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第7話

 舟而は毎週月曜日から土曜日まで、日日新報の文化欄に『芍薬(しゃくやく)幻談(げんだん)』を連載している。夜な夜な百花園で逢瀬を重ねる男と女。その楽しさ、切なさは、果たして夢か現か。  連載終了まであと三か月。読者からの声を考慮しつつ、その声を気持ちよく裏切れる着地点を探しつつ、万年筆を走らせる。 「先生、失礼します。焼きおにぎりを作ったんです。おやつに召し上がってください」  白帆が運んできた醤油味の焼きおにぎりは、中までしっかり味が染みて、表面は少し焦げ目がついて、ぱりっとした歯触りと香ばしさがある。 「うん、美味い。白帆が作ったのかい?」 「はい」  そういえば昼飯を食べていなかった。お夏に見抜かれ、白帆が差し金として仕向けられたかと思うが、いちいち確認するのも癪に障る。  何も訊かず、ただ目の前の白帆手作りの焼きおにぎりを堪能した。 「とても美味しいよ。また今度作ってくれ」 「わかりました。嬉しい!」  あっという間に全部を食べ終え、温かいほうじ茶を飲んで口の中をさっぱりさせると、舟而の気持ちも落ち着いた。 「白帆、一つ訊いてもいいかい。今朝、『女にしてください』と言っていたけれども、それは一人前の女形として必要なことなのかい」  白帆は朱を掃いたように顔を赤らめ、お盆を胸に抱えた。 「はい。男と女の夜のことを知らないままでは、演じ分けが難しいんです。例えば結ばれる前と結ばれた後では、恋仲の二人の身体の寄せ合い方は違うと言われますけど、その意味も理由も見当がつきません。だから、せめて『芸の肥やし』としてでも、お願いしたいです」  白帆の真剣な眼差しに、舟而はしばし思案してから頷いた。 「僕は結婚するつもりはなくて、特定の相手を定めるつもりもない。だから本当に『芸の肥やし』の部分にしか協力できないけど、それでもいいかい?」  白帆も一呼吸置いてから、きっぱりと頷いた。 「はい」 「僕でいいんだね?」 「先生がいいです」 「わかった。夜のことは頭に入れておく。まずはこの家に慣れるところから始めて、追々考えよう。焼きおにぎり、本当に美味しかったよ。ごちそうさま」  舟而が笑いかけると、白帆もぎこちなく笑った。 「白帆、いずれの夜の約束として、証文に判子を捺そうか」  舟而は白帆の手首を掴んで引き寄せ、そのまま自分の腕の中へ抱いて、熱くなっている頬へ唇を押し付けた。 「ひゃっ!」 「白帆も僕の頬に判子を捺して」  頬を差し出すと、腕の中で伸び上がった白帆の唇で、そっと約束の印が捺された。  白帆の唇が頬に触れると、たちまちに舟而の身体には喜びが湧き上がった。舟而は白帆を抱き締め、黒髪に自分の頬を擦り付ける。 結婚しない、相手も定めない。それが自分で自分に課した戒めだ。  しかし、一度腕の中へ抱いてしまった白帆を手放すことはできなかった。  十一歳の年齢差、十五歳の白帆、自分への戒め、この家のどこかにいるお夏、窓の外の健康的な午後の光、路地で遊ぶ子供たちの無邪気な声。  自分にいろいろな現実を言い聞かせるが、効き目は薄い。 「先生……」  熱い吐息混じりの小さな声は艶ととろみを帯びていて、舟而は一層強く抱いてしまう。 「白帆」  視線が合って、磁石が引き合うように唇同士が近づいたとき、ガラリと玄関の開く音がした。 「ごめんください、日日新報の日比です」  舟而は肩を震わせて現実に戻り、一緒に驚いた白帆と二人で顔を見合わせてから、はじけるように笑った。  空気が緩んだ安堵から、なかなか笑いが収まらない。 「こんなに笑ったのは久しぶりだ! わはははは」 「あはは。私もです! 先生っ、笑いすぎですよっ」 「だって、とても緊張していたから」 「緊張されてたんですか? あはは」 「そりゃ、緊張もするよ。わはははは」  舟而は身体を二つに折って笑い、白帆はその背中をぱたぱたと叩きながら腹を押さえて笑う。 「先生、日日新報の日比様がおいでです」  お夏の声に、舟而はようやく立ち上がり、白帆の手を引いて立ち上がらせて、書斎を出た。

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