指を立てて合図した。 「行こう、遥」  小さな頭がこくりと頷き、絹のような髪がさらりと揺れた。  オヤジどもを置き去りに、大理石の階段を昇る。踊り場でニコライが深々と礼をして、俺達の背中を見送った。 「ここだ。この別荘で一番眺めがいいんだぜ」  深い葡萄色のベルベットのソファーもキングサイズのツインベッドも通り越して、遥は開け放った窓に走り寄った。 「すげぇ綺麗だ......」  沈みかけた夕陽に湖面が赤く色づいていた。と、遥が怪訝そうな顔で俺を見た。 「開けておいて大丈夫なのか、窓?」 「ここはプライベート-エリアだからな。無関係な車両も人間も入れない。ミハイルが滞在中は上空も警戒空域で、ドローンで監視してるし、湖には巡視艇が何隻も周回している。まずは賊は入り込めないし、襲われることはない」  俺の説明に目を真ん丸くしながら遥が訊いた。 「それでも入ってきたら?」 「俺の出番だな」  俺はミハイルの最も近くにいる。そして誰よりもミハイルを守りたいと心から思っている。 「風が出てきたな。窓を閉めて、少し暖かくして寝むといい。湖の夜は冷えるからな」  俺は心配そうに佇む桜木を一瞥して、部屋から出、重いオークの扉を閉めた。  ディナーは小鹿のローストだ。ミハイルが自分で仕留めたやつだと言ったら、きっと隆人も遥も驚くだろう。猟銃を背に獲物を誇らしげに抱えて笑うミハイルは最高にカッコ良かった。  俺はそんなことを思いながら自室に戻った。

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