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第49話(続・銀杏白帆といふ役者)
続・銀杏白帆といふ役者
「綺麗な月ですねぇ、お前さん」
新歌舞伎・躍進座 の女形、二代目銀杏 白帆 は、黒繻子 を衿に掛け、家紋を白丸に抜いた薄納戸 色の着物を着て舞台の上にいる。
「こんな月が見えるなら、ここもそんなに捨てた場所じゃありませんよ」
道具方が造作した縁側に腰かけ、隣に座る立役をゆっくり団扇で扇ぎながら、遠くを見上げて切れ長な目を細めていた。
「あら、蛍。ねぇ見ました? こんな月夜にも蛍って飛ぶんですね。ほら、あっちにも! すうっと、音もなく飛んでいく……」
白帆が片手で袖を押さえながら、細長い指をすうっと横へ動かすと、それだけで客席には夏の夜の帳が下りて、蛍の静かな光が飛び交い、草の青いいきれがむんむんとする。
二階席の一番後ろで左肩を壁に預け、腕を組んで芝居を観ている舟而 まで、夏の夜の湿気が首に絡みつくような感覚に襲われる。
「大化けしやがって」
舟而は片頬を上げる。
白帆が舟而のもとへ転がり込んでから三年が経つ。白帆は数え十八歳になり、観る人が息を飲むほどの美しさと、演技の幅の広さを身に着けて、名前で客を呼べる看板役者の一人になっていた。
舟而も新聞連載した小説『芍薬幻談 』を始め、新歌舞伎の脚本『夢灯籠 』、『人魚姫泡沫恋歌 』など、幻想的な世界を借りて人間のなまの姿を写す作品に定評がつき、今ではその特徴を持つ作品は『幻談物』と一括りに呼ばれるまでになっている。
さらに最近では、舟而の作品を求める人を指して『幻談中毒』という言葉まで生まれていて、舟而もまた名前で客を呼べる脚本家、小説家になっていた。
チョン、と柝 が鳴って、始めは間遠に、次第に早く調子を上げて柝が鳴らされると、客席からは大きな拍手と屋号を呼ばう声が飛び、幕が閉まり始めるにつれて段々に柝の音は間遠になって、幕が閉まるのと同時に音が止んで幕切 となった。
「僕は『幻談中毒』で駄目なんだ。分かっていても騙されて、幕切にぼんやりしちまう」
「僕なんか、『幻談中毒』に加えて、白帆中毒だもの、重症だよ」
白帆が磨いてくれた革靴の先を見ながら、客席で話される声を耳で拾っていたら、不意に話し掛けられた。
「渡辺舟而先生ですか」
「あ、はい」
うっかり返事をしたのがよくなかった。
気づいたときにはどこから湧いて来たのか、矢羽根の女学生から、黒い羽織を着た年増まで、多くの女性に押し迫られて、舟而は壁を背に爪先立ちをする羽目になった。
「今日の脚本もよかったですわ」
「噂通り、本当に色男でらっしゃるのね」
「『日本之中学生』に連載されている小説も、弟から借りて読んでいますの」
等々、女たちは口々に何かを言うが、誰も彼も甲高い声でかまびすしく、舟而の耳は上手く聞き分けられなくて、やたら耳鳴りがする。
舟而に向けて口をぱくぱく開くさまは、さながら池の鯉が餌を求めて陸に半身を乗り上げてくるようにも見えて、少々恐怖心を伴う。
「ありがとうございます、この後もお楽しみください」
舟而は薫風吹き抜ける笑顔で挨拶し、女性たちが頬を染めて小さく唇を開けた隙に逃げ出した。
『銀杏白帆丈 江 贔屓 寄利 』という文字と、鶴の広げた羽が銀杏の形をした銀杏鶴 紋が、白く染め抜かれた楽屋暖簾 をくぐると、すでに白帆はかつらを外し、地毛を押さえる羽二重も外して、化粧を施した顔にコールドクリームを塗りたくっていた。
「白帆、ご苦労さん」
「あら、先生。ご苦労様です」
白帆は鏡越しに切れ長な目を細めて見せる。
舟而は楽屋の隅に、白帆が専用として置いてくれている座布団へ胡座をかいた。
化粧を落として着替える間にも、ありがとござんした、こんちは、お先に、ご苦労さんと、いろんな人が声を掛けて来て、白帆は声だけだったり、身体の向きを変えたりしながら対応する。
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