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第57話
寝間の真ん中に一人取り残されて、舟而は動けずにいた。
「芝居は大衆のための娯楽、舞台の上のお姫様が糠味噌臭くてはいけないという説は、確かに一理あるかも知れない……」
翌朝、舟而は茶の間で一人、残っていた芋粥を食べた。米粒は荒れ、昨夜のような舌触りのよさはなくなっていたが、それでも白帆が調えてくれた味は残っていた。
「見舞いに行ったら、会わせてもらえるだろうか。白帆に主婦みたいなことをさせた男だから、追い返されるだろうか」
右手に箸、左手に茶碗を持ったまま、芋粥を口の中に転がして、どこでもない場所を見ていたら、玄関の戸が開いた。
何人もの足音が廊下を走って来て、我に返ったときには四方を四人の男に囲まれており、何かを言うよりも先に、座布団の四辺を持ち上げられる。
「お嬢様が泣き止まないんです、このままじゃ病気が治るより先に、身体中の水がなくなって、干からびちまいます!」
舟而は箸と茶碗を持ったまま、座布団ごと車の後部座席に押し込められて、上野松木町、寛永寺近くの銀杏家へ連れて行かれた。
「さあ、お嬢様、先生ですよっ!」
銀杏家の二階の和室、白帆が手拭いを目に当てて泣いているところへ、舟而は座布団ごと、犬に褒美を与えるように落っことされた。
「先生っ!」
白帆が泣き濡れた顔を上げて舟而を見たので、舟而はとりあえす目を弓形に細めて見せた。
「おはよう、白帆。芋粥を食べるかい?」
白帆は泣き止み、さらには笑顔にもなって、舟而の首に腕を回して抱き着いてきた。
「食べますっ。お薬も飲みます、お医者様のおっしゃることも全部聞きます」
「おおおっ! すぐに朝飯を持って来い! お嬢様の気が変わらないうちに、早くっ!」
門人の誰かが階段の上から指示を出し、続けて階段を駆け上がってくる音がして、白帆の前に朝食の膳が置かれた。
焼きたてのトースト、ハムと卵焼き、キャベジ のサラド 、牛乳、そしてレバーのソテーが並んでいた。
「うっ……」
白帆は手拭いで鼻を覆う。
「お前さん、牛乳とレバーは苦手だからな」
舟而が苦笑する隣で、割烹着を着た門人が顔を突き出す。
「血が足りないのは、レバーがいいんですよ、お嬢様! それに牛乳は栄養がつきます」
貧血という診断はなかったように思うが、懸命な表情で訴えられては、逆らいにくい。
「すみませんが、砂糖をひと匙、牛乳に加えてやってくれませんか。甘ければ飲みます」
舟而が入れ知恵すると、すぐに実行されて、白帆は鼻をつまみながら牛乳を飲み干した。
「おおおっ! 先生のおっしゃる通りだ!」
「お嬢様が牛乳を飲んだぞ!」
「お嬢様、よくよく頑張りなさいました!」
「素晴らしいです、お嬢様!」
門人たちは深く頷きながら、パチパチと拍手をした。
さらにレバーのソテーも、門人たちが息を殺し、目玉だけを動かしながら見守る中、舟而が箸でつまみ上げて白帆の口の前に差し出した。
そして舟而が白帆の耳へ口を寄せて何かを囁くと、白帆は頬を赤らめ、小さく笑って口を開け、食べた。
「おおおおおっ! お嬢様がレバーを食べたぞ!」
「お嬢様がレバーを!」
「レバーを!」
観客はみるみる増えて、白帆が食事をすべて食べ終えたときには、部屋いっぱいの門人たちから盛大な拍手が湧き上がった。
「ということで。先生、お願い致します。この家へ越してきてくださいませ! 白帆の病を治すと思って、どうぞお願い致します!」
長兄と次兄、さらには門人たちまでが、揃って畳に手をついた。
「ええと……」
頭を下げる面々の向こうで、白帆は布団の上からいやいやと頭を左右に振って見せる。
「あの、できれば白帆は僕の家へ連れて帰りたいのですが……」
と話している途中で、畳に手をついている次兄に、仔猫を守る母猫のような目で睨め上げられた。
「……やっぱり、無理……です、よ、ね?」
気ままな次男坊の舟而も、自分の兄ならともかく、白帆の兄には逆らいにくい。
「はい、無理です。白帆はこの家で世話しますっ! 家事はさせませんっ!」
次兄が宣言するのへ、白帆がおっかぶせて声を張る。
「私は、この家の世話にはなりませんっ! 家事もやりますっ!」
舟而は腕を組み、天井に向かって息を吐いた。網代天井を見上げながら思案を巡らせ、兄たちと白帆を見比べながら口を開く。
「この近くに家を借りて引っ越す、というのでは駄目でしょうか。女中を雇って、白帆に家事はなるべくさせないようにします。白帆のことがご心配なら、昼の間に時々様子を見に来ていただ……」
「それはいいですね! 隣に家を建てましょう」
舟而が言い終わるより先に、長兄が決裁した。
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