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第50話

「白帆兄さん、ありがとうございました」  声変わりで掠れた声をした少年が銀杏鶴紋様の浴衣姿で挨拶にやってくると、白帆は身体ごと向き直って切れ長の目を細めた。 「はい、ご苦労様。目線、とてもよくなってた。ただ今度は手の振りが気が抜けちゃったね」  白帆が笑い掛けると、少年は膝の前に手をついたまま、気まずそうに俯いた。 「ふふふ。曲に合わせようとして慌てちまったかしらん?」  白帆の声掛けに、少年は首まで真っ赤にして頷く。 「目線も、形も、何もかも全部気をつけながら曲に合わせるのは難しいけど、明日から落ち着いてできるようになりましょう」 「は、はい」 「ちょっと一緒にやってみましょうか」  少年が楽屋の真ん中へ招じ入れられて、袖を持って立つところから、白帆は口三味線をつけ、手の振りを付き合ってやった。 「しっかり親指を内側にして、中指の先まで気を付けて。……そう、チン、トン、チン、トン、シャン、シャン、シャン。そう、できましたね。その調子で明日も頑張りましょ」  さっと袂を払い、少年は三つ指をついた。 「ありがとうございました」 「はい、ご苦労様。また明日ね」  微笑む白帆の顔を見て少年は小さく口を開けてぼんやりし、白帆が小さく首をかしげたのをきっかけに我に返って、畳に額が触れるほど深くお辞儀をして、そのまま顔を上げずに後ろへ向いて楽屋から駆け出て行った。  今度は「ご苦労さん」と声を掛けて来た立役を追って白帆が楽屋から駆け出る。 「あ、兄さん、ご相談が! 二場(にば)板付(いたつき)なんですけどね、もうちっと寄り添ったらどうかと思うんですよ。肩に手を添えたらしつっこいでしょうか」  立役と廊下で実際に小さな身振りと台詞で試してみて、白帆は立役の肩に頭を寄せて胸のあたりへ手を置くと決めて「また明日」と別れ、頭を乗せる角度など考え考え楽屋へ戻ってくる。  化粧を落として真珠のように深い場所から艶めく肌が露わになると、口の中で台詞や清元を小さく紡ぎながら、矢鱈縞(やたらじま)の紬の着物に着替え、竹を編んだかごを持ち、足袋を履いた足を繁柾(しげまさ)の下駄に滑り込ませた。 「先生、お待たせ致しました」 「あいよ」  舟而も白帆に向きを直して揃えてもらった革靴へ足を滑り込ませた。  躍進座の前には、舞台の定式幕(じょうしきまく)と同じ、黒・萌葱(もえぎ)色・柿色の三色を縦に並べたのへ、役者の名前を大きく書いた(のぼり)がずらりと並ぶ。  白帆は舟而と共に楽屋口から出ると、『二代目 銀杏白帆』と書かれた幟の下をすたすたと歩く。  隣の映画館は演目を書いた幟と、その一場面を描いた看板絵が掲げられ、向かいの寄席の前では法被(はっぴ)姿の男が威勢よく客を呼ばう。  道行く男性は洋装も和装もカンカン帽を被り、単衣の着物を着た婦人は日傘をかたげ、袴姿の女学生は肩をぶつけあって笑い合いながら、右へ左へ小屋の演目や番組を見て歩く。  白帆とすれ違う人は必ず何かを感じて振り返るが、化粧を落として、紬の着物を着て、買い物かごを持ち、足に馴染んだ繁柾の下駄で歩く姿に、あの二代目銀杏白帆とは確信が持てないまま後ろ姿を見送って、狐に摘ままれたような顔で首を傾げ、再び前を向いて歩き始める。  二人は混雑する浅草の街を抜け、吾妻橋(あづまばし)を渡る。  橋の中程まで行くと白帆は足を止め、隅田川(すみだがわ)を吹き渡る初夏の風に黒髪をさらりと揺らした。 「はあっ、風が気持ちいいですね」 「川の上には遮るものが何もないからな」  足を止めて振り返る浅草には、通称十二階と呼ばれる、鉛筆のように先端が尖った八角形の煉瓦造りの塔があり、橋の下を流れる隅田川では、風をはらんだ帆掛け舟が荷を運び、蒸気船がぽんぽん音を立てて人を運んでいる。  白帆は景色を見渡し、風に吹かれた黒髪を小指の先で頬から剥がす。舟而はその姿に目を留めた。  向かい風に細められる切れ長な目、目尻へ行くほど長い睫毛の影、黒髪の先が触れた赤い唇、僅かに首を傾げて髪を剥がす小指。  それらは白百合の雌蘂(めしべ)を連想させる。  清げなふりで甘く誘う香りと、知らず指を伸ばしたくなる透明で粘度を持った湿り気。  白帆の姿に、舟而は喉の渇きを癒すように唾を飲んだ。

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