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第44話
「私がっ、私が悪いんですっ! 私がっ! 私がっ! お夏さあああんっ」
「落ち着きなさい、落ち着きなさいって! 落ち着けっ!」
羽二重餅は白帆が振り回す手を巧みにかわしながら、「おい、煮え湯を持って来い」と記録係に指示を出した。
何をされるのかと思えば、両肩を上から強引に押されて元の椅子に座らされ、湯呑茶碗に丁字 が浮かんだ湯を突き出された。
「いいか、これは煮え湯だ。火傷しないように気を付けて、少しずつ、でも一息に飲みなさい。全部の話はそれからだ」
茶碗は熱くて持てず、教えられて不調法に茶托ごと持ち上げて、火傷をしないようにという一点に意識を向け、ふうふうと吹きながら煮え湯を口にした。砂糖が入っているらしく甘味がして、白帆は言われたとおりに煮え湯を少しずつ少しずつ、羽二重餅に仁王立ちして睨みつけられる前で全部飲み干した。
「はあ……」
指先までぽかぽかと温まって身体が解れ、一瞬でも煮え湯に気を取られて自分の考えから離れたことで、気持ちは落ち着きを取り戻していた。
「いい子だ。こういうときだからこそ、しっかりしなさい」
「はい。相済みません」
「まあ、あなたは夏さんの胸の内は知らずに先生のところへ行ったんだろうし、そんなに自分を責めないでくれたまえ。人間は、人と人との間に生きているんだから、互いに何の関係もなしなんて訳にはいかないよ。あなたの芝居を見て、心を動かされる人だってたくさんいるし、その一々をあなたがどうこうできるってことじゃない。全ては受け取る側の心持ち次第なんだ。こう言っちゃ何だけど、これも寿命さ。心に固く決めた人は、どれだけ引き止めても、説得しても、引き返してはくれない。ありがたくないことにあのあたりは自殺の名所で、私も呼び掛けたことは何度もあるけど、この人は旅立つんだとわかってしまうことがあるよ。人の命はどうにもならないもんだ」
取り調べのはずが慰められて、あとはおそらく羽二重餅が意図的に芝居の話に逸らしてくれて、白帆は演じたり歌ったり踊ったりしながら、長い時間をコンクリートの小間で過ごした。
何時間も過ぎ、廊下で人の話し声や足音がいろいろして、ようやくドアが開き、コンクリートの小間から出された。まず廊下を歩いてきた舟而と目が合った。
舟而は原稿が進まないときのような顔で、いつものように左手を自分の髪に突っ込んで掴んだらしい、左の髪だけが突っ立っていた。
「先生、お疲れ様でございました」
舟而はうんうんと頷くだけで一言も発しないので、白帆もすぐに黙った。
羽二重餅と、目つきの悪い背広と一緒に、一階の北向きの部屋へ行く。
「こちらで法に則って荼毘に付せさせてもらいました。身元確認のために着物の袂をちょっと切らせてもらいましてね、ご確認ください」
白い綸子の雲紋様だった。冬にもかかわらず浴衣のような裏地のない単衣(ひとえ)仕立てで、縫い目は大きく、荒く飛ばした縫い方をしてある。
「最後の夜、お夏さんは自分でこの着物を仕立てたんだ。お守り袋を縫うのにくけ台なんて、いらないもの。この着物を縫って、くけてたんです、きっと。どんな思いを……、どんな思いをなすって、ご自分の最期の白い着物を……っ」
白帆は綸子を胸に抱き、その場に膝を突いて、人目も憚らずに号泣した。肩を抱く舟而の指が食い込んで、その痛みだけを頼りにようやく立ち上がった。
「まあ、よかったです。お迎えが来てくれてね。連れて帰ってあげてください」
羽二重餅が骨壺をそっと撫でた。
骨壺は何の布も着せられずむき出しで、白帆は涙を拭くと、信玄袋から花紺色の風呂敷を取り出した。
「寒くないようにしましょうね、お夏さん」
白帆は振り返って手を振る羽二重餅に会釈したが、舟而は骨壺を抱え、頬を紅潮させて、振り返ることなく警察署を出た。
そのまま、どかどかと足を踏み鳴らし、肩をいからせて、日没間際の温泉街を歩く。
「まったく参ったよ。僕がお夏ちゃんを殺したって決めて掛かっているんだもの。正直に言うまで、好きなだけ泊まっていけってさ! どれだけ人のことを疑えば気が済むんだか」
「ひょっとしたら、帰りの汽車がなくなる時間まで警察に足止めをして、温泉にお金を落としていくようにと、そういう仕組みなのかも知れません」
隣を歩きながらすまし顔で白帆が言うと、舟而は白帆の横顔を見てから破顔した。
「そうか、僕たちは思う壺って訳だ」
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