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第43話
こういうとき、羽二重餅みたいに声を張っては、わざとらしさが出る。白帆は声を押さえ、心がけてゆっくりしゃべった。
「私、お夏さんの歩んでらした人生があまりにもお辛いことだったんで、昔についてこちらから伺ったことは一度もないんです。『先生と姉弟なんですか』って一言訊けば、簡単に教えて頂けたかも知れませんね」
そっと切れ長の目を細めて見せた。
「ふん。まあ、生まれてすぐ養女に出てりゃ、本人たちも姉弟っていう気持ちは薄いかね」
「そういう境遇になったことがないので、わかりませんけど」
白帆はさらりとおかっぱの黒髪を揺らした。
「で、あんた、書生ってことは、部屋を与えられて住み込んでるんだろう?」
「はい。書生部屋はないので、夜は先生と同じ部屋で寝てますが」
「夜、同じ部屋で寝ているなら、先生が夜中に部屋を出て行くようなことはなかったかな」
「厠へ行くとか?」
「夏の部屋に入っていく姿は見なかった?」
「は? ないです、ないです! 先生はずっと私と一緒に……、その、一緒の部屋に寝てらっしゃいます」
白帆がおかっぱ頭をぶん回すのを見て、羽二重餅はまたふんと言った。
「わざわざ姉弟であることを隠しているなんて不自然だから、夫婦として暮らしているのかと思ったんだけど」
「そんな関係だったら、私はすぐに分かりますよ」
「お夏さんが誰かと駆け落ちということはない?」
「なかったと思います。先生の身の回りの世話を教えるために、私につきっきりでしたから、逢い引きなんてする時間はなかったはずです」
「先生と夏さんと三角関係の縺れだったんじゃないのか」
「とんでもない!」
今度こそ話すことがなくなって、白帆は調書に名前を書き、拇印を押して、さらに羽二重餅が持ってきた、白帆の役者写真にサインを入れた。
「二代目銀杏白帆丈とこんなに長い時間お話しできるとは、こういう仕事も悪くない」
「そんなふうに言ってくださるなら、よござんした」
しかしそこから長い時間、待たされた。
「先生はまだまだたくさんお話をされているんでしょうか」
「あなたと違って成人男子だ。こちらも細かく話を聞かなきゃならない」
「さよですか。昨日も寝ないで原稿を書いてらして、お疲れなのに。大丈夫かしらん」
「あなたが先生を心配するなんて、あべこべだね」
「ふふ。先生は、人を心配させる才能もおありなのかも知れません。お夏さんにも、風呂屋のおばあさんにも、八百屋の奥さんにも、煙草屋のおばさんにも心配されてます」
白帆が冷たくなった茶碗に唇を触れさせながら、小さく肩を竦めると、羽二重餅は腹の底から明るくはっはっと笑った。
「それは色男っていうんだよ。色気のある男っていうのは、女を惚れさせるんじゃない、はらはらと心配させるんだ。女は心配させる生き物に弱い。心配して世話するうちに気付けば深みに嵌って、一緒にそこいらの崖から飛び込んだりしちまうんだ。まったく参るよ」
「さよですか。警察さんのお仕事も大変でいらっしゃいますね」
白帆は静かにねぎらった。羽二重餅はその同情を逃さず静かに斬りかかる。
「それで、お夏さんってのは、どんな人物だったんだい? やっぱり世話好きな情に厚い人だったのかい?」
「はい。頼りがいのあるお姉さんでした。私のことも、弟のように可愛がって下さいました」
「じゃあ、どうして死んでしまったんだろうね」
「どうして……」
自分と先生が一緒になったので、お夏の居心地を悪くさせたのではないか。という考えが一番先に来た。
しかし、舟而にしっかりしなさいと焚き付けて、自分たちをまとめてくれたのもお夏だし、白帆と舟而が引き留めないようにと、わざわざ一芝居打ってくれたのだから、そこをさらに疑うのはお夏に失礼なような気がした。
「わかりませんけど、ひょっとしたら……」
白帆の呟きに、羽二重餅はわずかに身を乗り出した。
「前の晩に『お互い、幸せになりましょうね』って言われて、指切りをしたんです。命を絶つことが、お夏さんの幸せだったのかも知れません。よく、わからないですけど」
「ふうむ」
「『白帆ちゃんがしっかりしているから、先生を任せて安心して行ける』と笑顔でおっしゃっていました。気がかりは先生のことだけで、それさえなければ、ずっとあの世へ行きたかったのかも知れません」
そこまで話したら、白帆の頭の中は一気に回転して、色んなことが思い合わされた。
「私が書生として転がり込んだりしなければ、お夏さんはずっと先生を心配して、生きていて下すったかもしれない。私が押し掛けたりしなければ。私が、私が軽率なことを。いいえ、熟慮したつもりだったんです。声がだめになって、踊りもだめになって、役者としてどうしたらいいのか考え抜いて、必死の思いで先生のところへお願いに上がったんです! でも、でもっ、自分のことに必死で、浅はかでしたっ」
自分の思い詰めた行動が、人の行く道を変えてしまったのかも知れないと思うと、急に足元の床が消えたような恐怖心に襲われ、がたがたと身体が震え、滝のように落涙した。
「私のせいだっ! 私の、私の馬鹿が悪いんだ。私がお夏さんを死なせたんだっ!」
白帆はおかっぱ頭を掻きむしり、椅子から立ち上がってどこかへ駆け出そうとして、羽二重餅に背後から羽交い絞めにされた。
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