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第51話

「……か、先生?」  舟而は肩を震わせ、背筋を伸ばした。 「あ、ああ。ごめん、聞いていなかった」  白帆は赤い唇でふふふと笑って言葉を繰り返す。 「今日のお夕飯、何がいいですか?」 「ああ。白帆が作ってくれるものなら、何でも馳走だ。任せるよ」  弓形に目を細めると、白帆はまた赤い唇でふふふと笑った。 「もう、先生ったらいつもそうおっしゃるんだから! さ、八百屋のおかみさんに聞きに行きましょ!」  白帆は笑って、舟而の背中を両手でぐいぐいと押す。  舟而は軽く頭を振ってから、白帆に押されるまま橋を渡り切り、本所(ほんじょ)区へ足を踏み入れた。  白帆は八百屋の前で足を止めると人懐っこく挨拶する。 「おかみさん、こんちは! 今日はどうしようかしらん」  新鮮な野菜がずらりと並ぶのを、頬に揃えた指先をあてて白帆は小さく首をかしげる。 「いい冬瓜(とうがん)が入ってるよ。葛がけはどうだい。仕上げに茗荷(みょうが)を入れるとさっぱりして美味しいよ。残りは次の日に短冊に切って塩で揉んで三杯酢か胡麻酢もいい。先生と白帆ちゃんの二人じゃ食べ切んないようなら、半分にしたげようか」  子供の頭を可愛がるように深緑色の冬瓜を叩いて見せられ、白帆は切れ長な目を細めた。 「じゃあ、冬瓜半分と茗荷をくださいな。……先生、今夜は冬瓜の葛がけにしますね」  振り返って舟而を見る白帆に、舟而は目を弓形に細めて頷く。 「ああ、楽しみにしてるよ」  冬瓜と茗荷を買い、舟而は重くなった買い物かごを預かって、今度は肉屋へ行く。 「こんちは、おじさん! 豚肉(とんにく)一斤くださいな」 「あいよ。白帆ちゃんは今日も別嬪(べっぴん)だね、おまけしとくよ。八〇銭ね」 「ありがと!」  白帆は舟而の藍色のがま口から慣れた手つきで銅貨を渡し、経木に包まれた肉を受け取った。 「日本広しと言えども、芝居小屋から買い物かごを提げて出る役者なんて、白帆くらいなものだろうな」  重くなった買い物かごを担いだ舟而が弓形に目を細めると、白帆も切れ長な目を細めて笑った。 「ふふふ。毎日浅草でご馳走を食べるなんて暮らしは、私には合わなくって」  帰宅するなり、白帆は幅の狭い前掛けを締め、左肩から斜めに片襷(かただすき)をして右の袖だけを軽く押さえ、夕飯の支度に取り掛かる。 「そう言えば、お前さんは割烹着を着ないね」  舟而は土間と廊下の段差に腰かけ、組んだ足の膝を両手で抱えて、夕陽に真珠色の頬を光らせる白帆に話し掛ける。 「冬の雀みたよに膨らんで身体に沿わない感じが、どうにも落ち着かないんですよ」  白帆は包丁を手に冬瓜の翡翠(ひすい)色を見たまま微笑んだ。 「一本気な性質は、そんなところまで出るのかね」 「どうなんでしょ。三つ子の魂百までなんて言いますし、身に染みてるかも知れませんね」  刃が触れるより先に食材が二つに割れるような鮮やかな包丁捌きで冬瓜を小さくして、煮出汁へ入れ、文火(ぶんか)でくつくつと煮込む。 「美味そうだ」 「豚肉の醤油漬けも、冬瓜の葛がけも、じき出来ますからね」  舟而は立ち上がると、白帆の背後に立ち、腰に手を回して、肩に顎を載せる。 「白帆はいつ出来上がる?」  耳に唇を触れさせながら、白帆に問うた。 「ふふ。夜更けでございます。先生に(りょう)って頂かなけりゃ、ね」  白帆は頬を赤らめて笑い、舟而はその赤い頬へ接吻する。 「今すぐに食べたい」  白帆の首筋に頬をくっつけながら、白帆が刻んだ茗荷を入れ、葛粉を水に溶いて流し込んで、焼麩を入れて、瓦斯(ガス)の火を止めるのを待ってから、舟而は白帆の胸の合わせ目へ右手を差し込んだ。

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