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第24話
「ごめんください、日比です」
社名を名乗らないときは、白帆を迎えに来たときだ。
白帆は本をしまうと、舟而から顔を背けたまま、「行って参ります」と呟いて書斎から出て行った。
「だから何だ。よかったじゃないか」
舟而は呟いた。原稿用紙には押し付けた万年筆の先から濃いブルーのインキが広がっていた。
「では、白帆さんをお預かりします」
はつらつとした日比の声が書斎まで聞こえてくる。
庭の向日葵は、書斎の屋根越しに太陽の光を一身に受けて、眩しいように輝いていた。
午前中から白帆が日比に連れ出された日の昼は、お夏と二人でちゃぶ台を囲む。
「白帆ちゃんのいないお膳って、つまんないわね」
お夏は茶碗で受けながら、沢庵をぽりぽりと噛む。
「何、僕と二人は不満なの」
舟而は二人の間にあるお櫃から自分でご飯をおかわりして、急須から直接番茶を掛ける。
「二人きりのお膳しか知らなけりゃ、これで御の字よ。でもあたしたちは白帆ちゃんと一緒のお膳を知っちまったじゃない」
「白帆は声が落ち着けば、躍進座へ帰る。またお夏ちゃんと僕の二人の暮らしだよ」
舟而は一気に茶漬けを口の中へかっこんだ。
お夏は箸を止め、畳の上のどこでもないところを見て言った。
「来月、祥月命日なの」
「覚えてるよ。日にちをずらして墓参りに行こう」
お夏が死んだ夫の親族に遠慮して、月命日や祥月命日には墓参せず、別日にそっと手を合わせていることを、舟而はとうに承知している。
「今度の祥月命日が済んだら、あたし、お見合いするわ」
「見合い?」
お夏はうんうんと頷いた。
「ようやく気持ちが片付いたの。今なら次のところへ行けるって、そう思うんだわ」
舟而と目が合ったお夏は、目を三日月形に細めた。舟而も表情を和らげて、目を弓形に細めて見せる。
「そう。お夏ちゃんがそう思うなら、いいと思うよ。今度こそ、お夏ちゃんを幸せにしてくれる男のところへ行ってほしいな」
舟而の声は明るかった。
「だから、舟ちゃんも。……ね、後生だから、幸せになって頂戴。そうでなきゃ、あたし、安心して次のところへ行けないわ」
舟而は顔を覗き込んでくるお夏の目を見つめ返し、ゆっくりと小さく頷いた。
「夏がそう決めるなら、僕もそうするよ」
舟而は書斎の文机の前に座り、白帆の座布団を胸に抱えて、嘆息した。
「そうは言っても、僕はキャラメルをぶら下げるくらいしか、能がないからなぁ」
文机の抽斗を開けて、凧糸を十文字に絡げたキャラメルの箱に手を触れる。
気が付くと陽は傾いて、空は橙色に染まり、ねぐらへ帰っていく烏たちが鳴き交わす声が響いていた。
「ただいま帰りました」
白帆の静かな声が聞こえて、舟而は最後にキャラメルをもうひと撫でしてから、抽斗を文机に押し込んで、書斎を出た。
「まあ、帝劇まで行ってきたのね」
茶の間へ行くと、白帆が肩を落とし、おかっぱ頭を俯けて座っていて、お夏が番茶を淹れてやっているところだった。
「おかえり、白帆。おや、シェイクスピアを観てきたのかい」
ちゃぶ台の上には『リヤ王』のプログラムが載っていた。舟而は早速白帆の隣に座って手を伸ばし、頁を繰る。配役を見ると、女性の役は女優が演じているようだった。
「女優劇でした」
俯いたおかっぱの内側で、掠れた声でそれだけ言うと、白帆はぽたりと涙をこぼした。
「私、やっぱり女になりたいです」
舟而は口を開いて、言葉が出てこずに口を閉じた。
白帆は舟而の姿に、おかっぱの頭を左右へ振った。
「もう、先生に女にしてくださいなんて申しませんっ!」
「えっ」
舟而は白帆の背中へ伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
「お夏さんも、きっと嫌な思いだったでしょう、ごめんなさい」
「えっ」
「最初はわからなかったけど、先生とお夏さんが夫婦のよな間柄だっていうのは、今はもうちゃんと承知しています。……でも、でも。せっかく日比さんがお相手しますって言ってくだすったのに、私はお願いする勇気が持てませんでした! 女になりたいのに、矛盾してます。どうしよう!」
白帆はこみ上げて、両手で顔を覆ってわっと泣いた。
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