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第46話

「え?」  白帆は聞き返したが、舟而は遠くを見たまま話し続けた。 「夏を水揚げした旦那は、あらしの日に川へ落ちたんじゃない。夏が土手から突き飛ばしたんだって。夏は川沿いを泣きながら追い掛けて、旦那が草木に掴まって助かりそうになるたびに、その指を引き剥がして。周囲からは身重の夏が必死で手を伸ばして、旦那を助けようとしているふうに見えたらしいけど夏は必死で殺していたんだって。旦那が、お腹の子供の父親が僕ではないかと勘づいたから」  舟而はまるで松の木がお夏そのものであるかのように見ながら話した。 「僕たちは、とても浅はかだったんだ。好きだから、愛しているからなんていう理由で、思いを遂げてはいけない。そんな簡単なことを知らなかった。純粋な気持ちは強くて美しい、その一面しか知らずに突き進んでしまった」  白帆は目の前の景色が自分を取り巻いてぐるぐると回るような感覚に囚われながら、懸命に足に力を入れて、松の木に寄り添う舟而の姿を見ていた。 「夏が突然僕の下宿に来たのは、あらしから三か月も経った雪の日だった。あかく燃える火鉢の前で、静かに夏の話を聞いて、僕たちは一緒に暮らすことにしたんだ。全く上手くいかなかったけどね」  舟而は苦笑した。 「何だろうね。犯した罪の大きさに、押しつぶされたのかね。どうやっても晴れて夫婦にという心持ちにはなれなかった。かと言って姉弟を名乗ってもどこか他人行儀なからりとしないものが残るし、何度か住まいを変えて、ようやく主人と女中で落ち着いた」 「さよ、でしたか……」 「僕たちはそれでも、どこかいつも自分の命を危うく思っていた。この世が現実と思えず、すでに死んでしまっているような、弱々しい気持ちでいた。いつ死んだとしても痛みも苦しみも感じないんじゃないかと、そんなふうにも思っていた」  舟而は不意に晴れやかな笑顔になり、話し声も一調子高くなった。 「白帆が来てくれて、僕は突然に毎日のことが楽しくなったね。毎日がこんなに楽しくていいのかと、気が差して仕方がなかったよ。白帆が来てくれて本当によかった。夏の言う通りだ」  白帆は唾液を飲み込んで口を湿してから、おそるおそる舟而に問うた。 「本当によかったんでしょうか。私が転がり込んだことが、お夏さんを死に向かわせちまったように思えて、どうしよもないんです」  舟而は笑顔のまま、ゆっくり首を横に振った。 「どっちにしたって、早晩、夏は死んでいたよ。僕と死ぬか、一人で死ぬかの違いだけだった。白帆が来てくれたから、僕は生きながらえた。むしろ白帆は僕を救ってくれたんだよ」 「お夏さんにも死んでほしくはありませんでした」 「でも夏はずっと死にたがっていたからね。自分で殺したくせに、旦那のことを愛してた。だったら僕のほうを殺せばよかったのに。ばかな女なんだ、夏は。ばかな女なんだよ……」  舟而は長い時間、膝に目頭を押し付けて肩を震わせ、嗚咽を漏らした。  夏、夏。夏、ごめん。ごめん……、夏……。  はっきりとは聞き取れなかったが、ひたすらそう言い続けているようだった。  その間も、松林の間を鋭い風音がひゅんひゅんと鳴り響いていた。  白帆は目を大きく開け、喉をごくごく鳴らして自分の涙は全部飲みながら、地面に繁柾の下駄の歯を突き立てて舟而を見守った。  かなり長い時間が経ってから、ようやく舟而は手のひらでぐいぐいと左右の頬を拭って、洟を啜って、顔を上げた。  そして突然しっかりと目の焦点を合わせ、清明な瞳で白帆を見た。 「何ていう顔をしているんだい。全部嘘だよ。僕は小説家だからね、作り話をするのが仕事だよ。全部嘘だ」  白帆は頷かなかった。  舟而は立ち上がると、まるで見えない糸で引き寄せられてでもいるかのように白帆の前を通り過ぎ、真っ直ぐ海に向かって歩いて行った。 「先生っ! お待ちくださいっ!」  白帆は追いかけて、白い砂浜の上で追いつき、その腰に腕を回してしがみつく。  舟而は素直に立ち止まって、白帆のおかっぱ頭をぽんぽんと撫でた。 「白帆はもう、ほとんど声が掠れなくなったね。躍進座の親方の元へお帰り」 「先生は。先生はどちらへ」 「僕? 何を変なことを言っているんだい。僕だって帰るよ」  白帆に見せたのは、五月の風のように爽やかな笑顔だった。

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