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第19話

「どうした、白帆?」  明かりを消した寝間で、白帆はめずらしく舟而に背中を向けて、床についた。 「何でもありません。ちょっとピアノの音に酔っちまっただけです」  そう、きっと。日比もピアノの音に酔ったのだ。きっと。  日比の言葉が何度も何度も思い出された。 ――わたくしがあなたを愛します。  明けて朝になっても、日比の言葉は白帆の記憶に鮮明に残り続けていた。  白帆は洗濯物を干し終えて、そのまま膝を抱えて庭にいた。  目の前では、白百合のつぼみが風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。 「……帆、白帆」  舟而の声がして、白帆が返事をするより先に、舟而が庭へ出てきて白帆の隣にしゃがんだ。 「『新・シェイクスピア研究』の三巻が届いたよ。書斎に読みにおいで」 「はい。のちほど」  白帆は袖で涙を吸い取って、ようやくそれだけ返事をした。 「どうした、腹でも痛いか?」  ぽんぽんとおかっぱ頭を撫でられて、白帆はまた涙をこぼしながら頭を左右に振った。 「いいえ」 「朝めしもあまり食べていなかっただろう。これをお食べ」  舟而は袂からキャラメルの箱を差し出し、白帆は一粒つまみ上げたが、口に入れることはしなかった。 「昨日、シベリヤとあんぱんとライスカレーをたくさん食べたので、お腹がいっぱいでした」 「そうかい。シベリヤとあんぱんとライスカレーを食べて、腹いっぱいになったのに、何か嫌な思いでもしたのか」 「何も。とても、楽しかったです」 「楽しかった割に、浮かない顔をしてるようだよ」 「たぶん、初めてベートーヴェンやショパンを聴いて、参っちまったんです。月光 ソナタや、夜曲の、……音楽で表される月が、とても綺麗でした」 「昨日の月も綺麗だった。見たかい?」 「見ました。吾妻橋のところで、日比さんに『月が綺麗です』って教えて頂きました」  白帆はこみ上げて泣いた。 「そうかい、日比君が、ね」  舟而は言葉を切って、白帆のおかっぱ頭を撫でながら、俯いて揺れる白百合の蕾を見ていた。 「日比君は、白帆にとってよい先生のようだね」  思いがけない柔らかな声に、白帆は舟而の顔を見た。舟而は微笑んでいた。 「どういう訳か、僕は日比くんからもらう宿題が途切れなしで、お前さんの相手をしてやれる時間が少ない。このまま日比くんに教えを請うのも一案だと思うよ」 「え……?」 「日比君のほうが、文化的なことはよく知っている。大人びて如才ないところもあるから、僕よりいいかも知れないよ」  舟而は白帆の頭をもう一度ぽんぽんと撫でると、それきり家の中へ入って行ってしまった。 「先生、助けてください……先生……どうして……」  白帆は一粒のキャラメルを握りしめたまま、抱えている膝に目を押し付けた。膝にじわじわと熱い水が伝わった。  白帆は下唇を噛んで門の前を箒で掃き、水を撒き、また箒で掃いた。  家の中はあらかた掃除をしてしまったし、洗濯物を取り込むにはまだ湿っていた。舟而がいる書斎で二人きりになって読書したくないし、土間や茶の間で敏いお夏に見抜かれるのもつらい。かといって踊りの稽古に出掛ける時間はまだずっと先で、居場所が見つけられなかった。 「どうして嫌な気持ちってのは、嫌な気持ちにおっかぶせてくるのかしら」  柄杓に汲んだ水を地面に叩きつけた。 「ご精が出ますね、白帆さん!」  明るく弾む声を掛けられて、白帆は顔を上げた。 「日比さん!」  日比は帽子を持った手を白帆に向けて振っていた。太陽の笑顔だった。  白帆は泣き顔と笑顔がごちゃまぜになって歪みそうになる顔を、懸命に堪えて、口元に小さな微笑みを作って会釈した。 「先生に新しい仕事をお願いしたくて伺いました。月花堂の真珠麿(マシュマロ)はいかがですか」 「好きです」 「それはよかった。ぜひ召し上がってください」 「ありがとうございます」  箒に掴まったまま、小さく頭を下げた。  日比は太陽の笑顔のまま、白帆の目をまっすぐに見て素直に言った。 「あなたにお会いしたかった。千里も一里の思いでした」  力強い言葉に、ついぞ白帆は心に灯がともるのを感じ、柔らかな笑顔を浮かべた。

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