23 / 94

第23話

「あたしは舟ちゃんみたいに難しいことはしてあげられないけど。でも、そういうときもあるっていうのはわかるつもりよ。あたしも渦に巻かれたよな感じがしたこと、あるわ」  子守唄を歌うような優しい口調でお夏は言った。 「でもね、白帆ちゃん。お願いだから、捨て鉢にだけはならないでね、捨て鉢にならなけりゃ大丈夫よ」 「捨て鉢?」  お夏の腕の中で顔を上げると、お夏は白帆の顔を見下ろして頷いた。 「そ。胸の中がぐしゃぐしゃして、全部を投げ出しちまいたいよな心持ちになることもあると思うの。でも、そういうときにどうなったっていいって、捨て鉢になってはダメ。歩きにくい疲れる道を歩いてるときほど、足元には気を付けなけりゃいけないのと一緒よ。捨て鉢になって上手くいく話なんて一つもないの。その瞬間は楽になれても、その先がずっと辛くなっちまうからね。いつまでも、いつまでも、捨て鉢になったときの自分を責めて、悔いて、生きて行かなけりゃならなくなるからね」  お夏は厳しい表情で、一つ一つの言葉を白帆の胸におっつけるように話した。 「……うん」  お夏はすぐ目を三日月形に細めて、背中を撫でてくれた。 「でも、白帆ちゃんは大丈夫。怖がることなんてないわ。こんなにいい子なんだもの、お天道様がちゃあんと見ててくれてる。今は苦しくても帳尻が合うときが来るから、だからどうか捨て鉢にならないでね。約束して頂戴」  小指を立てて差し出され、白帆は細い小指を絡めて頷いた。 「さ、お菜を作っちゃいましょ。白帆ちゃんはお顔を洗ってらっしゃい。ごぼうはもう一本あるから、早く火が通るように、ささがし(笹掻き)にして、きんぴらにしちゃいましょ」 「はい」 「白帆ちゃんは本当にいい子ね。大好きよ」  両手で頬を挟まれ、揉まれて、白帆は照れ笑いをした。 「ふふふ。お夏さんには敵わないです」  白帆は切れ長な目尻に一粒涙を浮かべながら微笑んだ。  白帆が舟而の元へ来て丸三か月が経つ。  今朝の舟而は蝉時雨で目が覚めて、汗ばんだ頬に黒髪を貼りつけて眠る白帆の寝顔を見つめて過ごした。 目覚ましが鳴って白帆が起きる前に急いで布団をかぶってやり過ごし、白帆のあとに起きたふりをして身支度をし、白帆が買ってきてくれた油揚げの焼いたものに醤油をかけて朝食を食べ、散歩をして弘法さんに手を合わせてから、書斎へ入った。  白帆は散歩に誘ったがついてこなかった。最近はずっとそんな感じだ。  そして最近は、弘法さんに何を願っているのか、舟而自身もよくわからない。 「白帆の声の掠れが長引いてほしいなんて、馬鹿げてる」  ――この家に来た日、僕はこの書斎で白帆と抱擁し、互いの頬に接吻しあった。  ――「女にしてください」と言う白帆を、僕が抱き締め、約束の接吻をしたんだ。  舟而は原稿用紙に向かいながら、ぎりぎりと腹の底にそう書きつけた。 「だから何だ。最初と話が違ってくることなんていくらでもある。でき切らない約束をした自分が悪い! 浮かれた自分が悪い。僕は誰も定めちゃいけない。思い出せ!」  頭を振って、舟而は万年筆をインキ瓶へ突っ込んだ。 「失礼します」  無機質な小さな掠れ声が聞こえた。  掃除と洗濯を終えて書斎にやって来た白帆は、突然万年筆の手入れを始めた舟而の姿に目をくれることもなく窓際に寄って、膝の上にシェイクスピアの『真夏の夜の夢』を広げながら、庭へ顔を向けていた。  書斎の窓は北向きだから、日光を求める向日葵は白帆に顔を向ける。その向日葵に白帆は微笑みかけているような様子だった。  あの洋琴大演奏會以来、日比は舟而の仕事の進捗とは関係なく、この家の玄関の戸を開けて、白帆に直接話し掛けて、外へ連れ出すようになっていた。 「わたくしも、白帆さんの見聞を広めるお手伝いをさせて頂きます。白帆さんにはご了解を頂きました」  静かに宣言した日比は、舟而の前では表情を変えないが、買い物の途中で一方的に二人を見たと言うお夏によれば、白帆に向けて向日葵のように笑っていたという。  今、白帆が見ている庭の向日葵には、日比の笑顔が重なっているのかも知れない。 「だから何だ。むしろ、よかったじゃないか」  自分は白帆の気持ちには応えないのだから。  舟而はインキを吸い上げた万年筆を原稿用紙へぐしゃぐしゃと走らせた。

ともだちにシェアしよう!