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第1話

「人には人の分というものがあろうもの。私は兄さまの末が案じられてなりませぬ」  東京市浅草区浅草暁天町(あさくさぎょうてんちょう)にある新歌舞伎の芝居小屋、躍進座の舞台の上では、小説家の渡辺(わたなべ)舟而(しゅうじ)が書き下ろした脚本『夢灯籠(ゆめどうろう)』が上演されていた。  旧来の荒唐無稽な歌舞伎と違い、新歌舞伎では文学的な表現を求め、高学歴な文筆家たちが競って脚本を書き下ろしていて、舟而もその一人だった。  青い布と白い布を揺らめかせただけの静かな舞台の上では、質素な身なりをした姫君が、派手な身なりをした兄の背中へ心を込めて話しかけている。 「兄さま、どうぞ、どうぞ。お願いにござりまする」 「妹のお前に指図されるいわれなどない!」  兄は袖にすがりつく妹を振り払い、妹は床に両手をつく。  高等師範学校を経て中学校で英語教員をした経験がある舟而は、今までの歌舞伎のよさと、シェイクスピアのよさの両方を取り入れながら、持ち前の夢とも現実とも判じがたい世界に観客を誘い、登場人物を遊ばせる。 「マァ、マァ、お待ちくださりませ」  歩き出した兄を追って、勢いよく立ち上がった妹役に、舟而は違和感を覚えた。 「あんな派手な子だったかな」  兄の派手な暮らしを諌める妹役にしては、存在そのものが賑やかで煩すぎる。何より静かに描いた世界観が吹き飛んでしまいそうだ。  稽古や初日に観たときは、すっきりとした演じ方が好ましいと思ったのだが。  上演後の客席も、今日はただ賑やかな拍手で済まされていて、初日の舟而が描いた静謐な世界から現実世界へ我に返って湧き上がるような拍手とは違っていた。舟而も首をかしげながら、ただ役者の労をねぎらうためだけの簡単な拍手をした。 『夢灯篭』が終わり、次の演目までのつなぎとして舞踊が披露される時間になった。  演目は『汐汲(しおくみ)』で、花道から思い人の在原(ありわらの)行平(ゆきひら)が残した烏帽子と狩衣を羽織った海女役の女形が現れる。  女形の割にはすらりと背が高く、着物の内側で楚々と運ばれる足のすんなりした踵が美しい。狩衣から赤色の振袖、桜色の振袖へと早変わりして三段傘を開いて踊る姿は、若竹のようなしなやかさとさわやかさがあった。 「ああ、あの子だ」  踊る姿に違和感はなく、病気や怪我をしているようには思えない。なぜ妹役を降りたのか。  舟而は不思議に思って楽屋を訪ねた。 「なるほど、声変わりですか」 親方と慕われている座元の説明に納得した。 「今朝から急に声が掠れてね。男である以上、仕方のないこと。舞踊以外の演目は休んで稽古に励むしかないんですが、今回の『夢灯篭』は評判もよかったし、途中で降板したのがよほど悔しかったみたいでね」  親方の視線を辿ると、親方の斜め後ろに控えて正座しているものの、涙が止まらずしゃくりあげている浴衣姿の少年がいた。首の後ろには落としきれていない白粉がところどころ残ったまま、漏れてくる嗚咽もざらついた音がしている。 「掠れる子は本当に掠れますからね。落ち着くまでは無理をしないのが一番です」 「ほら、白帆(しらほ)。先生もそう言ってらっしゃるよ」  声を掛けられた少年は一瞬だけ顔を上げると、畳の上の手拭いを掴んで投げて、また両手で顔を覆って号泣した。 「白帆!」  叱りつける親方をまあまあと手で制し、舟而はのんびりした声を出した。 「これは贔屓筋(ひいきすじ)への配りものかな」  銀杏鶴という鶴の広げた羽が銀杏の形をした紋が、手拭いの右下から左上に向けて斜めに連なって飛んでいる。左下には、二代目銀杏(いちょう)白帆と書かれていた。  舟而は親方にニッコリ笑って見せて、 「せっかくだから頂いていきましょう」  手拭いを丁寧に畳むと背広の内ポケットへ入れた。

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