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第53話
「ご飯だよーっ、帰っといでーっ」
横丁から子供を呼ばう声がして、舟而と白帆は目を開ける。
二人は廊下の冷たい床板の上に涼を求めて倒れ込み、そのままぐっと深く眠ってしまっていた。
その時間はさほど長くなかったが、家の中に差し込む夕暮れ色には藍色が混ざり始めている。
「いちかけ、にかけて、また明日っ!」
「さんかけ、しかけて、また明日っ!」
勝手口の向こうの路地から子供たちの飛び跳ねるような声が聞こえてくる。舟而は目を弓形に細め、改めて白帆を抱き寄せて、その黒髪を鼻先で掻き分けながら訊く。
「お前さんも、日が暮れるまで路地で遊んだのかい」
「私は芝居小屋の子供ですから。大人たちに世話されて、ずっと芝居小屋で遊んでいました。小学校へ上がっても、同い年の友達と遊べたのは放課の少しの時間だけで、学校を出るなり小屋へ行って、疲れて眠りながらお顔をしてもらって、舞台の袖で宿題をやって、出番になったら舞台へ出て。小屋を仕舞うまでずっと袖や楽屋にいました」
「それはそれで楽しそうだ。賑やかだったろうね」
年嵩の父親や、親子のように年の離れた二人の兄や、多くの弟子たちが、おかっぱ頭の小さな白帆を追いかけ回して、強引に可愛がる姿が目に浮かぶようだ。
「ええ。純情可憐な赤姫も、貫禄たっぷりな揚巻 も、立ち回りを演じる妖艶な悪婆 も、全部袖から観て憧れました。それに役者は喜怒哀楽が激しいところがございますでしょ、だから楽屋で大人たちを見上げて過ごすのも、なかなか面白うござんした」
白帆は舟而の肩に頭を預け、裾を乱したまま、太腿まで露わにした足を舟而の足に絡めつつ、子供時代を懐かしむ。
舟而はその太腿をゆっくり撫でながら、白帆の思い出話に耳を傾けた。
「先生はたくさん遊びましたか」
白帆が触れる近さにある舟而の顔を見上げる。応えて舟而は白帆を見下ろし、目を弓形に細めて見せた。
「遊んだ。庭の老松の鱗を剥がして祖母にこっぴどく叱られたり、池に木っ端で作った筏 を浮かべて冒険に出るつもりがそのまま底まで沈んだり、鳥黐 を振り回してお夏の髪にくっつけてとっちめられたり。……本を読める年齢になるまでは、まあ、いろいろやったよ」
舟而も白帆の肩を抱きながら、目を弓形に細めて子供時代を懐かしんだ。
「その頃の先生と一緒に遊んでみたかったです」
白帆は幼い舟而を抱くように、舟而の身体へ腕を回した。
「今、これだけ遊んでいるのに、まだ遊び足りなかったかい」
舟而は白帆の口を吸い、白帆は舟而の首に腕を絡げ、そのままもう一度遊んだのちに、二人はようやく茶の間に落ち着いた。
お夏の位牌へ新鮮な水を供えて手を合わせてから、豚肉の醤油漬けの焼いたものと、冬瓜の葛がけをご飯と共に卓袱 台へ並べる。
「白帆は料理上手だ」
茗荷の爽やかな香気が効いた冬瓜の葛がけを口に含み、舟而は目を弓形に細める。
「先生は褒め上手です」
白帆は切れ長な目を細めた。
夜風が吹き込む縁側の向こうには微笑むような三日月が浮かんでいた。
「綺麗な月ですねえ」
「ああ」
風呂を浴びて帰って来て、白帆は寝間着姿で縁側に座り、舟而はその膝に頭を乗せて、紺碧の空を見上げる。
舟而は白帆の膝枕に寝転がったまま、白帆の役者の癖に荒れている手を掴み、その指の一本一本にそっと接吻した。
「お前さん、少し働きすぎじゃないだろうかね。役者がこんな手をして」
舟而は白帆の鏡台からクリームを持ってくると、その手に丁寧に塗り込んでやった。
「私、先生のお世話をするのが好きなんです」
白帆は頬を染め、俯いてそう言った。
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