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第22話

 日比は白帆の肩を抱き、自分の身体へ寄りかからせた。 「先生は『結婚するつもりはなくて、特定の相手を定めるつもりもない』と、そう仰っているんでしょう。それはお夏さんがいるからじゃないですか」 「あ……」 「お二人がどういう理由で入籍されないのかは、わたくしにはわかりませんけれど、わたくしが原稿を取りに伺うときに垣間見るだけでも、お二人は心まで寄り添っていて、主人と女中などという隔たりのある関係じゃないことは、一目でわかりますよ」  お夏の両親がよくない店のたたみ方をして、舟而とお夏の故郷では今でも名前を聞くと嫌がる人がいる、だから盆暮れも村へは帰らない。  舟而から聞いた話を白帆は思い出した。 「先生は、結婚できないんだ。お夏さんとの結婚は故郷の人に反対されるから」  白帆の呆然とした呟きを、日比は拾い上げる。 「あのお二人は結婚しようとしたら反対に遭うんですか? なるほど、だから祝言を挙げないで、奥さんのことを女中なんて肩書きになさるんですね」 「そっか、そういうこと……」  白帆は風呂敷包みをぎゅうっと抱き、日比は白帆のその指が白っぽくなるのを目の端に捉えた。 「もしご夫婦の間にいて息が詰まるようでしたら、わたくしがいつでも連れ出して差し上げます」  日比は銀縁眼鏡の奥の目を細めた。 「ありがとうございます」 「またすぐお迎えに上がります。今度は何を観に行きたいか、考えておいてください」  白帆が見送った雷門の電停で、日比は白帆の二の腕を掴んで引き寄せると耳打ちした。 「好きです。わたくしが愛するから、泣かないでください」  白帆は黙って頷いた。  白帆が日比と別れて吾妻橋を渡っていると、荷運びの車にどやされた。 「ぼーっとしてんじゃねえよっ! どいた、どいた!」  慌ててよけて、地面に手と膝をつき、通りすがった人に助けられて、俯いたまま両手をたたき、膝を払った。 「あんた、だいじょぶかい? 気を付けて歩くんだよ」 「はい、ありがとうございます……」  帰宅しても気づくと時間が経っていて、お夏の高い声が土間に響く。 「白帆ちゃん、お鍋っ! 焦げ臭いわよ!」  そら豆のさや剥きをしていたお夏が駆け寄って来たときには、煮ていたごぼうは山火事に遭った丸太ン棒のようになって、鍋の底に焦げ付いていた。 「えっ、あっ、わっ! あっつっ!」  鍋の取っ手に直接触れてしまい、慌てて手を離し、触れられて均衡を失った鍋は白帆めがけてひっくり返ってきた。間一髪で飛び退いたものの、焦げたごぼうとひっくり返った鍋が土間に飛び散る。 「ごめんなさい。ダメにしちゃった」 「ごぼうはいいけど、白帆ちゃんは大丈夫? 火傷したりしなかった?」  女性らしい柔らかな手で白帆の細い両手を包み込み、目を三日月形に細めて白帆の顔を覗き込んでくれる。 「お夏さん、優しい」 「まぁまぁ、どうしちゃったの、この子ったら」  白帆は気持ちのままに素直に泣いて、お夏に抱き締められた。白帆にはない柔らかな身体だった。 「私も、お夏さんみたよな人になりたい。なりたい……」 「何言ってんの。あたしなんかより、もっといい人に憧れなさいよぉ」  言いつつ、お夏は白帆を抱き締めたまま、優しく優しく頭を撫で、背中をさすってくれた。 「私、どうしたらいいんだろ……。自分がどうしたいのかも、わかんなくなっちまいそうで」  お夏は土間と廊下の段差に白帆を座らせ、自分もその隣に座って、白帆の肩を抱きながら話した。 「白帆ちゃん、苦しいのね。あんたは健気で一生懸命で、あたしのほうが泣けてきちまうわ」  お夏は袖口で左右の目尻を拭う。その目尻にはまつ毛が影を差し、温もりのある色気が宿る。  小さく首を傾げる、視線を落とす、瞬きをする、白帆を見て眉間にしわを寄せて眉尻を下げる。白帆の目に映る、夏のすべての仕草が女のものだった。

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