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第54話

 次の日も、白帆は身拵えをすると、御飯を炊き、味噌汁を作って、さらに豆腐屋へ走って油揚げを買ってきて焼いたものを並べる。  朝飯が済むと、書斎に籠もる舟而に濃く淹れた煎茶をたっぷり淹れて、自分は両襷にあねさんかぶりで家中を上から下へ、はたきを掛け、箒を当て、雑巾を押して、糠袋で磨く。  さらに門の前も掃除して水を打ち、道行く人に挨拶をしてから、大急ぎで戻って来て買い物かごを手にすると、舟而の書斎の入り口に手をついた。 「では先生、行って参ります」 「ああ。あとで観に行くよ」 「お待ち致しております」  軽い接吻を交わして、白帆は繁柾の下駄に足を入れ、吾妻橋を渡って浅草の芝居小屋へ行く。  舟而は白帆が作っておいてくれた焼きおにぎりを食べて昼食を済ませると、原稿に目処を立てて、多くの観客が押し掛けている躍進座へ向かった。 「よっ、銀杏屋っ!」  大向こうから屋号が飛ぶ中、白帆は花道を右へ左へふらつきながら歩く。世話女房実ハ蛍の精を演じる白帆は、命が尽きる前に旦那の前からふらふらと飛び去って行くという筋立てだ。 「ん?」  いつものように二階席の一番後ろで、左肩を壁に預けていた舟而は、違和感を感じて壁沿いに最前列まで移動し、花道を歩く白帆の姿を目で追った。  ふらつくだけではなく、時々は床に手をついて、ほんの一ト息だが休憩しているようにも見える。  いつもより時間をかけて花道からはけて行くのを見送って、舟而は観客に気取られないよう気をつけながら楽屋へ走った。  舟而のほうが先に楽屋へたどり着き、白帆は何人もの弟子に支えられて戻ってきた。  二つ折りにした座布団を枕にかつらを外しただけ、羽二重も頭に巻いたままの姿で寝かせ、弟子たちが衣装の帯を緩め、扇子で風を送り、慌ただしくなった。  白帆は目を閉じ袖で口元を覆っている。 「白帆、どうした?」 「景色が独楽のよに回ります……耳が……」 「耳が?」 「右の耳が聴こえません」  真っ白なキャラコの白衣を着た医者が、同じくキャラコの丈長のワンピースを着て黒鞄を持った看護婦を従え、せかせかと楽屋にやって来た。  白帆は気分の悪さに目を閉じたまま、寝ているのに目が回って気持ちが悪い、耳鳴りがすると、ぼやけた声で訴える。 「白帆丈、まずは眩暈(めまい)を止める薬を使いましょう」  腕に点滴を受けてしばらく、少しずつ自分の頭蓋骨の中で脳みそが独楽みたいに回転しているような眩暈は治まってきたと呟いた。  次に医者は白帆の胸をあらわにして聴診器をあて、白魚のような手に触れて脈をとる。  左右の耳の中をライトを当てて覗き込み、両手で挟むようにして頬に触れ、下瞼を押し下げ、口を開けさせて奥まで覗いた。 「回転性の眩暈と耳鳴り。疲れが出たんでしょう。こういうときは栄養のある消化のいいものを食べて、気持ちを楽にして、よく寝るのが一番です」  弟子たちが濡らした手拭いで白帆の額を覆っているとき、楽屋を出る医者が親方に目で合図をして、親方に舟而も目で呼ばれ、廊下の端で立ち話をする。 「白帆丈の右耳の予後は、治る、今よりよくなるが聴力低下や耳鳴りの後遺症が残る、聴力を失ったまま耳鳴りも続く、いずれも三分の一ずつの確率です」  舟而は目を見開き、顔を突き出す。 「待ってください、それは三分の二の確率ですっきりとは行かないってことですか」  医者は頷き、舟而は眉間に皺を寄せた。 「対処が早かったから、幾分よくなる確率は高いですが、さらに治る確率を上げたいなら、とにかくしっかり休ませること。気持ちを楽にさせることも肝要です。その手配はできますか」  親方も舟而もしっかり頷いた。 「大丈夫です。少し寝れば治ります。降板なんて大げさです」  白帆が身体を起こそうとするのを、親方と舟而で押し留めた。 「無理を重ねたら、却って治りは遅くなるよ。親方がおっしゃる通り、ここは覚悟を決めて、しっかり休んだ方がいい」 「でも……っ、先生にアテ書きして頂いたお役です。最後まで私が演じます」 「白帆がいい子にしていたら、またアテ書きをしてあげるよ。ここで聞き分けなく、無理をするようなら、白帆が舞台に立つ脚本は書かないことにするよ」  優しく黒髪を撫でながら話して聞かせ、ようやく白帆は降板を了承した。

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