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第2話

 舟而は浅草とつなぐ吾妻橋(あづまばし)のたもと、本所(ほんじょ)竹之郷町(たけのごうまち)に小さな家を借りて住んでいる。  寮や下宿を渡り歩いてきた舟而は身の回りのことはからきし駄目で、家を借りるのと同時に五歳年上のお(なつ)という女中を雇っていた。同じ村の出で、赤ん坊の頃から知っているから気安い。 「この手拭い、粋ね。二代目銀杏白帆さんですって。ご贔屓の役者さん?」  庭に洗濯物を干すお夏に話しかけられて、縁側にいた舟而は読書の手を止めた。 「躍進座の女形だよ。声変わりで、可哀想に声が掠れてしまってね。僕が書いた芝居を降板したんだ。贔屓という訳じゃないけど、あの年頃の子は放っておけないような気持ちになるね。習い性かな」  舟而は困ったふりをしながら、くすぐったそうな笑顔を陽の光にきらめかせた。 「中学校の先生だった頃は、それこそ毎日たくさんの男の子たちのことを心配していたんだものね。あんまり喉がこわい(・・・)なら、すぐそこの『弘法さんのお灸』を据えたら、いくぶん効果があるかも知れないわ」  お夏は気持ちよく音を立てて布を張り、物干し竿に掛けた手拭いのしわをのばす。 「『弘法さんのお灸』か。よくお参りの人が来てるようだけど、そんなに効果があるのかい」 「あたしなんか、手の親指と人差し指の間にお灸を据えると、なかなか効くように思うわ」  舟而は目玉だけを動かして左斜め上をしばらく見ると、読みかけの本を閉じた。 「散歩に行ってくる」 「はい、いってらっしゃいまし。お灸は本堂に向かって左側のお堂で授けて下さるわよ」 「何も言ってないだろう」 「おむつを替えたこともある(しゅう)ちゃんのことだもの」  明るく笑うお夏に背を向けて、舟而は下駄をつっかけた。 『弘法さんのお灸』は人気があるらしく、浅草から吾妻橋を渡ってきた人たちが、次々と寺の門をくぐって行く。一緒になって境内へ足を踏み入れると、本堂に向かう石畳の上は行列ができており、捧げられた線香の煙は濃く立ち上っていて、境内全体に清い香りがした。 「白帆」  本堂の前で一心に手を合わせる白帆の姿が目に飛び込んできた。  白帆は両手を強く合わせ、きつく瞑目し、合わせた手に額を擦り付けるように祈っていた。  顎の高さで切りそろえた断髪が、白帆の青白い顔を際立たせる。 「さて、どうしたものかな」  舟而は呟きつつも迷うことはなく、賽銭を投げ入れると白帆の隣に立って一緒に手を合わせた。  わざと肩が触れる近さに立ったので、白帆は不審そうに片目を開けた。 「舟而先生!」 「ほら、もっときちんと弘法さんにお願いしなさい。僕も一緒にお願いしてあげるから」  白帆は慌てて合掌し、長いまつげを伏せて瞑目する。  舟而はその素直な姿を見て口元に小さく笑みを浮かべ、同じように合掌して瞑目した。  お灸を授かり寺を出る頃には、白帆の顔色も幾分よくなっていて、白い頬にはわずかに赤みが差していた。 「白帆の好きな食べ物は何だい?」 「甘い物なら全部好きです」  白帆は切れ長な目を細めて笑う。かつての教え子たちを思い出させる笑顔だった。 「そうかい。では、何か甘い物を食べに行こう。どこへ行こうか」 「みつ豆ホールでみつ豆が食べたいです」 「では、吾妻橋を渡って浅草へ行こう」  みつ豆は、洒落た洋銀の器にサイコロ状の寒天や求肥、甘く煮たあんずと共に盛り付けられて、白いエプロン姿の女給の手で運ばれてきた。 「いつも白蜜にするか、黒蜜にするか迷うんです。この間、黒蜜にしたから、今日は白蜜にしようっと」 「では僕は黒蜜にしよう」 「先生、ひょっとして天の邪鬼なんですか」 「生まれてこの方、素直だという誉め言葉はもらったことがないから、そうなんじゃないかな」  白帆は素直に声を立てて笑った。

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